放し飼いで十分

 明確な言葉があったわけではないし、二人の関係について約束をしたわけでもないし、こまめに連絡を取っていたわけでもない。けれど燐には、いつだって最後志摩は必ず自分のところに帰ってくるという確信があった。信じている、わけではない。誰だって太陽が東から昇り西に沈むことを信じはしない。それは決して揺らぐことのない事実であり、信じるまでもないことだからだ。燐にとってはもう何年も前から、つまりそういうことだった。
 なんでもないようなありふれた月曜日の朝。眠い目をこすりながらベッドからはい出した先、ソファの上。
「あ、奥村くん。おはよぉ」
「……志摩」
 まるでずっと昔からここに住んでいるかのように、体育座りをした志摩はコンビニのメロンパンをかじっていた。完全な私服、でもそのなかのどこかにいつも通りキリクは仕込まれているのだろう。ぼろりとメロンパンの欠片がソファに落ち、燐はそれを見て少し顔をしかめた。
「志摩、ぱんくず落ちた」
「あ、ほんとだ。ごめん」
 なんでもないことのようにその欠片を指先でつまんで口に放り込む。服についていた砂糖も、ついでに。
「またそんなんばっか食ってんの」
「んー?」
 それなりには食べとるよ、という、本当だかどうだかといった言葉を聞き流しながら燐は冷蔵庫から牛乳を取り出した。ストックがもう一本しかないからそろそろ買いに行かなければいけない。今日は月曜日だから、スーパーのポイント二倍デーだし。いつものコップ、いつもの牛乳の量、いつもの食パン、いつもの焼き上がり、いつもの朝食。そこにおまけのようにくっついている、志摩。
 燐がテーブルに座ると志摩も当然のように移動してきて、そして当然のように真向かいに座った。今日もおいしく焼きあがったパンに、先週の週末に作ったでこぽんのジャムを塗る。ジャム作りは最近の燐のブームだった。以前の依頼人、本業は飲食店を営んでおり、燐のことをいたく気に入ったらしい彼がお礼にと手のひらサイズの瓶に詰められたのがきっかけだった。突然自宅に届いた瓶詰ジャム十二個、ご丁寧にラベルまで貼られていた。添えられた手紙で、彼の趣味がジャム作りであることを知った。彼のジャムは市販品のような砂糖じみた甘ったるさではなくどこかさっぱりとしていて、果肉もごろごろと入っていた。燐が自分も作れるようになりたいと目を輝かせながら連絡を取ると彼は喜んでコツを教えてくれたのだった。
「それなんのジャム? いよかん?」
「でこぽん。お礼にってわけてもらった」
「へええ」
 うまそう、と志摩がいかにも食べたそうにもらすので、燐は少しじとっとした視線を正面に投げかけながらも手元の食パンを差し出してやった。志摩は待ってましたとばかりに身を乗り出して控えめでもなんでもない一口をかじる。
「うまい!」
「だろ」
「さすが奥村くんや~」
「はいはいどーも」
 日常の延長のような会話をさも当然のようにしているけれど、実際は志摩に会うのはひどく久しぶりだった。いつぶりだろうか。もう何年も会っていない気がする。最後に会ったときからは少し伸びた髪、まあ、違いはそのくらいなのだけれど。
「いつぶり?」
「んー、三年?」
 どうやら三年ぶりらしい。
「そんな経ってたっけ」
「実は」
「ほんといっつもどこでなにしてんだか」
「あ、それなんやけど」
「ん?」
 なにか言いたげな声に、燐は顔を上げ志摩を正面から見つめる。
 いつもの月曜日、いつもの朝食、いつもの部屋、そこに当然のようにいる、志摩。三年会っていなくても普通の会話ができるくらいには志摩は燐の近くにいたし、燐も志摩に心を許している。信じるまでもなく、志摩は必ず自分のところへ帰ってくると確信しているし、もし帰ってこずにふらりとどこかへ消えるなんてことがあれば昔のように連れ戻すまでだと思っている。
 そうはいっても、やはり動揺はするのだ。
「俺、わけあっていま死んだことになっとるんよ」
「……え?」
「というわけで、奥村くんに未練たらたらの幽霊ということでよろしゅう~」
「は!?」
 待て、説明しろ! と燐が思わず叫ぶと志摩は手を叩いてげらげらと笑った。三年ぶりに現れた恋人は、いつの間にか幽霊になってしまっていたらしい。

