かいた端から汗が乾く。冷えて消えて、ぱりぱり、汗をかいたという感覚だけを残していく。
何度目かのシュートで、危なっかしくボールがネットをくぐった。
「入るようになってきたな」
そう、青峰が呟く。そうですね。頷いて、また構える。今度は外れた。青峰のほうへ転がる。すぐに放られると思ったボールはしかし、飛んでくることなく。彼の指の上でくるくると回る。黒子も胸のあたりにあげていた両手を下ろした。
「なんでオレだったんだよ」
目を伏せて、尋ねた。
「僕の知るかぎり一番シュートがうまいのは君ですから」
言葉の代わりに放ったシュートはすっと決まって地面に落ちた。そういうことじゃねえよとでも言うように。
「他のやつらが試合残ってなかったら?」
「それでも君に頼みました」
「突っぱねたらどうするつもりだったんだよ」
「それは…困ります」
ははっ、と声をあげて笑う。
「変わってねーな、そういうとこ」
そうですかと問い掛けると変わってねーよと返された。
違いを、変化を最も意識するのはいつだろうか。なにかが決定的に変わったとき。あるいは制服に残った微かな染みのように、一点のみを残して他は同じであることをまざまざと意識するとき。
「変わった」ということは、変わらないままであってほしいと思うから生まれる認識なのかもしれませんね。いつかの会話の中で言った、ような気がする。あのとき、あのころ、どうやって意思の疎通をしていたんだったろう。穿った見方を彼はもう笑ってはくれまい。
「断りませんよ」
やんわりとした口調で黒子が呟く。青峰は黒子を見て、それからまた視線を落とした。
「……わかんのかよ」
「バスケのことですから」
「お見通しかよ、さすがだわ」
軽口を叩ける程度には復旧した関係。でもまだ、お互いの身の置き場所を見つけあぐねている。他はからっきしなのにバスケに関することだけは気が合う、双方何度も口にした言葉は、今ではどこか突き放すように響く。だから、なにも言わずにボールを投げた。それだけで全てわかったとでも言うように、黒子は再びシュートの練習に戻る。やっぱりバスケしかなかったのかな、オレとテツの間には。その姿を眺めながら、ぼんやりと青峰は考える。
あのころは考えるより先に相手のことがわかった。声を聞けば、目線を交わせば、それだけで十分だった。それは彼にとっては、例えば空気が混ざり合うように簡単で当然なことだった。なにもしなくても伝わった。意思の疎通がどうこう以前に、多分特別な神経かなにかで繋がっていたんだろう。そうとしか考えられない。
「青峰君」
リングに当たる音。ガコン。
「今なに考えてるか当ててあげましょうか」
ネットをくぐる音。パスッ。
「すげーなテツ」
オレにはもうわからないのに。
「君もわかるでしょう」
「ん、ああ」
「うそつき」
ガコン。
「今、下手だなって思った」
「ハズレ」
なぜか嬉しそうに、黒子が微笑んだ。
「あのころ、ボクはバスケが嫌いでした」
穏やかな声色に安心する。それから少し前までの自分を振り返った。好きとか嫌いとか、もう意識にのぼることすらなくなっていた、自分。まるで泳いでいないと死んでしまう魚のようだった。
青峰を一瞥して、黒子は取って付けた様に君もつれなかったしなどと言う。戯れにオレのことも嫌いになったと聞いてみると少し考えてから頷いた。そうですね。
「全てを否定されて」
「……」
「楽しいはずがない」
無言のまま、眼差しに同意を求められる。わかっていながら応えない。
「やっぱり変わったわ、テツ」
「青峰君のせいです」
「そりゃどーも」
「本当ですよ」
ドライブも、パスも、ミスディレクションだって、みんな。もうやめようと思ったのにまたバスケをしようと思えたのも。
「諦めの悪いやつ」
「君に教わりました」
そういえば最初はこいつも諦めようとしてたんだったな。そう思うと、改めて変わったものの大きさに立ち竦むような気分になる。
「テツ」
「はい」
唐突に浮かんだ考え。今まで思いもしなかった、絶対に有り得ない仮定。もし自分にそこまで才能がなくて、あの小さな体育館で二人、ずっと練習していたとしたら。
「いつが一番楽しかった?」
得るものもなかったけれど、失うものもなかったんじゃないか、とか。後ろ向きな考えが首をもたげる。そんなこと望んでいない。別に昔に戻りたいわけじゃない。後悔なんてするわけない。満足している。それでおしまい、この話はさよなら。そうなるはずなのにそうならない。きっとこの、昔と今が混ざった変な空気のせいだ。砂を噛むような、不快感にも似た違和感。そんなことすら見透かしたように、黒子が大袈裟に溜息を吐いた。
「ばかなひと」
「てめっ」
「今ですよ」
