本当に大丈夫か、自分達以外いない廊下でそれでも声を潜めてスコッチは言った。ええ勿論、そうバーボンは笑った。なぜ悪事は夜が似合うのだろう。テナントが入っていないフロアなどという陳腐にもほどがあるシチュエーション、先刻の会話を思い出しながら、握っているのはライフル、指にかけているのは引き金。視界の端、隣に立つ男の長い髪が邪魔でしかたない。
「外すなよ」
「うるさいな」
振り返ることなく答えてスコープを覗きこむ。標的になっている男は狙われているとも知らずに、脚の部分に下から手を差し込んでワイングラスを揺らしていた。バーボンはこういうグラスの持ち方をする男が嫌いだった。唐突に任務の相棒がスコッチでなくなったことも気に入らなかったし、スコッチの代役としてやってきた、何食わぬ顔で煙草をふかしているライのことも気に食わなかった。
もともと、今夜の任務はスコッチとバーボンの二人で赴くはずだったのだ。麻薬を裏社会に回している男の暗殺。バーボンがたらし込み、情報を引き出してきた相手だった。バーボンが窓際に呼び出し、男の宿泊しているホテルに対して絶好の射撃ポイントからスコッチがそれを狙撃する、そういう手筈ということになっていた。それがいざ出るという段になって突然ジンから電話があり、「変更だ。スコッチじゃなくライと行け」。冗談じゃない、そう言いかけた形のいい唇が言葉を象る前に電話はブツ切りされた。クソッと行儀悪く呟いて舌打ちをすれば、スコッチは怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたんだ?」
「ジンから。予定が変わった、スコッチじゃなくライと行けと」
「ライ?」
そう言うとスコッチは口に手をあて難しい顔をした。スコッチ? 険悪な表情を収めつつバーボンは彼の顔を伺う。
「ライか……だからわざわざ同じホテルに……? まあ、ライだったら役割は変わらないと思うけど、用心しろよ」
「わかってる」
そう頷くとスコッチはふっといつもの笑顔を浮かべた。
「水飲むか?」
「また?」
そう笑いながら、差し出されたペットボトルを受け取る。「バーボン」の名前を手にしてからまだ日は浅く、そんな彼をこれまで世話してきたのはスコッチだった。世話好きのスコッチと、彼になつくバーボン。そういう二人の姿は唯一信頼できる相手と行動を共にできるようにするための演出としては上出来だったけれど、決してただの演出なんかではなかった。誰もなにも信じられないような状況に一人なのと二人なのではまったく違う。中枢に潜入してからまだ日が浅いバーボンのことを、スコッチはよく心配していた。そして、任務の前にはバーボンを安心させるように笑い、必ず水やらコーヒーやら栄養ドリンクやらを手渡してくるのだった。
スコッチが一人で任務に赴くことはあれどバーボンが一人で行くことは今までなかった。だから、今夜がはじめてだった。
ぱきりと音をたてながらペットボトルの蓋を外し、心地よい室温のそれを飲み下し、濡れた唇を指で拭う。バーボンの癖だ。大丈夫か? となおも聞くスコッチに、心配性ですねと笑いかけた。
そう。そんな会話をしていたはずなのに。
ホテルの地下駐車場、シボレーの横に立っていたライが、バーボンの姿を認めるやいなや運転席に乗り込む。早く助手席に座れ、という言外の圧力が、既に気に入らなかった。抗議の意を込めてささやかな嫌がらせくらいなら許されるだろうとドアを強く引く。顔色ひとつ変えずにライはバーボンがシートベルトを締めるのを確認して緩やかにアクセルを踏んだ。
夜の街の隙間を縫って男たちは行く。トランクにはライフルが収められている。
「計画変更だ。狙撃はバーボンがやれ」
その言葉を聞いてバーボンはわずかに背を起こし、窓の外に向けていた視線を隣のライに向けた。
「は? 聞いてませんけど」
「今言った」
「子供みたいなこと言わないでくれません?」
だいたい、と苛立ちを露にしつつ言葉を続ける。
「どうやって窓際に呼び出す? あなたが僕の代わりに彼に色目でも使うんですか? それは見物だな」
わざと神経を逆撫でするような言葉を選んで笑い飛ばすように言ったがライは挑発には乗ってこない。気に入らない。
「寝る前に窓際で酒を飲むのが日課なんだろう、きみの報告のなかにあったと思うが。不完全な情報だったのか?」
じゃあ計画を練り直さないといけないな。きみには情報収集の荷は重かったらしい、悪いことをした。
そう淡々と言うライに、カッと怒りがこみ上げる。けれどそれを表に出してはどうしようもない。肩を上下させつつ深呼吸して平静を取り戻す。肩で息をしている時点で深呼吸になってはいないのだが、そんなことはどうでもいい。アドバイスならしてやるから心配するな、とどこか楽しそうな口調でライが言った。むかついたから返事はしなかった。
そうして結局、ぼんやりと標的の男を見つめているライの隣で、引き金に指をかけている。
「額の真ん中を狙え。表面じゃなく、奥を射抜くつもりで打て。でないと当たらん」
