ノックを三回、それから少し間を開けて二回。聞き慣れたノックの仕方に怪訝な顔をしながら扉を開けた瞬間に赤井の目に飛び込んできたのは、少し伸びた前髪と、悪戯に成功した子供のような笑顔だった。
「きちゃった」
そんなこと言うやつ本当にいるんだ。どこか現実味なくそんなことを思う赤井の内心とは裏腹に、確かに降谷零は、アメリカ国内にある赤井の部屋の前に立っていた。
今日だけでいいから泊めてください、という降谷の頼みに条件反射のように頷いてしまったのはきっと惚れた弱みに準ずるものだろう、と赤井は自分を冷静に分析する。降谷は呑気に赤井が淹れたコーヒーをソファに座って飲んでいた。淹れた、といったって、お湯を沸かしてインスタントコーヒーに注いだだけだ。彼の淹れてくれるコーヒーはうまかったが、それがないと生活に支障をきたすわけではない。一人でただカフェインを摂取するだけならインスタントで十分事足りる。客用として出すには事足りてはいないだろうが。そんなことを、ましな皿があるか戸棚の中を探しながら考える。まして、降谷に対しては。
昔から降谷を前にすると多少なりとも自分のペースを乱されてしまう。そう、多少なりともだ。調子が狂うなとは思うが、それでどうこうなるわけではない。乱されないわけではない、くらいの程度。
かつて、赤井は降谷に気があった。でもそれはかつての話で、今どうかと仮に尋ねられたとしてもよくわからないというのが正直なところだ。降谷の突然の来訪は正しくイレギュラーな出来事だが、用意がないからといって動揺することも悩んだりすることもなくインスタントのコーヒーを出すし、まちまちの皿とコップでも別にいいだろうか、とろくに悩みもせずに楽観的に考えている。
「なにも言わないできちゃったけど、恋人とか同居人とか、そんなかんじの人がいるならどっかホテル取ってから出ていくけど」
降谷の声に振り返ると、彼はソファに座ったまま体をひねって赤井を見上げていた。何も言わずに押し掛けてきたくせにあとからそうやって思い出したように引いてみせるところがおかしく、彼らしいなと思う。
「なに笑ってんの」
「いや、悪い、お行儀がいいんだなと思って」
「は?」
なにそれ、と降谷がふうっと空気が抜けるように笑った。そういえばいつ最後に使ったかも覚えてないような白い無地の皿が、どこかに眠っていたような気がする。たしか三枚くらいはあったはず。
「寂しい独り身だよ。わかってるだろうに」
「それはそうだけど。めちゃくちゃ気配を残さない彼女かもしれない」
「なんだそれは」
降谷は肩を揺らしてひとしきり笑ってから体のひねりをほどいて、赤井から目線を外してまたインスタントのコーヒーを口にした。
「机に置いてあるインスタントのほうがうまい」
降谷がぽつりと呟く。あ、インスタントとかも飲むのか。そりゃあそうだ、いつだって丁寧にお湯を沸かしてどうこうするほど暇じゃない。毎回缶コーヒーを買うにしても塵も積もればなんとやら、インスタントのほうが安上がりだともいうし。降谷は意外と、普通の男だ。手だけを突っ込んで戸棚のなかを探ると、マグカップのうしろに皿がすっかり隠れていた。
最初はぎこちなかったものの、結局のところ降谷は自分で折り合いをつけたらしい。その過程で彼がどんなことを思い、どんなことを考えたのかを赤井は知らない。知らないが、疲れを目許に残しながらも台風一過のように晴れやかになった顔を見たときに、自分たちの間にあった何かがぱっきりと音を立ててなくなったことを悟った。聞いたわけではない。そのことについて話したわけでもない。それでも別によかったのは、改まった話をするのもなにか違うと思ったからだ。だって、野暮だろう、そんなこと。
降谷も同じように思っていたのか、それとも本心はまったく違ったのか、そこのところは結局よくわからない。わからないが、凝り固まっていた彼の輪郭が柔らかくなったことは確かだった。それ以降、何回か飲みに行く機会があった。会議と打合せの間のひどく短い時間に二人で慌てて昼食をかきこんだりしたこともある。支給の弁当をぺろりとすごい速さで平らげる彼はどこにでもいる普通の男だった。居酒屋に行けば調子がいい日にはジョッキの生とハイボールを合わせて八杯とか、砂肝とぼんじりが好きなこととか、たれより塩のほうが好きなこととか。彼の食べっぷりが気持ちよくて、その場の流れで居酒屋に行くというのを何回やっただろうか。最初はどこかぎこちなく、少しやりにくそうにしていた降谷だって、いつの間にかどこまでも自然体になっていた。そう、だったと思う。
