楽園は彼方

 目覚める前の一瞬に、いくつもの夢を見た。穏やかな笑顔、友との談笑、湖に沈んでいく聖剣、あるいは、荒野を行く長い長い旅。一瞬だけきらめいて消えていく流星のように、ありうるかもしれないいくつものイフが瞬いては消えていく。それらひとつひとつが、ひとりの人間の一生であることを直感的に理解している。ありえたかもしれないそれぞれの人生。小さな選択ひとつで容易に変わりうる、いくつもの可能性。
 英霊・ベディヴィエール。私は、ゆっくりと目を覚ます。
 
 まばゆい光があたりを包んだ。そして、それが収まると、興奮と不安がないまぜになったような顔の少女が二人、自分を見上げていた。目が合うと、その一方の瞳が喜びでいっぱいになり、もう片方の瞳には、涙の膜がゆらめいた。
「ベディヴィエールさん! ほら、先輩、ベディヴィエールさんです! ……先輩?」
 飛び上がらんばかりに喜ぶ少女――マシュ・キリエライトは、隣に立つもう一人の少女の腕を興奮気味に揺さぶっていたが、彼女がずび、と鼻をすすったことに気づきはたと動きを止める。彼女ははっとしたように、あいている左手の袖口でいささか乱暴に目元と鼻を拭ってから微笑んだ。
 藤丸立香。マシュ・キリエライト。大丈夫。私は二人を、ちゃんと知っている。
「再びまみえることができて光栄です。セイバー、ベディヴィエール、これよりはあなたのサーヴァントとなりましょう」
「ありがとう、ベディヴィエール。よろしくお願いします」
 ありがとう、ともう一度せっかくの笑顔で言ったのに、立香の瞳はまたすぐに水っぽくなり、ぐすぐすと鼻をすすった。
「ああほら、泣かないでください、こうしてまた会えたのだから」
「でも、だって、うう」
 はー、と声を出しながらぎゅっと目を瞑ったり開いたりを繰り返す年相応の姿におもわず顔がほころぶ。思い浮かぶ彼女の横顔は凛々しく、瞳に宿る意志の力は強く、いつでも前だけを見つめていた。嵐の中にあっても変わることのない、北極星のような彼女。そのような在り方はうつくしいと思う。それでもやはり、素の姿が垣間見えると安心してしまう。
 最初は喜色満面の笑みを浮かべていたマシュも、次第に立香につられてしまったのかだんだんと泣き出しそうな顔になってきてしまった。三十センチ近く低いところで十代の少女二人が涙を堪えている状況というのは大変心臓に悪い。なんとか涙を引っ込めてもらうにはどうしたらよいかと必死にあれこれと考えていると、背後からふふっと楽しげな笑い声が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは微笑を湛えた女性。にっこりと口角を上げ、いや、にやにやと笑いながらこちらを見ていた。
「あれあれー、もしかしてそこでわれらが立香くんとマシュを泣かせているのはベディヴィエール卿かな?」
「ダ・ヴィンチちゃん!」
 助っ人の登場に安堵する。彼女は軽やかな足取りで二人に近寄り、わしわしと二人の頭をなでた。
「お久しぶりです、ダ・ヴィンチ女史」
「やだなあ、ダ・ヴィンチちゃんって呼んでって言っただろう」
「そうでしたね。失礼いたしました」
「どう? 英霊になった感想は」
「まだあまり実感はありませんね。以前と変わらない普通の体のような気がします」
「うんうん、まあまだそうだろうね。自分の体をよく知るうちに、だんだんとこれまでとの違いがわかってくると思うよ? 特にその腕」
 全員の視線が右腕に注がれる。かつて聖剣、だったもの。
「そういえば、ベディヴィエールさんはちゃんと聖剣を返したのに、どうして同じアガートラムが……」
 マシュが不思議そうに呟き、たしかに、と立香が首をかしげた。二人は不思議そうな顔をしているが、疑問に思うより先に私はそれを理解した。いや、理解ではないかもしれない。自分はこの腕がかつてとは違うものであることを知っている。当然のもののように、ずっとそこにあるもののように。肺の動かし方はわからなくても、自然と呼吸ができるように。
「聖剣をかたどったもの……ですね」
「ご名答」
 うたうようにダ・ヴィンチ女史が言った。
「その腕は仮想聖剣だ。ベディヴィエール卿のアガートラム、あれはもうどこにも存在しない。しかし英霊というのは生前の姿、功績、あるいは伝承によってかたどられるものだからね、それでかつてと同じ姿で召還されるのだろう」