いまがいちばん。そう重ねて言う。青峰に言い聞かせるように、一音一音はっきり。
「アホ峰君がごちゃごちゃ考えてることくらいお見通しです」
後悔なんてしてないでしょう?そう言ってまっすぐ覗き込む。言う通りすぎて気まずい。ごまかすように息を吐いた。
「……オレばっか、気に食わねー」
「一番長く一緒にいましたから」
もう、昔のことだけど。
「変に考えなくても、君は小さな井戸に収まるような器じゃない。ていうか井戸を破壊して海に乗り出していくようなひとですよ、青峰君は。……それに、一緒にボクのことも連れ出してくれたじゃないですか」
この声でそう言われればそうなんだと思ってしまう。なぜか納得させられる、不思議な安心感。それが意地悪な部分を刺激する。小さなこども。小学生みたいだ。
「なんですか?」
視線に気付いて首を傾げる。こいつの、変わらない癖だと思う。
「ほっぽられても?」
「…まったく、ひどい話ですよね」
「がっかりとか言われても?」
「結構傷付きました」
「無駄とか言われても?」
「涙出たんですよ」
「……悪かったな」
「だめです。許してあげません」
言い切ってしばらくはつんとしていた黒子だったが、ふっと表情を和らげる。
「久しぶりに君が考えてることがわかったような気がします」
「そっか」
「あのころの方が異質だったんですよ、きっと……ボクは君じゃないし、君はボクじゃない。手に取るように考えてることがわかるなんて、そっちの方がイレギュラーだった」
いくら近くても別の人間だから、言葉にしないと伝わらない。近すぎてわからないこともあるんですよ。ボクと君は、本当はもっと別にしないといけないことがあったのかもしれないですね。黒子は淡々と言葉を紡いでいく。珍しい饒舌。涼しげな声が心地よい。
「本当はね、高校ではやめようと思ったんです、バスケ。でも、どうしても、捨てられなくて」
青峰を見上げて、すっと右手をのばす。
「やめなくてよかった」
冷えた指先。冷たい頬。
「また君が笑ってくれてよかった」
もし、あの小さな体育館で二人、ずっと練習していたら。そうしたら、失うものもなかったかわりに得るものもきっとなかった。
「……立ち止まってたのはオレの方だったのかもな」
黒子は何も言わなかった。
少し黙ってそれから、君も、と口を開く。
「言いたいことがあるなら言ってください。ボクばっかりしゃべって癪です」
「テツらし」
左手で、細い右手を握った。あのころと同じで、あのころと全然違う手だった。
「言葉にしないとわかりませんよ」
「おまえも大概うそつきだな」
「見抜かれていましたか、意外です」
「当然」
あの夏のあとから、はじめてちゃんと笑った気がした。
「嫌いになれたら苦労しねーよ」
「同感です」
左手を離す。名残惜しげに、右手が移動した少しの熱を伴って離れた。
「……」
「今日はもう帰るぞ」
「はい」
そして、何事もなかったかのように、たいして散らばってもいない荷物をまとめる。家具はもうなにも残っていない部屋で引っ越し先に持っていく思い出をつめるみたいな作業だと思った。
「テツ」
じゃあな。そう言って、青峰が歩き出す。その背中を見ながら、そういえば中学の頃は別れ際いつも自分の方が先に歩き出していたなと思った。遠ざかる背中に安心した。君はもう大丈夫。ボクはもう大丈夫。冬の夜の冷気をこんなに清々しく感じたことはなかった。ちゃんと、それぞれの道を歩いていける。過去に、未来に目を閉ざすのではなくて。
「青峰君」
「あ?」
気がついたら呼び止めていた。くるりと振り返った青峰まで、数歩分。
「……君が尊敬してると言ってくれてうれしかった」
「今もしてる」
「ありがとう」
眩ゆさに目を細めるみたいに、彼は笑う。
「今思ったんですけど」
「ん?」
「ボクは君が好きだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれないです」
「……オレは喜べばいいのか残念がればいいのか」
「そんなことより一番は君への憧れだったってことですよ」
尊敬してました。
そう言って、一気に間合いを詰める。
「両想いですね」
真剣な、泣きそうな、笑いをこらえているような、そんな声。それが青峰の耳に届くより先に背伸びをして引き寄せる。それから一瞬だけ、少し高い体温が触れるか触れないかの距離を掠めた。当人たちでさえそれが本当に起きたことだったのか確証を持ちきれないような、その程度の時間。その間だけ、二人の息が混ざり合った、ような気がした。
「さよなら青峰君」
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