「シチュー」
ついさっきテーブルに置いた深皿を見下ろして、降谷がぽつりと呟いた。先ほどマグカップの後ろから発掘した平らの皿を使うのはやめた。ちょうど昨日の残りがあったし、わざわざ新しく作るのは面倒だし、時間もかかる。
「残りで悪いな」
「いや、押し掛けたの僕だし。昨日の?」
「ああ」
ふうん、と降谷は言い、文句があるわけでもないようでおとなしく赤井のところにくる。きょろきょろと物珍しげにキッチンを見渡してから、フォークとか運ぶよ、と言った。勝手に引き出しを開けたりするのは気が引けたのだろう。彼は良心的だから。
「じゃあ、これとこれ、あとグラスは適当に出していい。そのへんにあるから」
「わかった」
手渡すと、降谷はフォークを二本まとめて左手に持ち、赤井が目で示した先の扉を開けて中を右手で探り、たいした特徴のないノーマルなグラスを引っ張りだした。そういえばあんなのもあったな。なにでもらったやつだったろうか。
「赤井のは?」
「手前の寸胴なやつ」
「寸胴って、鍋じゃないんだから」
笑っていた降谷だったが、再び食器棚の中に視線を戻すと思わずぶっと噴き出した。装飾もくびれもなにもなく、底が大きく、そのまままっすぐ伸びているグラス。洒落たグラスの軽く二、三倍は入るのではないだろうか。なるほど寸胴か、と降谷は納得しつつ、実用性を重視する赤井らしいなと思う。
「わかったか?」
「うん、これですよね」
降谷のほうに顔を向け、赤井は頷いた。一杯が多いし、丈夫で使い勝手がいいんだ。降谷は二つのグラスをシンクの横に置き、フォーク二本と赤井が出しておいたつまみの皿(同僚に押し付けられたピクルスだ)を持ってテーブルに運ぶ。
「ねえ、赤井」
――降谷について、赤井にはいくつか不思議に思っていたことがある。そのひとつがこれだ。
「どっちが定位置?」
飲みに行ったとき、店に入ったとき、降谷はこうして赤井にどちら側の席に座りたいかを必ず聞く。最初からそうだったわけではなかったと思う。いつの間にか降谷は赤井に座りたい方を聞くようになっていた。ごく自然に。
壁側、と答えると降谷は頷き、それからフォークを一本ずつ、向かい合わせに置いた。聞けば満足するのか、座る位置を尋ねるくせにそれ以上なにかを言ってくることはほとんどない。たしか最初の頃は並んで座る際にも聞かれていたような気がするが、赤井が左側に座ったほうが利き手が当たらず落ち着くこと、それから赤井にはほとんどこだわりがないということがわかってからは聞かれなくなった。つまり、バーや回転寿司、映画に行ったときには降谷が右側に座るということだ。まあ、バーも映画も彼と行ったことはないし、この先もないのだろうが。
「何か飲むか?」
「じゃあ赤井とおんなじやつ」
「またバーボンだぞ」
降谷は控えめながらも声をあげて笑い、ほんとに好きなんだなと言った。それからキッチンに戻ってくる。
「氷ってどうしてるんですか」
「冷蔵庫の真ん中の段の左側にある」
「了解、赤井のも入れていい?」
「ああ、ありがとう」
製氷器が昼間の間にせっせと作ってくれたブロック型の氷を、付属のシャベルのようなものでざくざくとグラスに投入していく。毎回思うが、氷を入れるときけっこうな音がする。
「はい」
氷がやまほど入った二つのグラスに、赤井の家に常駐しているアーリータイムズの琥珀色がとぽとぽと注がれていく。
「食べようか」
「うん」
テーブルにつき、向かい合うとなんだか奇妙な心持ちがした。向かい合って食事をすることはまったく初めてではないが、ここがアメリカで、ここが赤井の部屋であるというだけで十分奇妙な状況だ。いただきます、という降谷の声につられて赤井もなんとなく口を開く。いただきます。