 なるほど、とマシュは頷き、依然としてわかったようなわからないような顔の立香もつられたように曖昧に頷いた。が、待って、と言って弾かれるように顔を上げる。
「どうかした?」
「宝具はどうなるの? 仮想聖剣だとしても同じように体を、魂を焼くんだとしたら、そんな無茶なんて」
 立香の言葉にマシュもさっと顔色を変えた。しかし険しい顔で詰め寄る二人とは対照的に、女史は笑い声を上げる。そして、安心したまえ、とにっこりと微笑んだ。
「この宝具は”あの”アガートラムとは違う。あんな風に使うたびに身を削るようなデメリットはないよ」
「よかったあ……!」
「私も安心しました、よかったです、ベディヴィエールさん」
「今後は遠慮なくわが剣を振るうことができますね」
 そう言うと二人は顔を見合わせ、心底安堵したというように表情を和らげた。立香とマシュを見つめる彼女の視線は優しい。そして、さあて、と勢いよく両手を叩いた。
「ではでは、ベディヴィエール卿に泣かされた立香ちゃんとマシュの涙も引っ込んだみたいだし? このダ・ヴィンチちゃんがカルデア施設を案内しよう!」
「な、私は泣かせてなど」
「そう、なんか感極まっちゃって勝手に、ね、マシュ」
「私は先輩に完全につられました」
「えーっ、私のせいなの」
「いやいや、人間は嬉しくても悲しくても涙を流すものだからね。それでもやはり、嬉しいときには笑うべきだとも。そうだろう、ベディヴィエール卿」
 そのまなざしは慈しみに満ちている。硝子玉のように光を反射する瞳は翳りを知らない。いや、そうではない、それでもなお明るい未来を見ようとするから、その横顔に陰は差さないのだ。
「ええ、その通りですよレディ。女性はやはり笑顔が一番です」
 この先も、その面差しが曇りなきものであるように。そんな思いと共に口を開くと、年端も行かぬ少女たちはやっと、花が綻ぶように笑った。

 夢を見たかもしれない。長い夜を駆けようとするうちに。英霊は眠りを必要とはしないが、眠らなければ夜はひどく長い。そうして目を閉じているうちに、夢を見るのかもしれない。眠りに落ちる瞬間、その一瞬を知覚することはできない。目覚めたときにはじめて、眠っていたことを知る。覚えている夢もあれば、認識されることなく忘れ去られる夢もある。英霊というかたちのない存在、その一側面としての個体。その関係は眠りと夢の関係に似ている。ありとあらゆる可能性。そのうちのひとつとしての自分。或いは、唯一無二のひとつとしての。

 料理上手がいれば料理下手がいて、器用な者もいれば不器用な者もいる。十五名のサーヴァントとひとりのマスター、ひとりのデミ・サーヴァント、二十三名のスタッフ。人類史の最後の砦ともいえるカルデアにいるのはたったのそれだけ。過酷で深刻な状況ながら、食事をし、仕事をし、夜になれば眠り朝になれば朝のあいさつが飛び交う。人々は案外、普通に生活している。
 おはよう、と声をかけられ振り返ると立香とロビンフッドが歩いてくるところだった。立ち止まって二人を待ち、おはようございます、と会釈をする。
「これから朝ごはん?」
「はい。お二人は今朝もご一緒なんですね」
 そう言うと立香はこくりと頷き、ロビンフッドはなんともいえない微妙そうな顔をした。このくらいの時間帯に廊下で出くわすと大抵二人は一緒にいる。カルデアでの生活を始めてからまだ四日ほどだが、それぞれの生活サイクルはなんとなくわかったような気がする。きっとこの数ヵ月間、それぞれがそれぞれのリズムで毎日を繰り返してきたのだろう。
「待ち合わせでもされているのですか?」
「違う違う、私がお祈りしてて、終わるといつの間にかロビンがいるの」
「祈り?」
「この人、信じないよりいいだろうっつって毎朝やってるんですよ」
「そうだったのですか。ここへくる前からですか?」
 問えば、いやあ、と立香は決まり悪そうに笑って頬をかいた。
「全然。ねえマスター、いつから始めたんでしたっけ」
「えっと、夏ごろだから……北米から帰ってきたくらいだったかな」
 でもやっと最近淀みなく言えるようになったくらいなの、と立香は照れくさそうに笑う。
「そうそう。いっつもおんなじところで詰まってたよな」
「うっ、ロビンに言われるとなんもいえない……!」
