またあの悪夢だった。背筋がひゅうと冷めて、代わりに覚醒時の体温へと上昇するのを感じる。午前四時。窓の端に夜明けが映る。
寝覚めの良し悪しとは別に、最悪の気分だなとは思う。高層階から人の流れを見下ろすように、客観的に見つめる自分の感覚はどこか他人事のようだったが、それくらいでちょうどよかった。終わったことは戻らないしやり直しもきかないと骨身に染みてわかっているのに、それでもなお、未だに見る同じ悪夢が自分の未練の表れのようでいたたまれない。毎日見るならまだましだが、時折思い出したように見るのだから余計に質が悪い。自分は引き摺っていないと、ちゃんと自分の中で整理をつけたと思っているようで、全くそうではないと、お前はもっと未練たらたらに執着して浅ましいのだと、深層心理に突きつけられているようだった。
朝日の中で、彼が笑う。さすが野崎さんだ! と、勝利を確信した清々しさで笑う。先輩の心からの笑顔を初めて見たなと思う。先輩は俺を見ない。ただ、それだけ。それだけの、どうしようもない悪夢をまだ見る。もう、何年も経つというのに。
悪夢を見たところで日々に支障はなく、今日も淡々と為すべきことを為す。幸か不幸か、左肩には古傷ひとつ残らなかった。さすがの腕前だと思うほかない。その後先輩とは音信不通になり、生死すら知れない。遅かれ早かれいずれそうなることはわかっていたので、言っても詮無いことではある。
結果が全てだよ、と組んですぐの頃に言われたことを思い出す。結局、先輩が選んだのはあの男で、先輩が信じたのはあの男で、自分はそこへと至ることができなかった。ただ、それだけ。自分が及ばなかっただけ。撃たれたことも、本当に裏切ったのだと騙されたことも、今となっては些事だった。自分が、信じる相手に足りなかっただけ。それだけだ。怒りも憤りもやるせなさも悲しみも後悔も遥か遠く、今はただ、すべてが虚しかった。
オフィス街を、軽やかな足取りで歩く。本当の自分がわからなくなるなんて感覚は失ってとうに久しいが、代わりに、自分には本当の自分なんてないのかもしれないなと思う。顔見知りのキッチンカーの列に並び、握ったままの手の中で小銭の順番を入れ替える。マジシャンは指先が器用でないとね、と先輩が言ったのはいつのことだったか。思い出せないくらい、数年来の癖になっていた。
「次の方~」
陽気な店主の声に呼ばれて三歩進む。
「日替わりひとつ、ご飯大盛りで」
「はーい。八百円ね」
差し出されたプラスチックトレーに小銭を乗せると、すぐにレジ袋が差し出される。中を覗くと箸が二膳入っていた。
「おばちゃん、箸ふたつ入ってるよ」
「あらら、ありがとうね」
余分な箸を返して列から離れる。初夏の日差しは幾分強いが、まだ風は爽やかと言って差し支えない気温だ。木陰になっているベンチを探し、右端に腰かける。弁当の蓋を開けてから、手を合わせる。大振りな唐揚げを噛むと、じゅわりと肉汁が広がった。
ほどなくして左側に誰かが座ったのを気配で感じる。男が指先でベンチを叩く。三日後十九時。この方法を使ういつもの連絡役よりはずいぶん早い打ち方だ。代打か交代か、と思いながらごくりと紙パックのお茶に口をつける。了解の合図に満足したように男はゆっくりと立ち上がった。そのまま左に歩いていくかと思ったが、男は予想外に自分の目の前を通る。迂闊なやつだなと、思いかけた、その瞬間。
「元気そうだね。よかった」
聞こえたその声に瞠目した。指先すら動かせないまま、右肩に一瞬置かれた手はすぐに離れ、歩き去る気配も姿も足音も、もうどこにもない。周囲にはもう、ただ、オフィス街の昼休みの雑踏があるのみだった。
今の声。間違いなく乃木さんだった。トンツーの打ち方も歩き方も、まるで別人だったくせに。
「かなわねえなあ……」
思わず漏れた声が、新緑のざわめきに溶けていく。連絡役は任されたのか自ら買って出たのか、声をかけたのは指示か自由意思か、自分には知る由もない。ないけれど、それをしても差し支えないと、今更寄せられた信頼がひどく痛かった。
ずっと追いかけてきた。ずっと見ていたはずだった。信じてきて、信じていて、信じたくて、だから真実に至れなかった。それだけ。裏切られたと思ったことも、その嘘を見抜けなかったことも、嘘で守られたことも、今となっては些事だった。自分が至らなかっただけ。それだけ。でも、それでも、俺は、あのとき乃木さんにも俺を信じてほしかった。
追いかけることも泣くことも、選択肢として持たない俺は、ただ淡々と弁当を食べ続ける。きっともう、あの悪夢を見ることはないだろう。あのうつくしい死神に会えることも。自分はきっともう、どちらの機会も失ってしまった。残酷なほどの優しさが、大盛りの白米と一緒に胸につかえて痛い。それすらも、あと数分で跡形もなく通りすぎてしまうだろう。
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