鍛刀場にその豪快な笑い声が響くとほぼ同時に、ばたばたばたっと大きな足音をたて駆け込んできた今剣のあまりの勢いに燐は慌てて身を壁際によせた。突進といっても差し支えないような勢いでその巨体に向かって跳ね、抱きついた今剣の小さな体を軽々と受け止め抱き上げる新たな付喪神の顔を見つめる。どことなく一緒に暮らす男の顔に似ている。まあ、似ているのは主にその髪の色だけなのだが。
「いわとーし!!」
「おお、今剣だな! 息災であったか!」
「はい! やっと! やっときましたね! 遅いですよ!」
「すまぬすまぬ、待たせたな」
「いわとーしー!」
今剣はきゃっきゃっと喜びを全面に押し出し、新たな付喪神――薙刀の岩融も心底嬉しそうにそれに応じていた。完全においてけぼり状態のまま、しかし間に入って邪魔をするのも悪い気がしてしまい、燐は口をつぐみつつ壁に寄りかかる。なんかよくわかんねえけどよかったな、と思いつつ眺めていると、ひょっこりと鍛刀場を覗く人物が二人。本日の近侍、にっかり青江と、燐の恋人かつ当本丸の居候、志摩廉造であった。
「おや、やっときてくれたのかい、彼」
「……えーっと、あいつら、知り合い?」
よかったねえ、と二人の様子に微笑む青江に対して燐が首を傾げつつ言うと、青江は一瞬にしてぽかんと呆れ顔になり、志摩は弾けるように笑い始めた。
「ヒーッ、奥村くん、知らんでずっとやってたん?」
「だっていまのがいわとーしを連れてきてくれってよく言ってたから……」
「……燐さん、本当に知らなかったの」
「いや、なんか、ずっと寂しそうだったし……なんとか会わせてやりてえと思って……」
「それだけでここずっと資材注ぎ込んでたのかい!?」
「えっと……おう……」
「ヒーッ」
「嘘だろう……!? 僕だって、さすがに今回は燐さんも岩融と今剣のこと知っていると思ってたよ……!」
「さすが奥村くんや……!」
「いやなんか……ええ……? ごめん……?」
「も、ほんま、奥村くんやめて最高……!」
「うるせーぞ志摩!」
ヒーッ、ヒーッ、と志摩がいつまでも体を折ってげらげら笑っているので、燐はその尻を蹴りあげた。イッタ! と志摩が小さく悲鳴をあげる。
「ちょっとは手加減してぇな!」
「テメーがいつまでたっても笑ってっからだろーが!」
「だからって蹴らんでよくない!?」
「うっせえ! だまれ!」
「ひどい! 奥村くんが優しくない!」
「うるせー!」
すっかり見慣れてしまった光景に青江はこめかみをおさえ深々とため息を吐いた。再会の挨拶が一段落したらしい岩融と今剣がやいのやいのと騒ぐ二人を不思議そうな顔で見つめているのに気づき、青江はふう、ともう一度、今度は短いため息を吐いてから口を開いた。
「はいはいそこまでだよ。志摩さんもいい加減笑いやんでくれないかな」
志摩は一度ツボに入ったらなかなかおさまらないということをこれまでの経験から学んではいるが一応そう言ってみる。それでもなお腹を抱えていたが、燐がもう一度右足を蹴りあげようとすると危機感を感じたのかやっと志摩はおとなしくなった。
「はじめまして、僕はにっかり青江。君と同じ刀の付喪神だよ。こちらはこの本丸の主の奥村燐さん。君のことは燐さんが呼び出したんだ。で、こっちは居候の志摩廉造さん」
「どーも志摩ですー。よろしゅう」
燐の右足への警戒は一応解かないままでへらへら笑って志摩が会釈をすると、抱えあげられたままの今剣がなにやら岩融に耳打ちした。岩融はほう、と興味深そうに頷き、それから今剣をおろして燐に向き直る。
「挨拶が遅くなりすまぬ。俺は岩融、今剣とは昔馴染みゆえはしゃいでしまった。主、これからよろしく頼む」
「燐でいーよ。ウチにきてくれてありがとな、これからよろしく、岩融」
とりあえず案内するからついてきて、と言う燐に続いて志摩、青江、今剣が鍛刀場を出る。続いて岩融も出てくる……はずだったのだが、代わりにゴッと鈍い音が響いて四人は振り返った。体の感覚がまだ掴みきれていない岩融もご多分に漏れず戸のへりに頭をぶつけてしまったらしい。もはや大きい刀にはお約束ともいえるそれに再び笑いのツボが刺激されてしまった志摩の尻を、燐は無言で思いっきり蹴りあげた。