「わかってます」
不思議と心は落ち着いていた。ああ、こんなことするために警察を志したわけじゃないのになあ、なんて、この場にそぐわない呑気な絶望が頭を占めている。しかしそれが表に出ることはない。今の自分はバーボンなのだから。
息を吸い込んだら、ひゅう、と喉が鳴った。心は落ち着いているのに首の裏をつうと汗が伝う。指先がわずかに震える。そこに心臓が動いてしまったかのように、動脈を血が脈打っている。口のなかが乾いて、誤魔化すように唇を舐める。明らかに緊張している。それなのに、これから僕は人を殺すのかと、心のなかにあるのはそれだけだった。
スコープごしに呼吸のタイミングを合わせて、吸って、吐いて、三回。引き金を引く。反動が体に伝わる。
肩を撃ち抜かれて、男の上体が前に崩れた。スローモーションのようなその光景、なにか思う前に、横から体を思いっきり押されてバーボンはどさりと地面に倒れる。ライフルを奪って流れるような自然さで左肩に担いだライが左手人差し指を引き、カン、とこの場にそぐわない軽やかな音を立てて薬莢が落ちる。ほとんど一瞬だった。ホテルの窓ガラスの向こうなど見えるはずもない、しかし男が死んだのだということは直感でわかった。一瞬だった。一瞬で、殺してしまった。
「……そんな指で、当たるわけがない」
冷たい声で、ライが言い放つ。立ち上がり、先程まで立っていた場所に落ちた吸いかけの煙草を拾い上げる。そのときはじめて、バーボンは自分の指先が、いや指先だけでなく体全体が、カタカタと震えていることに気づいた。暗く光る目がバーボンを見ている。噴き出すように出てきた汗が背中を流れる。気持ち悪い。
「あそこまで完璧に照準も呼吸も合わせていて、それで外すのは甘さだ。心を殺せ、機械になれ。次は外すな」
甘さなど! そう声を荒げかけて、しかしそれが声になることはなかった。喉を焼くように熱い酸性の液体が体の奥からせり上がってくる。思わず右手で口を押さえ体を折る、体の内側は狂ったように熱いのに、押さえる手は氷のように冷たい。さっきまでは噴き出していた汗が、いまはまったく出てこない。体中の穴という穴が閉じてしまったように内側で暴れる不快感。気持ち悪い、気持ち悪い、吐きそう、なのにいっこうに何も出てこない。
男には娘と息子がいた。女の子と男の子の双子だ。とはいえ、二人は表の世界で何も知らずに生きている。二人の子供の母は、男の妻ではなかった。男の身の上など何も知らず、そのうえで身籠った子供だった。三人は今男がなにをしているのか知らない。どこで生きているのかも知らない。男も三人がどこでどうやって生活しているのかを知らない。だから当然、男が死んだとしても彼女たちがそれを知ることはないだろう。
彼女は美人だったから、娘もきっと美人になる。ここではないどこか遠くを見ながら、そう言った男の声が耳元で再生される。壊れたオーディオみたいに、何度も、何度も、何度も。
べったりと座り込んだまま体を折り、ほとんど地面に伏しながら背中で息をするバーボンを、ライはじっと見下ろしている。手に持ったままの煙草の灰は、ぼろりと今にも落ちそうなのに落ちることなく、まだ燃えていない部分にしがみついている。
それを靴で踏み潰して火を消し、乱暴な手つきで後ろの髪を引っ張って顔を上げさせ、口を覆うバーボンの両手を外した。そこに左手の指二本を突っ込む。呻く声と信じられないというような瞳を無視して喉の奥を目指せば、カラカラだった口のなかは次第に水っぽくなり、唇の端から涎が流れ落ちた。奥に触れ、ぐっと指で押し込む。それがスイッチになったかのようにバーボンの体がびくりと震え、絞り出すかのように胃の中のものをコンクリートにぶちまけた。ぴしゃり、と跳ねた吐瀉物がライの靴にかかる。眉をひそめ、ライはそれをつまらなそうに見つめた。壊れたかのようにぼろぼろ涙を流し、もう何も出ないだろうにまだえづく。今度は自分で自分の指を口に突っ込もうとしたので、それを遮ってまた指を突っ込んでやった。今度は三本。口のなかも、すぐそばにある体も、人間の体温とは思えないほど熱い。こうなったら彼の気が済むまでしてやろうと指を押し込み喉をまさぐる。えづき咳き込みながら、泣きながら、バーボンの背中はずっと震えていた。
帰りの車の中、いつの間にか高熱が出ていたことに自分もライも気づいていたが、二人ともなにも言わなかった。
行きとは違う道を飛ばすライの指はもう乾いている。靴に飛んだ、バーボンが取り入れ、消化し、戻したものの一部も。バーボンの頬には涙のあとが何本も残っている。
「水でもやろうか」
「……お構い無く」
「報告は俺がしておく」
「はい」
今日の失態が上に伝われば間違いなくバーボンは干されるだろう。それはよくて、という話で、最悪の事態も当然視野に入れておかないといけない。そんな、許されない失敗だった。自分が情けない。スコッチにも迷惑をかけてしまう。どうしよう、と思いながらどうすることもできない。ただ車に揺られ、ライに運ばれることしか。