こんなところまできた理由を聞いてもよいのだろうか、とはたと思いこっそりと向かいに視線を投げた。降谷は顔を上げないまま、聞きたいなら聞けばいいのに、と不思議そうに言って、そのことに赤井は密かにものすごく驚いた。
「聞いていいのか」
「ええー、むしろなんで聞いちゃだめとか思うんですか、普通に聞けばいいだろ」
「そうか」
「そうだよ」
そうかあ、ともう一度頭のなかで呟いた。間延びした四音はしみじみと響く。
「なにしにきたんだ」
そう問うと、降谷はぽかんと口を開けて、いやお前さすがにそれはないだろ、と呆れた声で言った。言い方、ニュアンスっていったほうがいいか。まあ別になんでもいいけど。そうして降谷はしょうがないなあとでも言いたげに笑う。聞いていいと言われたから聞いたというのに。
目的は、と言ってもきっとだめなのだろうなと思う。きつい言い方だとか責めてるように聞こえるとか、降谷はきっとそういうことを言いたいのだろう。降谷のご機嫌を損ねないようなうまい言い方を考えたが、考え始めると途端に検索機能は動作が重くなってしまう。降谷はグラスの氷を揺らしながら赤井のことをじっと見ていて、それから、もういいよ、と言って楽しげに笑った。
「よくないって言ったのは降谷くんじゃないか」
「いや、別によくないわけじゃないですよ、声のトーンとかでわかるし。でもさあ、ほら、捉え方は人それぞれだから。気を付けるに越したことはないでしょう」
くっとバーボンを煽った降谷は、それからなんの話だっけと照れ臭そうに言った。
はじめて食事に行った日のことを思い出す。食事をとるときの人数が二人でなく三人であった頃を除けば、あの日が初めてだった。降谷にどっちの席がいい、と聞かれたのもその日が初めてだった。昔を勘定に入れてもそれまで聞かれたことは一度もなかった。それから降谷は必ずどちらの席がいいかを聞いたり、はたまた片方を指差してこっちに座ってもらってもいい、と尋ねてきたりしていたが、しかし本当はそこにさして深い意味はなかったのかもしれない。最初の質問はただ気まずい空気を少しでも払うためのもので、その後はただなんとなくいつもの例で聞いていただけなのかもしれない。結局、よくはわからないままだが。
勤続十年のリフレッシュ休暇を手に入れた降谷は、いい機会だからついでに有給も消化してこいと上司に霞が関を追い出され、それなら観光にでも行くかと渡米したらしい。でも言ってしまえばそれだって降谷曰くという注意書付きなので、本当のところはどうなのかを赤井が知る術はない。
明日になれば、降谷はもう日本に帰るらしい。いつ帰るのか、まだ何日かいるなら明日以降も泊まっても構わないと伝えたところ降谷はなんでもないことのように鞄から帰りのチケットを取り出しぴらぴらと振ってみせた。それが夕食の最中の話。
「赤井、出た」
声のほうを向けば降谷がちょうどシャワーを終えて出てきたところだった。ゆるいシャツとジャージみたいな長ズボンをはいた彼はいつもよりも気が抜けているようだった。髪はまだ濡れているのもそう思った理由だったかもしれない。
「ごめん、先入っちゃって」
「かまわないさ、めったにこない客なんだし」
「客」
降谷はぽつりと呟き、それからへへっと笑った。力の抜けた、やわらかい笑顔だった。
「明日ってなんか予定あるの」
「いや、ないが」
それだったらさあ、と言いつつ、首にかけたタオルで頭を拭きながら降谷は先ほど座っていたソファにすっぽりと収まった。まったく、降谷は風景に溶け込むのがひどく上手い。数時間前に初めてこの部屋にきたというのに、まるでこの部屋の一部のようだ。もう何度も、ここにきて、こうして話したことがあるとでもいうように。
「空港行く前に行きたいところがあってさ、赤井、時間ある?」
タオルの隙間から見えた青い目がまばたきをしてから赤井を見つめる。その一連の流れから、なぜか目が離せない。降谷の瞳の光がきらりとひかったような気がしたが、そう思ったのに、次の瞬間にはそんなものはどこにも残っていなかった。
「連絡してみるよ。ちなみにどこへ」
「桜、見てみたいんですよね」
さくら。思いもしなかった単語に一瞬シナプスが繋がるのが遅れ、一瞬返事が遅れると、降谷がにんまりと口角を上げた。「らしく」ないって、思った?
