アーリータイムズ

 クーラーがいかれてしまった。クーラーが、というより、電気系統がいかれてしまった。
 それは完全に想定外の出来事だった。車体の傷と凹みを直してもらってそれで終いだと思っていたのに、どうやらあの夜、首都高で相当の無体を強いたせいでどうにかなってしまっていたらしい。
「今日になるまでなんともなかったんですけど、急につかなくなるものなんですか?」
「車によりますが、なにかの衝撃などで急に不具合が起きるということはままあります。失礼ですが、先日の事故の日、東都水族館に行かれましたか?」
 ディーラーに問われ、不思議に思いながら頷く。
「ええ、はい」
「でしたら同様の症状が出てしまっているお客様も多数いらっしゃいますので、その際なにかがきっかけになったのかもしれません」
 はあ、と言うしかなかった。
 安室はちらりと外に停めた愛車を見遣る。あの数日間、とても修理に出せる状況ではなかったから傷だらけの状態で乗らざるをえなかった。
(ごめんよ、しばらくそのままにしてて)
 愛車、というよりは戦友に近いRX-7をやっと綺麗にしてやれる。そう思いかなり浮き足立ちながら修理依頼に向かっていた道中、カーラジオがつかないことに偶然気づいた。それから何度か消してつけてを繰り返すと何事もなかったようにラジオからは音が流れ出したのだが、はたと思い至りつけてみたエアコンはうんともすんとも言わなかった。どうしたんだい、とこの場にそぐわない曲が脳内に勝手に流れてくる。まあ、いかれているのは空調だけでエンジンはいかれてはいないのだが。
 どうしたものか、と再び思いながら出されたコーヒーに口をつけた。普通の、ありふれたコーヒーの味だった。
「大変申し訳ないのですが、あの事故でいま修理のご依頼が立て込んでおりまして……かなりお時間をいただいてしまうことになると思います。代車の手配にも数日かかってしまいそうです」
 申し訳ございません、と再度謝るディーラーにこちらのほうが申し訳なくなってしまう。いえそんな、と慌てて言いつつ、安室は内心どうしたものかと重々しい溜め息を吐き出した。
「違う車種でしたら比較的早くご用意できるかと思いますが……」
 いかがなさいますか、とディーラーは申し訳なさそうに体を小さくしながら言った。完全に車を足にしている安室にとって代車がないのはきつい。しかしここで一般家庭で乗るような車など借りようものならいつも助手席に収まっている女に笑って「あら、随分な車に乗ってるのね」とでも言われてしまいそうだ。言われてもない言葉があの声で聞こえてくる。そんな面倒な事態は御免だった。
 そんな忌々しい想像はおくびにも出さず、好青年の顔で安室は笑う。
「いえ、では代車はひとまず結構です。セブンかエイトが空いたら借りる、というのは可能ですか」
「はい、可能でございます、誠に申し訳ございません……!」
「あの本当に大丈夫ですから。しょうがないですよ、あの事故じゃ。それではよろしくお願いします」
 一礼してからくるりと踵を返し、やっと溜め息を口から吐き出す。先日あそこまで派手にやったあとだ、しばらく組織の動きもあるまい。付き合いの長いディーラーだし数日もせずに代車は用意してもらえるだろう。早く借りられるといい、できればスポーツタイプのを。そう思いながら、どこにでもいそうな男はタクシーを捕まえて帰ろうと大通りに向かって歩き出した。
 それが三日前。代車手配の連絡はまだこないままだった。
「で、これはなんの冗談だ」
 住宅街に走る道路、電柱のすぐ隣で、目の前に立つ男を睨みながら安室は吐き捨てるように言った。男はそんな彼をまっすぐ見つめつつも特になにも言わず、言葉のかわりにゆるゆると煙を吐き出す。