 燐はため息を吐いた。もちろん、目の前でにやにやと笑う幽霊に向かって。
 だいたい志摩が自由すぎるのがいけないのだ。十代半ばという多感な時期に二重スパイなどというスリルに溢れた体験を経験するだけにとどまらず心の底からエンジョイしてしまったのもいけなかった。ついでにいえばもともとの要領のよさでそのあたりを管轄しているお偉方に気に入られてしまったのもいけなかった。完全にスパイが板についてしまって、現在の志摩はといえば、完全に職業スパイだった。
 最後に志摩が正統派な仕事をしたのはいつだろう、と燐は思い出そうとしてすぐにやめた。全く思い出せなかったのだ。だいたい何年ぶりに会ったかもよくわからないような志摩の任務遍歴を燐が覚えているはずもない。最初の頃はやはりスパイということで燐は志摩の身を案じていたのだが、イルミナティと騎士團を行ったり来たりしていた当時以上に危なくてスリリングな任務なんてそうそうあるはずもなかった。おまけに、志摩曰く「奥村くんに任務の詳しい話したら、奥村くんから聞き出せばいいってなるに決まっとるやん。探り入れられてカマかけられて、隠し通せんの?」と。顔に出やすく隠し事ができないたちなのは自分でも重々承知なので、いまや燐は完全に志摩を放し飼いにしているのである。
 おまえ祓魔師じゃなかったのかよ、とごちたくなる日もあるがこればかりはしょうがない。惚れた弱味というかすきになったほうが負けというか、生き生きと綱渡りのような人生を送る志摩が燐はすきなのだ。大変、釈然としないのだけれども。
 そんな燐の複雑な心境を知ってか知らずか、志摩はなにかの拍子にふらりと帰ってきては、またいなくなるのだ。まったく、これならクロのほうがどれだけ飼い猫らしいか。そのクロであるが、猫又の集いがあるとかで昨日の昼に出て行ったきり、まだ帰ってきていない。クロもいない、仕事もない、そんなせっかくの休日。一度起きはしたものの本当は二度寝しようと思っていたのに、志摩のせいで台無しである。けれど本心を言えば、やはり久しぶりに顔を見て話ができることは嬉しい。嬉しいのだが、それを言うと志摩が調子に乗って面倒なことになるので言ってはやらない。
「なに、なんで幽霊になんかなっちゃったの? 痴話喧嘩で刺されでもした?」
 そのくらいならまあ聞いても問題ないだろうと思いつつ尋ねて、燐は牛乳に口をつけた。あ、ちゃうちゃう、と明日の天気を話すような軽さで志摩は首を振る。おまけに手もぱたぱたと振ってみせた。
「亡くならはった人の幽霊、って設定。幽霊がやってるって偽装していろいろしたりしてんの」
「……いろいろって?」
「んー、ナイショかなぁ」
 そう言った志摩の笑顔がとっても楽しそうだったので、燐は心の底からげんなりした。気持ちのいい朝と明るい日差しに似合わないげんなり度である。潜入されるような相手なのだからまあろくでもない輩たちなのだろうが、それにしたって志摩(演じる誰かの幽霊)にされる嫌がらせを思えば多少の同情も沸く。おまけに志摩の上にはあのライトニングもいるわけで、おもしろがって手の込んだ悪戯(もちろん婉曲的表現である)を仕掛けるなんてことをいかにもやりそうだ。ばかだなあ、なんでそんなことされるようなことしちゃったんだよ。顔をしかめてそんなことを考えていると、志摩がにんまりと歯を見せつつ笑った。どうせ、燐の頭の中などお見通しなのだろう。
「奥村くん、今日の予定は?」
 買い物、と言葉少なに答えるとふうん、とただ頷く。誰のためだと思ってんだか、と思いながら手元に落としていた視線を上げると、当然ながら目が合う。昔を思えばずいぶん落ち着いた髪の色、同い年の同級生、いつの間にか収まっていた恋人のポジション。燐を見ては楽しそうににこにこと笑っているのがなんだか気に食わなくて、がふっと鼻をつまんでやった。
「おふむらふん」
「あはは、変な声」
「ちょっと、なにすんのもー!」