本丸、といっても城ではなく、田舎の外れの大きな古民家で燐は志摩と四十振近くの刀剣の付喪神とともに暮らしている。
祓魔師であった奥村燐が審神者になった経緯はいろいろと複雑らしいのだが、その詳細を知る者は当人たち以外にいない。なにやら様々な政治的判断が絡み合ってのことらしい、ということをなんとなくみな察してはいるのだが、燐も志摩ものらりくらりとかわして話そうとしないのもあってそのあたりの事情はまあいいかと放置され続けている。料理と畑仕事、ときどきご近所さんのお宅の手伝い、その合間に差し迫った事態になれば出陣、そんな毎日である。この古民家での暮らしを始めてまだ一年も経っていないので畑仕事はまだ軌道に乗ってはいないのだが、そのあたりはご近所さんからのおすそわけがあるのでなんとかなっている。平均年齢がそれなりに高い田舎の農村において、志摩と燐という若い労働力は貴重なのだ。わからないことは素直に尋ねにきたり忙しそうにしていても頼めばいつでもすぐさま手伝いにきてくれる燐を身内のようにかわいがる人は多い。また志摩は肉体労働に関しては適当に手を抜きつつ、しかしおばあちゃん方にはなぜか妙に人気のためよくお菓子を持ち帰ってくる。志摩がもらってきたお菓子はたいていおやつになり、そして一瞬にしてなくなるのだった。
そんな二人だが、かといえば祓魔師をやめたわけでもなく、家の近くで悪魔がらみの問題が発生すると騎士團や自治体からお呼びがかかることもしばしば。まあ要するに騎士團にいいように使われているといえばそうなのだが、十代後半を目まぐるしく駆け抜けた燐はこのまったりした暮らしをかなり気に入っていた。祓魔師業と審神者業の二足の草鞋どころか、もう農業が本業っていったほうが正しいんちゃうの、と苦笑まじりにこぼした志摩になるほどそうかもしれないと頷いたのはつい最近のことである。
資材が貯まりすぎてどうにかしないといけなくなる、もしくは誰かの強い要望があるときだけ鍛刀を行い、少しでも怪我を負って帰ってくきた者がいればすぐさま手入れし、近侍は日替り制、畑仕事は毎日だが出陣は三日か四日に一度、という田舎の緩い生活リズムと同じようにのんびりと審神者業を行ってきた燐のもとにも、いつの間にやら存在が確認されている付喪神の八割方が揃っていた。そのうちの一人、獅子王が二通の手紙を燐に渡しにきたのは、ほとんどの案内を終えて岩融を今から部屋へ連れていこうというときだった。
「燐、手紙きてるぜ。あと志摩、佐伯のばあちゃんがそろそろ買い物行かなきゃって言ってた。車出してやってよ」
「そか、じゃああとで行ってくるわ」
「おー、サンキュ。誰から?」
「杜山のお嬢さんと、あと騎士團から、たぶん悪魔がらみじゃないほう」
「うげぇ」
「うわあ奥村くんまたお呼び出し? かわいそー」
「すげーいやなんだけど……」
顔をしかめる燐の肩越しに騎士團からの呼び出し通知を覗きこみながら、志摩が心底嫌そうな声を漏らす。杜山のお嬢さんっていうのは燐さんと志摩さんの友人の一人で、花や薬草を育てて生業にしてるんだよ、という青江の説明に岩融はうんうんと頷き、獅子王がその大きな背を見上げて感嘆の声をあげた。
「岩融、だよな? 獅子王っていうんだ、よろしくな!」
「おう、これからよろしく頼むぞ!」
「よかったな今剣。岩融がこない、岩融に会いたいってずっと言ってたんだぜ」
「そうであったか。再びまみえてすぐに、遅いと叱られてしまってな」
「あんまり遅くて待ちくたびれてたんですよ!」
「君たちはいいなあ。僕も早く数珠丸に会いたいよ」
「青江派なんだっけか、数珠丸ってやつも」
「そうだよ」
「青江もきっとそのうち会えますよ」
「うむ、今剣の言う通りだ」
「ふふ、二人ともありがとう」
