図書館から借りこんできた本がずっしりと重い。往復の手間を惜しんで必要な資料を一気に借りたため、自分の足元はおろか正面も上半分しか見えない。ラファウは自分の目算の甘さを少し恨んだ。しかし持ってきてしまった以上はどうしようもない。転ばないように注意を払いつつ、しかしあまりに重いのでできるだけの速度で歩を進めていく。
研究室は廊下の角を曲がってほどなくの場所だ。ドアノブをどう持とうかなと思案していたが、話し声が遠く聞こえてくる。誰かいるなら助かったと、角を曲がり声をかけようとして、とどまった。
扉の前にいたのは、研究室の先輩のバデーニと、彼の友人のオクジーだった。非効率なことを嫌うあの先輩が立ち話なんて珍しいと、好奇心に抗えず角の手前に戻り聞き耳を立ててしまう。
「じゃあ今週の金曜日でいいですか?」
「構わない」
「忙しかったら本当にこっちはいつでもいいので」
「いや、大丈夫。都合をつける。まあどうしようもないときは早めに連絡するから」
あのバデーニさんがそんなこと言うなんて!? と衝撃を受け、こっそりと顔を出して彼らの顔を覗き見る。オクジーはいつもの通りにこにこと穏和に笑っている。問題はバデーニで、平時より数段表情が柔らかい。よほど気に入らない分析結果が出たとき以外あまり顔色を変えない彼であるだけに、見てわかるって相当だな、と目を見張った。
なんだか第三者が見るべきではないものを見てしまった気がする。これ以上勝手に立ち入るのは気が引けて、両手と顎で支えていた資料の重心を直し、意図的に足音を立てつつ角を曲がった。ぱっと顔を向けたオクジーは、ラファウの状態を見て慌てて歩み寄る。
「その量大丈夫ですか!?」
「こんにちはオクジーさん。正直あんまり大丈夫じゃないです」
「上半分持ちますよ」
オクジーはそう言い、半分どころか八割がたの資料を軽々と抱えた。一気に両手が軽くなり視界が開けてほっとする。バデーニは何も言わず、しかし大きく扉を開けて待ってくれていた。
「ありがとうございます」
「大量だな」
「横着せず往復するべきでした」
バデーニはいつもと同じ様子に戻っている。運んできた本の背表紙をちらりと見て、悪くないチョイスだ、と呟き、小さく口の端を上げた。
「……何か?」
一連の様子をじっと見てしまっていたラファウに、バデーニが怪訝そうに聞く。どこに置きますか、と研究室の奥からオクジーに声をかけられ、これ幸いとそちらに向かう。
「その右の机のところにお願いします」
「……これ上にそのまま積んでいいんですか? 崩れません?」
「く……ずれたらヤバいですね、ちょっと整理します」
「じゃあとりあえずこっちのテーブルに置きますね」
「ありがとうございます、助かります」
いったん本を椅子の上に置く。パソコンとモニターとケーブル類と資料のコピー、散乱した机の上のものを適当に左側に寄せてスペースを作る。バデーニは、オクジーが運んだぶんの本を手に取ってはぱらぱらとめくり、また次の本を手に取っては眺めていた。
机の上を片付けながら、二人の様子を横目で見る。オクジーはバデーニのめくるページを横から覗いている。バデーニもそれに気付いて、見やすいように本を持つ位置を彼の側へとずらす。当初は詳細な理論部分を適当につまみ読みしていたはずだが、オクジーにも分かりやすいようにだろうか、開いているページは本の導入部分に変わっている。
分かりやすすぎます、バデーニさん。そんなことを思っていたら、じゃあそろそろ、とオクジーが言った。
「また連絡する」
バデーニは小さく微笑む。オクジーは置いてあったリュックを背負い、はい、とはにかんで頷いた。
「ありがとうございました」
手を止めて体ごと向き直る。ラファウが一礼すると、オクジーも釣られるようにぺこりと頭を下げた。わざわざ立ち止まって、律儀に。扉を閉めるときも、失礼しました、と一礼をして去っていく。
早々に机の片付けに戻っていたラファウの後ろを通り、バデーニが自席へと戻る。一分にも満たないタイムラグ。それがラファウの中でかすかに引っ掛かり、瞬間繋がった。
まだ追い付けるだろうか。弾かれるように研究室を飛び出す。そんなラファウの背中を、バデーニは訳がわからないと困惑した表情で見送り、なんでもいいかとすぐに手元の作業に集中し直した。
さっきはこれ以上立ち入るのは気が引けると思ったはずなのにな、と自嘲しつつ、それでも気になるものは止められない。一階に向かう階段までの一本道を、小走りで追いかける。
バデーニさんはわざわざオクジーさんの姿を見送っているんだ。扉の磨りガラスの向こうのおぼろげな輪郭が見えなくなるまで。日によってはプリンターの出力待ちの時間すら嫌うくせに。そんな一面を知ってしまった以上、ぜひ聞いてみたい。
「オクジーさん!」
背中が見えた。立ち止まり振り返る彼の顔に疑問符が浮かぶ。
「どうしたんですか?」
いざ追いつくと、いきなり本題に入るのは躊躇われ、いったん笑ってごまかした。息を整え、借り忘れた本があったので、と急場凌ぎの言い訳を口にする。オクジーは特段疑問には思わなかったようで、むしろ、一緒に運びましょうかと気遣いまで示す。いえいえそれには、とラファウは慌てて断った。