 駐車場が近くにない関係で以前よりポアロに出る日は歩きだったため車のない生活にもさして支障はなかったのだが、二十二時、ポアロを閉めて道路に出て数百メートル歩いた先に世界で一番嫌いな男が立っているなんて誰が想像しえただろう。苛立ちを隠しもせず、安室はチッと舌打ちをした。あの胡散臭い変装(だと安室はいまでも頑なに信じている)ではなくよく見知った姿で煙草の煙をくゆらせながら夜に紛れる赤井、知らないものは彼の後ろに停められた車だけだった。派手な赤い車でなく、どこにでもありそうな白の国産車。つるりとした曲線のラインが街灯にぼんやりと浮き上がっている。
「ストーカーか」
「心外だな」
「じゃあ僕を誘拐でも?」
「……それもいいな」
 乗れ、と煙草を蓋がついているタイプのコーヒーの缶に放り込みながら赤井は言い、自分はさっさと運転席に乗り込んでしまった。訳がわからないまま道路に一人取り残され立ち尽くしている。
 住宅街、なまぬるい空気、短くなっていた煙草、蓋つき缶コーヒー。見たことのない国産車。ブォン、とエンジン音がする。テールランプが赤く光っている。
 チッ、とまた舌打ちをした。

 向かう先が自宅でもなく、工藤邸でもなく都内方面でもなく、東名インターチェンジであるということに割と早い段階で気づいてはいたのだが、安室はなにも言わずただフロントガラスの向こうを見つめていた。赤井も安室も一切口を開かない。車内に響く音はエンジン音、それから赤井が時折つけるノイズ混じりのハイウェイラジオのみである。
 日中は雲ひとつない晴天だった。だからだろう、夜空にも雲はまったくないのだが、如何せん車の流れと最近新しくなったらしい道路脇の明かりのせいで星などはほとんど見えない。おまけに新月、暗いのに地上付近はとても明るい夜だ。
 視界の端に、サービスエリアまでの距離が示された標識が映った。それに視線をやるもあっさりと追い越して後方に流れていってしまう。
 安室が標識に目をやっていたのに気付いていたらしく、赤井が降りるか、となんでもないことのように言った。
「結構です」
「そうか」
 それが車に乗ってから最初の会話だった。
 今度は窓の外ではなく右隣の男の横顔を盗み見る。盗み見る、といってもどうせ赤井はそれにも気付くんだろうと思っていたから、ふっと口の端をあげて笑っても別段なんとも思わない。
「寝てもいいぞ」
「誰が」
「どうせろくに寝てないんだろう」
「……今更」
 赤井はそれ以上何も言うつもりはないらしく、会話は途切れ、沈黙を埋めるハイウェイラジオもいまはない。先日のカーチェイスの余韻のせいか、制限速度を守りながら追い越す景色はやけにゆっくりと流れていく。優に百キロ近くは出ているはずなのに。
「なんであんなところにいたんだ」
「その言葉そのままきみに返そうか。観覧車の上なんて危ないだろう」
「今日の話だ!」
「おや、誘拐ということになったんじゃなかったのか」
「……サービスエリアで置き去ってそのまま帰ってやろうか」
「それは遠慮願いたいな」
 はは、と飄々と赤井は笑い、安室はまた眉を顰めたが不思議と車に乗り込んだときのような苛立ちは沸き上がってこなかった。この変な状況のせいだ。あまりのおかしさに感覚が麻痺して、このおかしさに慣れてしまったせいだ。一台の車のなか、考えるまでもなくそもそもすべてがおかしいのだった。
 一度会話が始まればそれまでの無音など、そんなものまったくなかったかのように口を開くのがひどく簡単になる。たとえ言いたいことがあったとしても頑として動こうとしなかった唇が嘘のように。再び視線を左前方に戻しながら、この車、と呟く。
「いつもの派手なやつじゃないんですね」
「代車だからな」
「……代車」
「同車種に空きがなくてな」
 まっすぐ、ブレのない軌道で三台抜き去っていく。大方きみもそうだろう、と言う赤井の左手はずっとチェンジレバーに置かれている。