「いや、そうじゃない、ただ思いもしなくて。ポトマック川の?」
「そう。ベタだけど見たことないし、見ておきたいなと思ってさ」
「たしかに、いまは見頃だろうな」
「へええ。じゃあ人もすごいかな」
そう言って赤井を見た降谷の顔は、遠足前の子供じみていた。そわそわと、次の日を楽しみにしている顔。どうだろう、と赤井は答える。丁寧に言葉を選びながら、明日を楽しみにしている降谷の気持ちに水を差さないように。
「土曜日はイベントがあるから、明日はそうでもないんじゃないか」
「行ったことないんですか」
「これでも忙しいんだ」
「一応?」
「一応な」
降谷が楽しそうにぽんぽんと言葉を打ち返してくるのに安心する。タイミングが合ったから、ベタだけど実際に見たことがないから、いまは見頃だから。それらのいくつかの行きたい理由の裏側にあるのはきっと、次こられるかはわからないから、というものだ。自由に生きるのは難しい。チャンスは即座に掴まなければならない。
「他に行きたいところは」
「んー、特にないですね。明日の予定は赤井と桜を見て、空港に行って、帰る、そのみっつだけ」
そういうわけだから、なんとかお休み取ってくださいね、赤井。
俺様全開の言葉とともににっこり笑うくせに、冗談めかして言う言葉のその向こうには、無理はしなくていいよという遠慮が透けている。つくづく、優しい男だ。
朝、食べ物のにおいで目を覚ますのなんて、一体何年ぶりだろう。カタカタとやかんが鳴る、コーヒーのにおいがする。最後に使ったのはいつかわからないトースターのタイマーが焼き上がりを告げる。
「おはようございます」
キッチンに歩いていくと、降谷がタイマーを巻き直しているところだった。
「おはよう」
あいさつを返し、トースターに目をやる。いまさっき終わったときのチンという音がしていたと思ったが、聞き間違いだったろうか。そんな赤井の不思議そうな表情に降谷はくすりと笑って、焼き加減見誤ってたみたい、と言った。
「勝手にどうこうするのも良くないとは思ったんだけど、やかんとトースターと、コーヒー淹れるくらいならいいかなと思って。使っちゃいました、嫌だった?」
「いや、まったく構わない、むしろありがたい。他にも使ってよかったのに」
「いやいやさすがにだめでしょ。昨日聞いておけばよかったな」
降谷がトースターに目をやり、赤井もそれを追いかけた。じりじりと熱線が赤くなり、二枚のトーストの表面がこんがりと焼かれていく。
「朝起きてキッチンに誰かいるのなんて子供の頃以来かも」
そう赤井が言うと、降谷はきょとんとした顔で赤井を見た。
「彼女とかいたでしょ」
「のんきに一緒に朝食をとるようなやつはいなかった」
「はあ、まあ赤井らしいか」
困ったように目尻を下げて笑い、それからマグカップどれ使えばいい、と降谷が尋ねる。戸棚からふたつ、どちらも赤井が日常的に使うものを取り出して渡すと、降谷は出しっぱなしになっているインスタントコーヒーの瓶から直にマグカップにパッパッと粉を振り入れた。それからどういうわけか水道水を少しだけ注ぎ、赤井を振り返る。
「小さいスプーンとかあります?」
「はい」
「ありがと」
受け取ったスプーンでくるくると粉を水に溶き、だまがなくなったのを確認してから沸かしていたお湯を注ぐ。
「こうすると、いきなりお湯入れるよりおいしくなるんだって」
「物知りだな」
「さっきパン買いに行ったとき、お店のおじさんに教えてもらった」
なんとなく彼らしいなと思う。愛想がいいのも人当たりがいいのも、きっと根っからの性質なのだろう。それにしてもそんな裏技があったとは。あそこの親父、俺とは金額とおつり以外のことは何も言わないくせに。