 急にやめてやー!? と上げられた抗議の声に満足して燐は伸ばしていた手を引いた。急に帰ってきたり、いなくなったり、また戻ってきたりと志摩に振り回されることは別に構わない。とはいえただ一方的に振り回されっぱなしなのはなんだか癪だし、燐だって、自分に好き勝手されて慌てる志摩の姿が見たいのだ。
「おまえも行くんだからな」
「へ?」
「荷物持ち。少なくともおまえの相手をする予定はさっきまでなかったんだから」
 そう燐がやわらかい口調で言うと、合点がいったらしく志摩は嬉しそうに笑った。
「久しぶりの奥村くんのごはん楽しみやなあ」
「あ、そうだ、だったらついでにいろいろ買いに行っていい? キッチンペーパーもう最後のやつだし買っとかねえと」
「ええよー。車?」
「かなあ。運転志摩な」
「えー!?」
「飯代にしては安いと思うけど」
「うっ……、それ言われたらなんも言われんやん」
 うがー、と椅子の背もたれに思いっきり寄りかかりながら伸びをした志摩は、今日も今日とて楽しそうによく笑う。
 いつ帰ってくるのかもわからない、どこでなにをしてるのかもよくわからない、そんな志摩が連絡もなしに現れるのが実家でも勝呂たちのところでもなく、自分のもとであるということが、燐にとってはやはりどこまでも嬉しい。できれば連絡の一つも入れてくれるほうがもっと嬉しいのだが毎回文句を言っても聞かないし、おそらく志摩としては燐の驚く顔が見たいとかそんなところだろう。まったく、と吐き出す息もどこか甘い。やはり、こんなふらふらした男でも、それでもすきな以上は我慢するしかないのだ。
「昼、外でいい?」
「りょーかい。あ、せやったら行ってみたいとこある、前知り合った女の子に教えてもらったんやけど安くてうまいって」
「へえ、んじゃそこ行ってみようぜ」
 女の子ね、と呆れつつ苦笑をもらす燐に、志摩は「昔みたいにやきもち焼いてくれてもええのに……」と至極残念そうにつぶやいた。その言葉に思わず吹き出した燐は、何事もなかったかのように皿とコップを持って立ち上がる。
「生身で生きて帰ってきたら、やきもち焼いてやるよ」
「はは、厳しいことで……。あっ、食べ物の餅焼いたやつっていうのなしやから!」
「一休さんかよ」
 ぶ、と燐が笑い始めると志摩も引きずられてけたけたと笑い出す。そのまま親を刷り込まれた雛鳥のように流しまでついてくる志摩のほうをくるりと振り返り、軽くキスしてやると志摩は目を丸くしてフリーズしていた。
「へえ、最近の幽霊はキスできるんだ」
 そうからかうように言って流しに食器を置き、固まったままの志摩を放置してスポンジに洗剤をつける。たっぷりたった泡で食器を洗い、水で流しつつ顔をあげるとちょうど志摩がうっすらと赤い顔で燐を見たところで、ああああ、と叫びながら頭をがしがしとかいていた。
「あーっ、もう、その設定もうええから! 引きずりすぎ! なに、なんやの今日の奥村くんいじわるやない!?」
「ははは、幽霊だなんて言ってくるからだばーか!」
 手を払って水を飛ばし、かけられたタオルで拭きながら笑ってやる。
「俺ばっか奥村くんに振り回されてる……」
「よかったな」
「惚れた弱みと胃袋をめちゃくちゃ握られとる」
「そんな顔すんなよ」
 口を尖らせる志摩を愛情をこめて小突くと、なんやもう、とばつが悪そうにしながらもドスドスと小突き返された。いい気味だ。よくできた恋人を持ったことに、志摩はもっと感謝するべきなのだ。
「で、俺に言うことは?」
「……生身の志摩さんですよ?」
「ちげーよばか」
「冗談やって。ただいま奥村くん」
「はいはい、おかえり」
 きたときと同様に、言葉もなしにいつの間にか志摩はまたどこぞへと消えていく。それを燐はまたかと思うし、寂しくも思うが、だからといって心配はしない。いまのところ志摩が危険な目に合うというような切迫した事態は起きていないし、なにより、志摩が燐を誰よりもすきだという自信があるからだ。そしてまた惚れた弱味を握られているのは燐も同じなので、久しぶりに会った恋人においしいごはんを食べさせてやるべく、二人このあと連れ立って、三年ぶりの買い物に行くのである。

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