「あの」
会話の間合いを見計らって口にする。聞きたいことは色々あるが、まずはやはり。
「バデーニさんってあんなに分かりやすいんですね」
ちらりとオクジーを見上げると、一瞬の驚きの表情のあと、ふっと目元が和らいだ。
「そうですね、よく見てると結構分かりやすいひとですよね」
ラファウがオクジーと話したことは数えるほどしかない。大抵は二言三言の挨拶程度だ。それでもわかる。ただでさえいつも穏やかなその声が、いつもよりもあたたかいと。
気分を害したらどうしようかという懸念もわずかばかりあったが、その心配はないようで安堵する。バデーニがその背中を見送っていることを知っているのか、知らなかったとしたら知ったときどんな顔をするのか。そんな興味に突き動かされて追いかけてみたが、むしろ、いざこの声を聞いたらもうどうでもよくなってしまった。
「急いでいるとき、よくプリンターを急かしてますよ」
「はは、目に浮かびます。ウェブの読み込みが遅いときもよく急かしてますよ」
「うわ、普段もそうなんですか」
「意外と機械を宥めすかすタイプなの、おもしろいですよね」
階段を降り、外に繋がる扉が見えてくる。
「別に急いでるわけじゃないんで、もしまたたくさん本運ぶなら、お手伝いできますけど」
「ありがとうございます。本当にお気遣いなく」
正門は図書館とは逆方向にある。そちらに足を向けるオクジーに、ひとつだけ、質問したいことがあった。
「バデーニさんって、オクジーさんから見てどんな人ですか?」
オクジーは目を瞬かせ、それからじっと視線を伏せた。そして数秒後、思い出し笑いをするように、小さく微笑む。
「うーん……強いて言うなら嘘が上手いひとですかね」
予想外の言葉だった。面食らっているラファウの様子に、慌ててオクジーが言葉を重ねる。
「あの、えっと! そういうことではなく。ラファウさんもお分かりだと思うんですけど、ちゃんと何事にも真摯に向き合っているひとなので、嘘というのは決してそういうことではなくてですね」
「あの……はい。びっくりしました」
「あああそうですよね!? 本当にすいません」
「オクジーさんに対してはよく嘘をつくんですか?」
「それも語弊があるというか、嘘のつけるひとではないんですけど、あの、本当にすみません。このことはバデーニさんにはどうかご内密に……」
自分より慌てふためく人を目にすると冷静になるものだ。ラファウはオクジーの「分かりやすいひと」という言葉を反芻し、質問を重ねる。
「……分かりやすい人、嘘のつけない人なら、嘘が上手いというのは両立しないのでは?」
先ほどまでの狼狽っぷりから一転、オクジーはただ微笑み、それから言った。
「情の深いひとってことです」
来た道をひとりで戻る。分かりにくいようで分かりやすいバデーニさんとは反対に、オクジーさんは分かりやすいようでよく分からない人だな、とラファウは認識を改めた。
研究室に帰る。ドアの音に顔を上げたバデーニと一瞬目が合ったが、彼はすぐまた手元に視線を戻した。やっぱりこれがデフォルトなんだよなあ、と思うと逆に安心感を覚えた。
「バデーニさん、金曜日はオクジーさんとどこか行くんですか?」
二人の席は背中合わせの位置にある。集中作業中というわけではなさそうな様子だったので、片付けの傍ら声をかけると、ああ、と何でもないことのように返事が返ってきた。
「週明けにかけて追い込みって言ってませんでしたっけ」
「いちいちよく他人のことを覚えているな、君は」
「いや、普通に話したことは覚えてるでしょ」
呆れまじりに返しつつ、積み重なった印刷物から必要なものだけ選別していく。
「オクジーさん知ってるんですか?」
「いや」
「忙しいときに予定入れたくないですけどね、僕は」
「木曜日までの私と週末の私がなんとかするから問題ない」
予想外の返答に手が止まった。普段のバデーニの様子から考えると出てきそうにない言葉に、そこまでの優先順位なんだ、と衝撃が走る。先刻のオクジーとのやり取りを踏まえて考えるに、きっと彼はバデーニのこういうところをわかったうえで、特段何も言わずにいるのだろう。オクジーには立て込んでいる時期であることは話していないと言ったが、本当のところはどうだか。言った本人が忘れていることも十分あり得る。なるほど良いバランスなわけだ。もちろん、二人の詳細は二人以外にわかるはずもないが。
「……バデーニさん、オクジーさんのことちゃんと大切にしないと駄目ですよ」
「いきなり何なんだ。今日の君、変だぞ」
バデーニは一度くるりと振り返り、心底怪訝な顔をラファウに向けた。訳がわからないと首を傾げ、それから何もなかったかのように机に向き直る。呼び掛けてみても、もう返事は返ってこない。周囲の雑音をシャットアウトして目の前のものに没頭するその背中は、ラファウがよく知るいつものバデーニのものだった。
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