香り立つにおいも、いつもとは違う気がした。そんなわけがないのに。
チンッ、とのんきな音とともにパンが焼けた。ずいぶんとご老体なので機嫌にムラがあるトースターだが降谷の前ではいい子にしていたようで、表面はどちらもきれいなきつね色だった。皿に移しテーブルの方をちらりと見遣ると降谷は昨日と同じ場所に収まっている。
向かい側に座り、なんとなく同時にいただきますと言ってコーヒーに口をつける。確かにいつもと違う味に思わず顔を上げて降谷を見ると、彼も驚いたようで、それから嬉しそうに笑った。
桜はまさに満開という時期は過ぎているらしいものの相変わらずの咲きっぷりで、水面が淡い桜色になっていた。降谷は満足したらしく、穏やかな横顔で桜を見上げている。
すぐそこで毎年咲いているものの、やはりどうしたって桜といえば日本である。ひとつの国にしか咲かない花などなく、こうしてアメリカにだってしっかりと根を張り幹を太くし空に向かって伸びているのに、どうしてなおも桜といえば日本を思い浮かべるのだろう。
突然やってきた降谷零。くることはないと思っていたアメリカで、なぜか並んで見上げている桜。不思議な組み合わせだ。昨日突然やってきて、夕食を食べ、客人らしく先にシャワーを浴びてベッドで眠るというもてなしを受け、お返しに朝いつもよりもおいしいインスタントコーヒーをいれ、こうして桜を見上げた数時間後には、彼はもう太平洋の上を西に向かっている。右側を歩く腐れ縁の男。
おとなしく客として扱われるくせに、ずっと前からそこにいたように部屋に溶け込む。勝手に食器棚や冷蔵庫を漁ったりはしないくせに、赤井がいつも使うマグカップでコーヒーを飲む。
かつて、赤井は降谷のことが好きだった。けれどそれはかつての話で、今はもう、あの頃のような切迫した気持ちはすっかり影をひそめてしまった。降谷のことを、きっといまでも大切に思っている。それでも、こんな穏やかな、凪いだ水面のような心境はもはや恋ではないのだろう。いつからそんなふうになったのか。
風が吹き、花びらが散っていく。降谷の気持ちがわからない。わかるように思ったときだって、あったはずなのに。
「どうしてって、思ってる?」
左を向いた降谷のほほが、水面に反射した光を受けてひかっているように見える。
「どうしてって、なにが」
「んー、いろいろあるんじゃないんですか? なんできたのとか」
「なんで今さらとか?」
「そうそう。なんで桜? とか」
「どうやって家を突き止めたかとか」
それは企業秘密、と言って降谷は少し悪い顔をする。そんな顔をしてみせたって、どうせ同僚あたりに聞いたのだろうことくらい想像に難くない。
「……いまはすきじゃないのか、とか」
悪い顔から一転、やさしい痛みが胸を刺すような、そんな顔をする。こいつ、と思った。やっぱり気づいていたんじゃないか。つい眉間に皺が寄る。
「うわっすごい顔」
「すごくない、本当に人を揺さぶるのがうまいな、すっかり忘れていた。油断してたよ」
思わず深々とため息を吐く横で、降谷は楽しそうながらもくちびるの端に諦念を浮かべ、やわらかく微笑んでいる。いったいどういうつもりで今更こんなことを言い出すのか。赤井にはまったくわからなかったが、不思議とそこまでの動揺はない。ただ、やっぱり降谷だってその気があったんじゃないかとだけ。
「ちなみに、いつ気づきましたか」
「いや、これといってきっかけは」
「なんとなく感じ取った?」
「まあ、そんなところだ」
一緒ですね、と降谷はふふっと笑みをこぼす。恋愛はご縁だっていうけど、ご縁は非常にあった割にそういうご縁はなかったみたいですね。
降谷はなにを思って、いまこの話を始めたのだろう。淡々と昔を懐かしむような横顔で。