「よくわかりましたね」
「きみもだいぶ派手に擦ってただろう」
「ええ、まあ」
「おや、今日は素直だな」
「隠すほどのことでもないので」
 言いながら、隠すほどのってなんなんだろう、とぼんやりと考える。同業者、懐の探り合い、あのこと、立場の違いと共通の敵と共同戦線と数日前の殴り合い。自分達の間にはいろんなものが多すぎて、なにが普通でなにが普通でないのか改めて考え出すとよくわからない。
「それから」
 ぽつりと呟いた四文字が、運転席と助手席の間をさまよっている。周波数の書かれた標識を追い越し、赤井は左手をチェンジレバーから外してハイウェイラジオをつけた。ノイズ混じりの女性の声、午後十一時現在の道路交通情報をお知らせします、この先雨が降っています、十九キロポスト積み荷が落ちています。
「それから、ついでに電気系統もいかれたらしくて」
「電気系統?」
「ええ」
 クーラーがうんともすんとも、と言った安室の声には少し笑いがまじっていた。
「僕もやっぱり時間かかるって言われました」
「あの事故じゃな」
 そうですね。
 なんでそんなこと、あっさりと話しているのだろう。この車、一体いまどこへ向かって走っているのだろう。赤井のことだ、たぶん特に行き先もなく好きに走らせているのだろうなと思った。
「やっぱり代車ありませんって」
「軽自動車に乗る安室くんか。家庭的じゃないか」
「乗るわけないでしょう。普通の車に乗ってるあなたのほうが驚きですよ」
「たまには悪くないさ」
 安室が最後にこういった類いの車に乗ったのは大学を卒業する前の最後の春休みだった。考えてみれば赤井のことをたいしては知らない。情報としては知っていたとしても、やはり知らない。そのくせ向けられる視線の温度や拳の重さや煙草の銘柄は知っている。ひどくいびつだった。
 三重生活、危険と常に隣り合わせの非日常がむしろ日常だ。とうの昔から。普通の生活なんて忘れてしまった。同い年の、普通の二十九歳なんてまったく想像がつかない夢物語なのに、車に傷がつけば修理に出すし特に身のない会話をしたりもする。安室も、赤井も。こちら側に身を投じてすぐの頃、自分は一体どんなだったのだろう。もはや思い出せなかった。
 一般的な普通を思い出せない。頭としては想像できるが、手触りを持った実感としては思い出せない。赤井のことを知らない。今日あそこに立っていた理由も。赤井と蓋つき缶コーヒーという見慣れない組み合わせも、短くなっていた煙草の理由も、車のなかはまったく煙草のにおいがしないのも、赤井の背中、空に見えたひとつ大きな星がなんだったのかも、この車の車種も、こうして助手席にのこのこと収まってしまっている理由も、呑気にしている会話の応酬も、会話のテンポも、わずかに空気にまじる独特のにおいを目敏く見つけてしまうのも。
 気まぐれのようで、気まぐれでなく。偶然でないようで、あくまで偶然であり。数日前全力で殴り合った相手と穏やかに、談笑? そう、ドライブしながら談笑できるくらい、二人はドライな大人である。
 一台の車のなか、考えるまでもなく、すべてがおかしいのだった。
「雨、降ってきませんね」
「ああ」
「月も星もないけど」
「夕方、糸みたいな三日月は出ていたぞ」
「へえ」
「今から箱根にでも連れてってやろうか?」
 目を閉じ、わずかに吊り上げた口角で返事をする。
 明日になればまたいつもの生活に戻り、赤井に会えばまた激情に駆られるのだろう。オートマなのにチェンジレバーに置かれたままの左手。マニュアルに乗り続けているからの癖。未来は見えないふりをしつつ、今だけは二人、赤いライトを追いかけている。

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