青江がにっこりと笑う。そんなほのぼのした会話とは対照的な様子の燐と御愁傷様と言いつつもどこか他人事感が拭えない志摩をじいっと見つめつつ、岩融が口を開いた。
「なあ、きしだん、というのはなんなのだ」
「あ、そっか。燐は審神者、って言ってもわかんねえよな。えっと、俺たちみたいなのを呼び出し体を持たせる者のことを審神者って言ってさ。燐はその審神者、ってやつなんだけど、それだけじゃなくて祓魔師っていう別の仕事もしてんだ。騎士團っていうのはその祓魔師たちの組織のこと」
「えくそしすと……異国の言葉か」
「そうですよ。悪魔を祓う人のことらしいです」
「ほう。陰陽師のようなものだな」
「まあ、そんなかんじでいいんじゃないですかね!」
「燐さん、もともとは祓魔師が本業だったらしいんだけどねえ。まあそのへんの事情はみんなもよく知らないから、気になったら本人に聞いてみるのがいいと思うよ」
「志摩殿も祓魔師なのか?」
「志摩なんて呼び捨てでいいんですよ岩融」
「ずいぶんぞんざいに扱われているようであったが……」
「いいんです、志摩は居候で無職で燐のヒモなので」
「二人がそういう仲なのってもう聞いてんの?」
「ああ、今剣から聞いた」
「おやさすが。ああ、あの耳打ちしてたときかい」
「そうです! こんなおもしろいこと、すぐ教えてあげたいじゃないですか!」
えっへん、と今剣が胸をはる。ちょうどそのとき、畑仕事が一段落ついたのか、遠くから複数の足音と話し声が聞こえてきた。騎士團からの面倒な召集の手紙は封筒にしまいもう一通、しえみからの手紙を顔を寄せあい読んでいた二人も顔を上げる。ぞろぞろと戻ってきた数人のそのなかには初期刀である加州清光の姿もあった。燐がキヨ! と手招きしつつ呼ぶと、清光はぱああっと顔を明るくして駆け寄ってきた。
「燐くん! なに、どうしたの?」
「呼び出されたから支度してくれ。畑あがったばっかでごめんな」
「ううん、待ってて、すぐきれいにしてくるから!」
志摩の横を通りすぎるとき、清光が行ってきまーすとわざとらしい満面の笑みを向けた。志摩もゆっくりしてきいやーとこれまたわざとらしい笑顔で返す。
「……あの二人は仲が悪いのか?」
「二人ともこどもなんですよ」
「加州くんも志摩さんも、燐さんのこと大好きだからね」
「すきの意味が違うことくらい重々わかってるだろうに、なんでわざわざ志摩も張り合うんだろうなぁ」
「なるほど」
ほんっとおまえガキ、と呆れ顔で、しかしどこか優しい顔で志摩に言う燐の横顔を見下ろしつつ、岩融は頷いた。人が多ければそれだけ関係性の糸も複雑になる。どうやら楽しい日々が送れそうだと思ったのを察したのか、志摩と清光はつつくとおもしろいですよ、と今剣がいたずらっぽく笑った。
「わりい、呼び出し入っちまった。きてくれたばっかなのにごめんな。わかんないことあったら他のみんなに聞いてみてくれ。あ、そうだ、腹減ってるか? おにぎり作ってあるから、畑あがってきたやつらと一緒に食ってて」
「奥村くん俺はー?」
「おまえさっきも食っただろ!」
じゃあごめん俺行ってくるから、と言うやいなや燐はばたばたと走っていき、二分もたたないうちに祓魔師の正装である分厚いコートの裾をはためかせて戻ってきた。見慣れない服装、背負った赤い袋……なかにあるのは刀だろうか? しかしただそれだけではなく、先程までとは違う燐のどこか重々しい雰囲気に岩融は息を飲んだ。
「久しぶりやなあ、正装の奥村くん」
「俺はもう何ヵ月もおまえの正装見てねーよ、仕事しろよ」
「えーめんどくさいわー」
「今から行くのか? このあたりに何かあるようには見えないが……」
外を見回しながら岩融が問うと、岩融、きっとびっくりしますよ! と今剣が興奮ぎみに言う。なんのことだかさっぱりのまま他の三人の顔を見るが、獅子王は今剣と同じような顔をしているし、青江はにっこりと、志摩はへらへらと笑っていてなにも読み取れない。そうこうしていると内番服を着替えた清光が駆け寄ってきた。