「……きっと、僕がどうかしているうちに僕たちはどうこうなるべきだった」
そう小さく呟いた降谷の声が、花びらにまぎれてかき消えていく。タイミングを逃した、という表現がぴったりだった。刺々しかった関係は、ぎこちない時期を経て穏やかになり、そしてなにか変わるには落ち着きすぎてしまった。変化を望むには手に入れすぎた。変化を望むほど、不格好で無様で、なりふり構わない理由を、いつの間にかうしなってしまった。
僕がどうかしているうちに、か。彼らしい言い方だ、と赤井は思う。きっと、二人して間が悪く、くじけて他人に寄りかかるには心が強すぎたのだ。自分たちらしい。ほしいものだけで生きていければよかったのに。
「前があんなだったからなるべくフラットな自分でいたかったんですよね。それはできたけど、でも、そうしてるうちにフラットになりすぎた」
同じだよ、と赤井が言う。降谷の瞳は変わらず凪いでいる。
「君の前では完璧でいたかった」
「最初から完璧でなんていなかった」
「そのことにもっと早く気づくべきだったな」
確かに、と降谷が呆れた声で言った。しょうがないなあ。
もし、完璧などというものがどこにも存在せず、降谷はそんな赤井でもいいということに気づいていたら、どうなっていたのだろうか。もはや、そんなところをとうに通り過ぎてしまったので想像もつかない。
ほしいものだけで生きてはいけない。ひとつの気持ちだけで走り続けられはしない。その境地まで到達するには、ひとりの人間が抱えるものは乱雑で複雑すぎる。
「健気だったのに、ぜんぜん気づかなかったでしょ」
ほんと鈍感、と赤井の脇腹をぽすんと左手で殴った降谷は、もう過去を見つめるような顔をしてはいなかった。まっすぐ、いま隣にいる赤井を見上げている。
「健気?」
「あーほらやっぱり気づいてなかった。そうだと思ってたけどさ……、上座とか下座とか、一応ちゃんと気にしてたのに」
上座。
そう言われて、いままで不思議に思っていた降谷の行動の数々が早送りのように蘇ってきた。あの日も、あの昼も、あの夜も、昨日も。降谷が、思い出した? と子どものような目をして言った。毎回繰り返すあのやり取りに、それほどの意味なんてないと思っていたのに。
「先に言ってほしかった」
「言ったら意味ないだろ、ばか」
しかし、そこではたと気づく。それならばなぜ、降谷はいつも自分に尋ねてきたのだろう。
赤井の疑問などお見通しだとでもいうように、降谷はつまらなそうに顔をそらした。
「いろいろこだわりとか、座る側の好みとかあるなら、そのほうがいいかなと思ったんですよね。ほら、左利きの人は右利きの人の左がいいっていうし、聞いたほうが早いなって」
「なるほど健気だな」
「押し付けだけのやさしさなんて自己満足だ」
でも、結局自己満足だったな、と降谷が笑った。降参だ、とでもいうようにこぼれた、そういう笑い方だった。
降谷の横顔から視線をはずし、桜と青空を見上げる。正午をまわるまであと少し。もうしばらくしたら、降谷はそろそろ空港に向かわないとと口を開くだろう。赤井はきっと空港までは行かない。桜が散って、少しずつ春が終わりに近づいていく。降谷はさようならという言葉を言うだろうか。言うかもしれないし、言わないかもしれない。確かなことは、あるいっときだけは感情のベクトルが一致していたということ。そしてそれを二人してみすみす見送ったということだ。先に水で溶いてから熱湯を注いだインスタントコーヒーは、降谷が日本に帰った明日も同じ味になる。降谷が霞が関のデスクで注いだコーヒーも、同じ味になるだろう。
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