「仲がよろしいのですね」
「いつも大変お世話になっております」
「あーはいはい」
 改まって深々とお辞儀をするマスターに適当な返事を返すサーヴァント。なんだか不思議な関係のような気もするが、二人がいつでも自然体なのだということが感じられて素直にいいなと思った。
「せんぱーい! おはようございます!」
「マシュー! おはよう!」
 廊下の先、柔らかい色の髪が見えた。立香は白いスカートの裾を翻してマシュに駆け寄る。マシュと話していた女性職員にも挨拶とともにぺこりと頭を下げ、三人は連れだって食堂へと入っていく。
「……平和ですね」
「外の世界はあんなですけどね」
「わかっていますとも」
 ちらりと隣のロビンフッドの顔を伺えば、皮肉めいた言葉と裏腹にやさしげな顔をしていた。ロビンフッドはマルタとともに最初期から彼女たちを支えてきたうちの一人だと聞いているから、そういう目をするのも頷ける。と、思っていれば。苦虫を噛んだような顔がこちらへ向けられた。
「なんか良からぬこと考えてません?」
「いえいえ、そのようなことは」
 どうやら聞いていたとおり、素直でないらしい。

 第七特異点へのレイシフト証明にカルデア中が奔走していた。そんな中、最後の特異点での戦いに備えて念のために確認をしておきたいからという立香からの提案を受け、様々な面々とともにシュミレーションを行うことになった。
 ついに円卓の騎士が仲間かあ、とクー・フーリンがどこか感慨深そうに言った。頼りにしてますと立香が笑顔で手を握り、心強いですとマシュがはにかんだ。もうすぐ最後の特異点なんてあんたもついてないですね、とロビンフッドが茶化した。こないだまで一緒に旅してたのになんだか変なかんじ、と鈴鹿御前が笑った。あなたはその腕を抱いて英霊になったのですね、とジャンヌ・ダルクが呟き、改めてよろしく、とマルタは微笑んだ。
 ほとんど変わることのない顔ぶれでここまで到達しただけあり、さすが他のサーヴァントたちの呼吸はどのようなときでも乱れない。なかでも目を見張るべきはマシュ・キリエライトの成長だった。記憶のなか、まっすぐ前を見つめ盾を握る手に力をこめていた彼女は十分に心強い存在だったが、いま彼女の体を貫いている芯はもっとずっと強固なものになっているように思えた。そんな彼女も笑えばどこにでもいる普通の少女となにも変わらず、そのことがかえって、彼女を研ぎ澄まされていく剣のように感じさせた。
 いまや痛みを伴うことのない右腕に、激しい違和感を覚える。覚えていた、はずだった。違和感は日々の隙間に埋もれて馴染んでいき、忘れることなどないと思っていたはずの身を焼く痛みはもはや思い出せない。慣れていく。この知識は記憶なのか、この記憶は与えられた記録に過ぎないのか。さすが第六特異点を皆さんと切り抜けたから息がぴったりですね、と頬を紅潮させて興奮気味に言うマシュに、笑みだけを返して誤魔化した。私をかたちづくるもの。それらは、果たして本当に唯一無二の存在であるということができるのだろうか。
「一閃せよ――」
 英霊という存在。死してなお、私の旅はまだ続く。

 長い髪が特徴的なサーヴァントの一人、エルキドゥに声を掛けられたのは、レイシフト証明の目処が立ったという明るい知らせがカルデア内に流れた日のことだった。ここいいかな、とエルキドゥは椅子に手をかけて言い、頷くとするりと向かいの席に滑り込んだ。
「特異点の記録?」
「はい。みなさんのこれまでの旅の記録です」
「僕も読んだよ。とても興味深かった」
 共用のタブレットで閲覧していた電子ファイルには、これまでカルデアが経験してきた出来事が詳細に記録されている。全く知らない出来事と、つい最近、あるいは遥か遠い昔に経験した出来事。それらを読み込むうちに、ただでさえ曖昧な自我の輪郭が一層揺らぐ気がした。たしかに、はっきりと覚えているのだ。擦りきれて磨耗して、そして最後に残ったあの決意を覚えている。覚えている、と思う。
 目の前に座るエルキドゥがじっと自分を見つめていることに気づいて慌ててタブレットから顔を上げた。そういえばエルキドゥもここへ召喚されたばかりのサーヴァントであり、彼が特異点を旅したという記録はまだない。
「もうすぐわれわれの初陣ですね」