「燐くんお待たせ!」
「よし。んじゃ行くか」
ぞろぞろと列になって歩きながらいくつか部屋を抜け、着いた先には、古民家に似合わない洋風の扉があった。
「遅かったら飯食ってて。じゃあ、行ってきます」
「行ってきまーす!」
「ほな行ってらっしゃい」
ひらひらと手を振る志摩と青江、獅子王に手を振り返すと、燐は服の内側に入れていたらしい鍵を取りだしその扉の鍵穴に差し込んだ。見てろよ、びっくりすっから、と楽しげな獅子王の声になにが、と返そうとしたそのとき。開いた扉の先に広がっていたのは、まったく別の場所だった。
「おお……!」
「ね、びっくりしたでしょう!」
「いやはや、驚いた! よいものを見せてもらったぞ!」
バタン、と閉まった扉を指さし、開けてみ、と笑う志摩に促されて岩融がドアノブに手をかけ引く。しかしそこには先程広がっていた場所ではなく、地続きの廊下が何事もなかったように続いていた。
「……!?」
驚いてドアノブに目を落とし、一度扉を閉めてまた開ける。しかしやはり先刻同様、ただ向こうには廊下といくつかの部屋に通ずる襖しかない。
「ちなみに、この扉にはなんの仕掛けもない。ただの扉だぜ」
「がっはっは、これはおもしろい! 驚いたぞ、別の場所につながるとは!」
「そんな笑ってもらえて嬉しいわあ、奥村くんにもその反応見せてあげたかったわ」
「いま俺が開けたときはあの場所に繋がらなかったということは、主が使った鍵の力か」
「そうですよ! よくすぐにわかりましたね」
「おや、一度で見抜くとはねえ」
「なかなかやるな」
「おぬしもあのような鍵を持っているのか?」
岩融が志摩にそう尋ねると、志摩はその笑顔を一切崩さないまま、昔は持っとったよ、とだけ答えるのだった。
燐が帰ってきたのは夜の十時過ぎ、岩融を歓迎する宴会がちょうど盛り上がってきたときだった。團服も脱がないまま宴会に引きずり込まれた燐はあれよあれよと岩融、次郎太刀に捕まり、疲れもあったのだろう、日本酒をおちょこ数杯で完全に潰れて寝てしまった。
「志摩ー、志摩ー、燐がまた潰れちまったよ」
「ちょ、奥村くん早!」
次郎太刀に呼ばれ志摩が立ち上がり歩み寄ると、でろんと床に転がった燐は時折もぞもぞと身じろぎしつつもすっかり眠ってしまっていた。
「あー、完全に寝とる」
「んー……」
「奥村くん起きてーそこで寝たらあかんよ……ほんまに、はあ……。ちょおもう次郎さんやめてやー、奥村くん昔っからお酒弱いんやから」
「ごめんごめん。でも今日は燐、全然飲んでないよ」
「そうなん? まあ、お偉方の相手で疲れてもうたんやろなあ」
「ありゃ、そりゃ悪いことしちまったねえ」
「ほな俺、奥村くん部屋に連れて帰っとくから。岩さん、のんびり楽しんでな。はっちゃんと兼さんとむっちゃんはいける口やで」
「はっちゃん?」
「はっちゃんはあっちの紫のやつ……へし切長谷部で、兼さんは和泉守兼定、あっちでもうできあがってるやつね。むっちゃんは陸奥守吉行のこと。あのほら、いま焼酎持ってきたの」
一人ひとり指さしで名前を教える次郎太刀の傍ら、志摩は燐を起こそうと肩をゆすっては嫌そうな顔を向けられている。
「ほらあ奥村くん、もう部屋戻り」
「うるせー……」
「そこで寝るとはっちゃんに怒られるで」
そう言うやいなや、そこそこ離れたところにいたはずの長谷部がすっくと立ち上がりおい志摩! と怒鳴った。
「俺をだしに使うな!」
「えっはっちゃん怖! 地獄耳や……!」
「それから変な名前で呼ぶのはやめろと何度言わせる!」
「奥村くんが呼んでも怒らんくせにー」
「主は別だ」
「ぶれない……!」
長谷部と清光は特に燐のこと好きなんだよ、とこっそり次郎太刀が教えてくれたので、昼間の志摩と清光のやり取りの話をしたら次郎太刀は手を叩いて笑った。
「またやってたのかい、あの二人!」
「二人ともこどもだと今剣に言われていたわ」