もはや涙は出てこない。ライの声がリフレインする。次は外すな。次があるのならもう外さない。感情も感傷もいらない、役になりきれ。懐に入り込み、騙し、利用し、殺す。明日からは完璧にできると思った。先程吐き出したスコッチがくれた水とともに、降谷零はこの日死んだのだ。
最悪消されるかもしれない、というバーボンの予想とは裏腹に、彼の組織内での評価は逆に上がったようだった。それが不思議でたまらなくていろいろと調べてみたが、どうやら額の真ん中を撃ち抜いた二発目もバーボンが撃ったことになっているようだった。当然あの夜バーボンが吐いたことなど誰も知らない。唯一全てを知りうる可能性のあった、帰ってきた二人を迎えたスコッチすらもどうやら高熱を出したことしか知らないらしい。らしい、というのは、帰りついた頃にはバーボンは完全に意識を失っておりいつの間にかスコッチに回収されていたからだ。目覚めると朝で、スコッチの部屋で、彼は心配した顔で言ったのだ。大変だったな。知恵熱みたいなもんだろうって、ライが。
言えるわけがなかった。手が震えて狙いを外して、その後始末を人に押し付け、あまつさえ泣きながら吐いたなど。同じバックボーンを持つからこそ、スコッチには言えなかった。いまや本当のことを知っているのは、あの場にいた二人だけだった。ライに対してふざけるなと確かに一瞬は思ったが、とてもそんなことを言える立場ではないこともわかっている。借りというには大きすぎる負い目を作ってしまったことが悔しく、情けなかった。
「ライ!」
人がいないときを見計らって声をかける。なんで報告しなかった、なんでスコッチにも言わなかった、なにか裏があるのか、ふざけるな、なんでこんなことを。なんで。
聞きたいことも言いたいこともありすぎて、何も言えなかった。肩越しに振り返っていたライが体を向け、廊下で二人、向かい合う。
ふっとライが笑った。
「きみは少々詰めが甘いな」
「は……? なにを、」
「先日のあの嘔吐。心理的なものとでも思っているのか?」
カチリ、音を立ててバーボンの思考が停止する。あの夜のように、口の中から急速に水分が失われていく。心臓がうるさい。
「どういう意味だ」
「無味無臭の、本人すら服毒したことに気付かない薬物を開発する余地が、組織にはあるということだ。あれはまだ試作品だが」
いつ、どこで、誰に何をされるかわからない状況ということをきみはもっと理解するべきだ。
「スコッチを信頼しすぎじゃないのか? バーボン」
口の端を上げつつ、ライは言う。
「あいつはそんなことはしない!!」
反射的にそう叫んだ。あいつはそんなことはしない。自分に対してだけは。
……本当に?
自分は組織の命令で見知らぬ男を簡単に殺そうとしたのに、例えば、組織が彼に自分を殺すように指示したとしたら、そのとき彼はそんなことをしないとなぜ言い切れるのだろう。
嘔吐、無味無臭、服毒、薬物、スコッチ。男の言葉からいやでも意味がわかってしまう。どこで盛られた? スコッチから受け取ったあの水? そういえばスコッチは、ライも同じホテルにいると言っていた。その薬物が錠剤や粉末であるとは限らない。ならば何かしらのタイミングで自分の口に入るよう、仕掛けることも可能かもしれない。
内心はひどく動揺していたが、バーボンがそれを表に出すことはなかった。それが容易くできる程度には彼は役者だった。憎たらしいほどきれいに微笑んでやる。
「試作品って言いましたけど、あなた薬品方面にパイプでも?」
「さあ、どうだろうな」
ライは笑い、またバーボンに背中を向けて歩き去っていった。
この一件で組織に一人前と認められたらしいバーボンは、それ以降探り屋として一人で任務につくことが増えた。だが必要とあれば容赦なく引き金を引くし、その腕前は目を見張るようなものだった。長距離射撃においても、スナイパーであるライやスコッチには多少は劣るものの、その後外したことは一度もなかった。
スコッチが任務前のバーボンに飲み物を差し出すことはなくなった。バーボンが受け取らなくなったからだ。子供じゃないので大丈夫です。いつもの笑顔と、その笑顔と言葉に似合わないはっきりと拒絶するような口調に、スコッチは何かを感じ取ったのだろうか。少し寂しそうに、反抗期の息子を持つ親のように小さく笑った。
ライ――赤井秀一と宮野明美の関係についてバーボンが知るのはそれから後のことである。宮野明美の研究の副産物を応用した薬物、バーボンが盛られた試作品の完成版によって命を落とした人間の数はもはや把握することはできない。スコッチとライがスパイであったと発覚したのち、実はバーボンもスパイの疑いをかけられ内密に完成品を飲まされそうになったことがあるのだが、彼は絶対に人から渡されたものに口をつけないために暗殺は失敗に終わった。その事実を本人すらも知らないというのは、ひどい皮肉である。
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