明星 - 2/2

 走り去る背中を見送ってから、手元に視線を落とす。つややかな漆の鞘。あの一瞬のやり取りのなかで自分にこんな大事なものを預けてくれて、どれほど嬉しかったか。
 今回のことで黒須が理解したのは、乃木の性質は北極星のようなものではないということだった。それひとつでは見つけにくいが、何があっても位置を変えず、旅人の道しるべになる北極星ではない。もっとまばゆくて激しいもの。
 言うなれば、位置も見え方も一定ではないけれど、すぐにその姿を見つけられる金星のようなものだ。形と場所を変えながら、見えにくい時期もありながら、太陽の光を反射してうつくしいグラデーションの空に変わらず輝く、明星。地球の兄弟星と言われながら、全く異なる過酷な灼熱の惑星。
 ――彼はきっと、何も変わっていない。自分と出会う以前から、彼はきっとそういう在り方だった。変わってしまったのは自分のほうだった。要すれば仲間すら欺くということを、乃木が選択肢として持つことをもう知ってしまった。過去は不可逆である。この先も、ふとした別れ道でそれは頭をよぎるのだろう。
 それでも、手のなかにある守り刀が、彼の選択を示している。計算なのか本心なのか、理論なのか感情なのか、行動の裏側にあるものを推し量ることはできないけれど、それでも乃木がこれを預けると言ったことだけは、黒須にとって真実確かなものなのだ。
 乃木は、心に血を流しながらもきっと父に対して引き金を引くだろう。父が、あの国で平和に暮らす人々を害そうとするなら。その高潔さは、人ならざるものなのかもしれない。うつくしく誇り高い、冷酷で苛烈な怪物。それでも信じる。生きている者の体温のあたたかさを、生身の人間の弱さと強さを。また裏切られるとしても、秘密を抱えられるとしても。その嘘の影には、変わることのない信念があることを、もう知ったから。
「……いつ返せるかな」
 もう一度、守り刀を握りしめる。まだバルカでやることがある。テントの解体を見届けること、有事を未然に防ぐこと、彼の弟を守り、あるいは行く末を見定めること。当分は帰れまい。もしかすると、乃木がまたバルカにくるほうが早いかも。あるいは、ずっと会わない時期が続くということもあるかもしれない。
 もしこの先、乃木に会うことがないとしても、また騙されるとしても、構わなかった。乃木は預けると言ったのだから、自分はその手に返す日を信じて待ち続けるだけだ。
 今年の金星は、夏以降に明けの明星になる。その頃までには、持ち主に守り刀を返せるだろうか。向かい合って食事をする日はずっと訪れないとしても、いつかまた、あなたの隣でうつくしい朝焼けを見られたらいい。

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