「違いないよ。前にね、燐がうっかり志摩の前で清光にキヨはかわいいなあって言っちまったことがあってさ。清光が調子に乗って俺のこと好き? なんて聞くから燐ももちろん好きだぜ! とか言って、そしたら志摩のほうが俺は!? とか騒ぎだしてね。三人とも酔ってたからもう収拾がつかないつかない!」
「おお、その現場俺も見てみたかったぞ」
「いやあありゃいなくて正解だよ。兼さんやら陸奥やらが煽るだけ煽ったせいでおさめるの大変だったから」
笑いながら次郎が徳利を持ちあげ、岩融もそれに応じる。志摩はなんとか燐の背中を床からひっぺがすのに成功したところだった。
「もーこんなすぐ潰れてどないするの……志摩さん心配ー」
「うざ……」
「あ、起きた。ほら行くよ、もーちゃんと自分で歩いてや、肩貸したるから」
ほなお先に、とまたへらりと岩融に笑いかけてから、なかば燐の足を引きずるようにしつつ志摩は襖を器用に足で開けて廊下へと消えていった。
「阿吽の呼吸というかなんというか」
「やっぱり見ればわかるよねえ」
十五の頃からの付き合いだとさ、と次郎太刀は呟く。その声のしんみりした空気を薙ぎ払うように、まあ飲もうじゃないか! と再び岩融の手のなか、ことさら小さく見えるおちょこに日本酒を注いだ。
夜半、最初に燐たちに教えてもらったはずの厠へとなかなかたどり着けず肝を冷やした岩融が自室への帰り道に見かけたのは庭の梅を見ている二人の姿だった。派手な髪色は遠くから見てもすぐにわかる。志摩と、まあ志摩といるということは燐だろう、とあたりをつけて志摩はそちらへと歩いていった。
「あれ、岩さん」
足音に気づいた志摩が岩融に顔を向け、志摩の向こう側に座っているもう一人の顔が見えるようになる。やはり志摩によりかかるようにしていたのは燐だった。宴会の途中で志摩が一度部屋に連れて帰ったはずだが、ここでもまたすうすうと気持ちよさそうな寝息を立てている。
「俺、酒入ると寝付けんくなるほうなんよ。梅見てたら寝てたはずの奥村くんもきてもうて」
猫みたいやろ、と志摩は燐の少しのびた前髪をつまんで笑う。隣いいか、と気持ち抑えた声で問うと志摩はこっくりと頷いた。
「奥村くんと俺のことやろ」
聞きたいんちゃうの、と志摩はにやりと口の端を上げながら言った。岩融としては別段そういうつもりもなく、二人の関係については聞いても聞かなくても、いつか話してくれるときがきたら、程度に思っていたのだがまあ話してくれるというのなら聞いてよいだろうか。そんなことを考え、では、と口を開いた。
「まだるっこしいのは性に合わないからな。気を悪くするかもしれん、そのときは謝る」
「ええよええよ気にせんで。話ふっかけたの俺やし」
「……主は、人間ではないな」
「半分正解、半分間違いやな。奥村くんの半分は悪魔。もう半分は普通の人間」
やっぱり神さんはわかるんやね、と話す志摩には特別変わった様子もない。これからここで生活するにあたり関係を悪くはしたくなかったのでそれなりに緊張していた岩融だったが、志摩の返答に安堵し、胡座をかいていた足を崩し片膝を立てた。
「なるほどそれで名を明かしてもよいわけだな」
「そ。審神者には処女の巫女さんとかもおるみたいやけど、そういう子らは顔か名前のどっちかは知られんようにしとるらしいわ。けどまあ奥村くんはそんなやし。俺もまあ、人間って枠から足踏み外してる節あるしなあ」
「あの、赤い袋の……あれも刀か。なにやら異様な雰囲気を感じたが」
「あれは降魔剣ゆーてな。奥村くんの心臓はあんなかにあるから、それでやろ」
「心の臓が」
あ、心臓っても悪魔の心臓だけやけどな、ちゃんとこの体んなかで心臓動いてるから安心してや、とからかうように言った。しかしその声色とは裏腹に、燐の背をとん、とん、と叩く手つきはひどくやさしい。
「なあ、俺も聞いてええ?」
「勿論だ。なんでもよいぞ」
「神さんに失礼なこと言うようやけど。岩さんと今ちゃんは、実物の刀としては現存してないわけやんか……この戦いのお役目終えたらどうならはるんかなーって」