 古代メソポタミアにあるという第七特異点。耳にした話では詳細な暦や場所の確定には至っていないということだが、それでも確かにレイシフト証明の完了が近いことには違いなく、技術者たちはどこかほっとしたような表情を浮かべていた。
 そうだね、と答えたエルキドゥの微笑は完璧と言っても差し支えなかったが、それゆえに気にかかった。同じ古代バビロニアでも年代の幅はあまりにも広い。エルキドゥ自身の知る時代、土地である可能性など万にひとつくらいの確率のように思えたが、果たしてサーヴァントになりうる存在は特異点を引き寄せることもあるのだろうか。広大な大地の、長い時の流れのなかの、その一点に特異点が生まれるということ。自分がよく知る時代に死後赴くという心境はどのようなものなのだろう。
「ベディヴィエール」
 名前を呼ばれる。はい、と答える。
「特異点を生きて英霊になった君は、生前のことを覚えている?」
「生前の……ですか」
「第六特異点を修復して、そして君がここに現れた。体感の時間ってどうなってるのかな」
 それは、とつい言い淀んだ。エルキドゥはじっと答えを待っている。精巧なつくりものめいたその瞳は、きっと誤魔化したところでいとも簡単に見抜くだろう。
「正直なところ、よくわからないのです」
「わからない」
 エルキドゥはゆっくりと同じ言葉を繰り返した。
「覚えていないの?」
「覚えていますよ。ただそれが、実感を伴った記憶なのか、知識として与えられた記録なのか、もはやよくわからないのです。長い長い夢を見ていたような気がしました。自らの務めを全うした夢も、もうほとんど何ものこっていないのに、それでも歩みを止めるわけにはいかなかった夢も」
「生身の――、長い旅をしていたときのことは、随分遠い昔のように感じているということ?」
「そうですね。でも、記憶は本来日々薄れていくものでしょう」
 だから答えにならないのだと言外に滲ませつつ、浮かべるべき表情に迷ってとりあえず半端に笑った。彼、あるいは彼女はどこか呆れたように人間はおもしろいことを考えるなあと言った。
「記憶と記録の違いなんて、何をもって定義するのさ。自分で事態を複雑にするのは機能の低下にしか繋がらないと僕は思うけれど、そういうことではないのかな」
「はは、まったくその通りです」
 結局のところ、自分で自分を混乱させて雁字絡めにしているだけなのかもしれない。そもそも、定義が叶ったとしてそのあとは? その定義に当てはめるものは本当に「それ」なのだろうか。もう忘れているかもしれない、間違って記憶しているかもしれない。確かだと思うのは自分がそういう意識を持っているからで、ではその意識はなぜ正しいといえるのか。突き詰めようにも果てがない。何をもって確証とするのだろう。
「確かなものなんて、どこにもないのかもしれない」
 口に転がり出た呟きに対して、エルキドゥはうーんとうなりながら天井を見上げた。
「哲学ってやつだね。知を愛する学問、思考という自由、不確実性ゆえの、とても人間らしい営みだ」
「そんな大したものではありませんが……」
「学問でなくても、こういった思考の経路を辿ることそのものだって哲学ではないかな。現に僕には思いもしない理論展開だ」
 自我の不確実性か、なるほどね、とエルキドゥは楽しげに頷いた。
「例えば、ここに白い花があったとして」
 エルキドゥがそう言ってすっと手のひらを上にすると、そこにはいつのまにか、一輪の白い花があった。
「どこから出てきたのですか!?」
 花など持っていなかったはずだ。絶対に持っていなかった。どこから出てきたのか全く見当がつかず、つい花とエルキドゥの顔をじっと見つめてしまう。エルキドゥは微かに笑い声をこぼすのみで手品の種明かしをするつもりはないようだった。
「これはなんのことはないただの白い花だけれど、実体がある以上特定の、あるひとつの白い花だといえる。ではこれとまったく同じ花がいくつもあったとして、人は必ずそのなかからあるひとつの花を見分けられるのか」
「微かな違い……すらもなければ、見分けることはできないでしょうね」
「それならば、それをあるひとつと言うことはできない。それに」
 エルキドゥが言葉を切ると、うすみどりだった白い花弁の縁がみるみる茶色くなる。そして変色した先から、ぱらぱらと砂になっていく。
「実はこれはただの粘土細工で、最初からそもそも花じゃなかったとしたら、『あれ』はいったいなんだったのかな」