ふむ、と頷き右手を口元にあてた。梅のにおいが色濃く香っている。
「そうだなあ、こうして人の形をとれるということは記憶のなかに息づいているということなのだろうな。ならば我らは、役目を終えたのちもきっとどこかの地で生き続けよう。人々の記憶が我らに命を与えるのだ」
さして史実に興味のない燐とは違い、志摩は存在が確認されている刀剣たちの歴史は一通り調べたことがある。居候の身で、くわえて農作業もそれなりに手を抜いていているせいで時間をもて余していたからというのが主な理由だが。岩融、武蔵坊弁慶が振るったとされる薙刀。しかし、一説には太刀であるとされ、正史の吾妻鏡には弁慶の名前も二か所しか出てこない。そもそも調べたそれだって真実かどうかわからない。
「記憶が、かあ」
「今剣もそうであろう。あやふやな存在と言われればそうだが、こうして俺はいまここにいる。梅のにおいを感じ、酒をうまいと感じる体がある。悪魔も鬼もいる世だ、ありえぬ話ではあるまい」
志摩はなるほどなあ、と呟き、さすが、今ちゃんが岩融はかっこいいんですって言うだけあるわと、隣に座っているのに随分と上にある岩融の横顔を見て笑った。
三月上旬にしてはあたたかい夜だった。風は強く、木々を揺らすそのときだけわずかに空気が冷たく感じる夜だった。
「奥村くんはな、伝説の仲間入りしてしまいそうやったんや」
とん、とん、と背を撫でるリズムは変わらないまま。志摩は遠くを見つめる目をしている。
「したいことするために強くなって、無理して、振り回されて。どんだけ生き急いでるんやろ、って思いながら見てたわ」
「祓魔師のことか」
「にっかりくんから聞いた?」
「ああ。昔は祓魔師が本業だったと」
懐かしむような呆れるような自嘲するような、そんな笑いを小さくこぼして志摩は頷いた。
「もっとゆっくり、のーんびり、適当に楽しく生きていければそれが一番ええんやないかなーって思ってたはずやったんやけどね。気づいたらもう、奥村くんがおらんのは考えられん。伝説になんかならんでええから、そのへんのどこにでもいる人になって、ずっと元気に料理つくっててほしい、なんて」
はー、やっぱ飲みすぎたやろか、変な話してもーた。そう言って話を打ちきり、膝をぽんと打った。それからそっと体をずらし、自分によりかかっていた燐をそっと横たえて立ち上がる。
「俺、ちょお部屋から上着もってくるから戻ってくるまで待っとって。酔いざまししてるうちに風邪引くかもわからん。奥村くんは引かないやろうけど」
「わかった」
「あんがとさん」
志摩が岩融のうしろを通り、そのまますたすたと軽やかに廊下の角を曲がるのを見送る。視線を正面に戻すと、隣で寝ていたはずの燐が体を起こし足をぶらつかせながら空を見上げていた。
「いつから起きていたんだ?」
「あ、やっぱ気づいてたんだ。心臓のあたりからかな」
ニイッと笑ってみせる燐は、なるほど猫のようだった。
「長い付き合いなのだな」
「まあな。もう十年近く」
「料理と言っていたが好きなのか」
「うん、自分でいうのもなんだけど俺けっこううまいよ。新しいやつがきてくれた日とか、ほんとはちゃんと自分で飯作るんだけど、今日は悪かったな……明日楽しみにしててくれよ」
「おお、それは待ち遠しいな」
岩融の言葉に嬉しそうに笑い頬をかく。少年と言っても差し支えないような容貌、思い浮かべるあの重苦しい團服、赤い袋のなかにおさめられているという心臓。危うい均衡のうえに、しかし完璧に成り立っているすべて。
「ほんとばかなやつ」
生き急いでんのはどっちだよ、と呟いた声は小さくて木々のざわめきに紛れてしまった。
「足音。志摩だな」
軽やかに近づいてくる足音を聞きながら、燐は綻びはじめた梅の花を見つめている。寝たふりに戻らなくていいのか、と問う岩融を振り返らないまま、あいつも俺が起きてるのわかってたよと答えた。
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