 手のひらの上の砂。一輪の花。エルキドゥが一瞬手を握り、そしてぱっともう一度開くと花も砂も影も形もなかった。
「すごいですね」
 ほう、と息を吐きながら素直にエルキドゥをほめるとエルキドゥは僕だって同じだよ、と何のことはないように答えた。
「いえ、まるで手品のようだったこともですが。思いもしない理論展開なんて言って、私よりよほど答えの出ない問答の仕方をわかっておられる」
「そうかな?」
「そうですとも」
「本当はいろいろな人たちの思考をなぞっているだけなんだ」
 そう言って微笑むエルキドゥがどこか寂しそうに見えたので、つい語気を強め、いいえ、と首を振る。
「誰かの思考をなぞっただけだとしても、それをいま私に言ったのはただひとりのあなたです」
 金色の瞳に、光が反射する。丸く微かに見開かれた瞳は、それからゆっくりとたわみ、今度は先程よりも温かく微笑んだ。
「なるほど」
「なるほど?」
「答えの出ないの問いを断ち切るのは不確実なことこのうえない自我というところかな」
 これで話はおしまいとでもいうようにエルキドゥは立ち上がり、ありがとう、と言った。
「特異点でもしギルガメッシュに会ったら、彼の話を聞かせてくれ」
 にっこりと笑い、ひらりと手を振りながら歩き出す。ギルガメッシュ王。エルキドゥの唯一無二の友。いや、おかしいじゃないか。だって。
「ご自分でもうすぐ会えるではないですか!」
「僕は行かないんだ。同じ瞬間に二人は存在できないから。もうすぐわかるよ」
「待ってください、どういう」
 意味ですか、と続ける前に、エルキドゥは風のようにするりと部屋を出ていってしまった。一人取り残された途端、どっと疲れが押し寄せてきたような気がした。考えれば考えるだけ揺らぐ前提。それを断定する自我。ただひとつの花。ただひとつだけではない砂。かつての思い。いまある迷い。
 同じ瞬間に二人は存在できない。
「なにがなんだか……」
 こぼれた声が間抜けに響く。それがおかしくて思わず笑うと、どれもたいした問題ではないような気がした。

 夢を見た。風に押し戻されそうになりながら、砂漠を歩く夢を。これは夢かもしれないし、ただの知識の反芻なのかもしれない。でも、夢は記憶の反復が見せるまぼろしだともいう。砂漠を歩いていくと、はるか先に人影が見えた。淡々と歩を進めていくと、それが自分にとってのただひとりの王の姿であるとわかる。顔は見えないが、輪郭だけですぐにわかった。
 マントがはためいて、横顔が見え隠れする。一瞬顔が見えなくなった間に頬のあたりで揺れていた髪は伸び、次の一瞬で大人びた横顔はまたどこかへ消えてしまう。なんとか追い付こうと歩いても、歩いても、まるで逃げ水のように距離は一向に縮まらない。手を伸ばしても届かない。本当はわかっている。そこに至ることができるのは、砂漠を歩く自分ではないもうひとりの自分だと理解している。
 声が聞こえたような気がした。そして振り返ると、少女が二人立っている。手を振った背の高い方の少女の体が風に煽られ、背の低い方の少女がそれを支えた。
 もう一度、元々進んでいた方向を向くと、そこには女神が立っている。それに少なからず驚いて目を凝らす。獅子王。理想を追い求めた、その果ての姿。
 おまえたちを愛している。おまえたちが大切だ。だから、おまえたちを失うことに耐えられない。――最果ての玉座で彼女が口にした言葉。女神としての視座から発せられた言葉だとしても、根底にある思いは紛れもなく彼の王のものだった。英霊という存在に唯一のかたちはなく、個体はその一側面に過ぎない。私は、忠節のもとに王の最期を見届けることができた自分も、長い旅の果てにようやく王の命を果たすことができた自分のこともうらやましい。唯一無二の存在たり得るのは生者のみである。
「ベディヴィエール」
 いつの間にか、藤丸立香とマシュ・キリエライトが隣に立っていた。二人が自分に笑いかける。二人に出会えたおかげで、私はいまここにいる。自分自身の全てを使いきってその存在が消えたあとも。特異点という歪みがもたらした、いま一度きりの偶然だとしても。死してなお続く、私の運命。いま自分の中にあるものは輪郭の曖昧な、自身の記憶と存在の記録が融け合ったものだとしても、これから先の出来事は、いまここにいる自分だけが経験できることだ。
 かつて見た記憶の中の王と同じように、女神が微笑んだ。そしてくるりと踵を返し、優雅に歩き去る。砂嵐の向こう、誰かがそっと、その隣に寄り添っているような気がした。

「特異点にレイシフトするときにはね、いきなりみんなでは行けないから最初はカルデアで待っていてもらうことになるの」
「そういうものですか」
 レイシフト決行日前日。いよいよ明日に控えたカルデア全体はどこか浮き足立ち、緊張感と奇妙な高揚が広がっている。周囲に数名のサーヴァントの姿も見えるなか、ロマニ・アーキマンからレイシフト自体や合流の手はずについて説明を受けていた。
「いつ頃からサーヴァントのレイシフトが可能になるのですか?」
「マシュの盾を起点に召喚サークルを設置するんだ。だから設置以降ならいつでも大丈夫になる。それまではメンバーを絞ったほうが存在証明がしやすくてね」
「存在証明はずっと気を抜けない作業であると聞きました。本当に、これまでずっとここにいる全ての人で戦ってきたのですね」
「そうそう。でもついに第七の特異点。終わりも目前だ」
「レオナルド」
 声の方を向くと、万能の人がひらりと手を振りつつ管制室へと入ってきたところだった。
「ローマニ、ちょっといい? 話してるところ悪いけど、いまから最終チェックするから君もきてくれ」
「管制室で全てやっているのかと思っていました」
「まあね。私の工房で受け持っている分もそれなりにあるし。レイシフトのレクチャー?」
 はい、と頷く。
「ごめんベディヴィエール卿、申し訳ないけれど」
「いえ、こちらこそお忙しいときにありがとうございました」
 難しいことはいくらでも言えるけれど、自分のかたちをしっかり覚えていればレイシフトなんて眠りから目覚めるより簡単さ、とダ・ヴィンチ女史はいつものうたうような調子で言った。そうなんだけどなんだかなあ、とドクター・ロマンが小さく笑う。
「立香ちゃんと話すことがもしあれば、今日のうちがいいと思う。明日はたぶん慌ただしくなるだろうから」
「たぶん食堂にいるんじゃない? いつもレイシフト前はみんなと食堂にいるから」
「わかりました」
 軽く会釈をする。連れだって管制室を後にする二人の背中を見送ってから、もう一度青い球体に目を向けた。世界の証明。過去も今日も未来も、健やかにあることを示すもの。
 背筋を伸ばして歩きながら、エルキドゥの言葉を思い出す。結局のところ、確実なものなどどこにもない。蝶の羽ばたきが海の向こうに嵐を生み出すように、些細なことで全ては変わりうる。でも、だからこそ、流星のように一瞬で消えるひとつひとつの世界はどれも同じように尊くうつくしいものであるはずだ。それを決めるのはいつだって一人の主観だけなのだから。
 かつて、私は楽園に近い場所にいた。暗い時代には違いなかったが、穏やかな日々を守り、健やかな暮らしを取り戻そうとする彼の王とともに、少しずつでも我らの理想の地に近づいていると信じていた。いま、この世に楽園などない。生きるということは、足掻くということはそんな綺麗なだけのものではない。それでも人は、歩み続ける。楽園を追い出されてもなお、日がのぼる東を目指すのだ。
 食堂のドアが開く。探していた彼女は両手でマグカップを持ち、マシュ、マルタと談笑しながら年相応の横顔で笑っていた。ふっと顔を上げた聖女がこちらに気づき、なにか言ったのを受けて少女二人がこちらを向いた。
「マスター」
 英霊となってからはじめて、その呼び方で彼女を呼んだ。一瞬驚いて目をみはってから、花が綻ぶように、嬉しそうに笑う。いつだって前を向き続ける、真っ暗な空を裂く流星のような彼女に伝えたいことがある。自分はかつて共に戦った、人間としての私とは違う存在であること。そして同じでもあるということ。自分はただの写し身にすぎないのか、それともここにしかいないただひとつの存在であるのか、それらすべては私自身がどう捉えるか次第だということ。そしてマスターは、私にとって唯一の輝ける星だった我が王にどこか似ていること――。そう感じるからこそ、私は。サーヴァントとしての一度きりの生において、あなたへも剣を捧げたいと、そう思うのだ。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!