秘密

 書きかけの彼の本を読んで、真っ先にバデーニの脳裏に蘇ったのは、不思議なことにいつか一緒に見た朝焼けだった。そのことが書いてあったわけでもないのに。そして、同時に理解してしまった。当然というほかないことを、身をもって実感として理解してしまった。知ってしまったら、もう、知る前には戻れないのだと。

 それは、バデーニがオクジーと出会い、そして満ちた金星を見てから数日が経った日の夜更けのことだった。
 夜通し書きなぐっていた数式がやっと解へとたどり着き、ゆっくりとペンを置く。他人の残したものを頭から信じることはどうしても自分の気性が許さず、ここ数日はずっと仮説の検証を行っていたが、修正が必要なのはいくつかのわずかな誤りのみで、理論の全体的な流れには大きく反論すべき点はないように思えた。ようやく追い付いた。ここからだ。ここから、自分がこの仮説をさらに先へと進めていく。
 夜通しの思索の果てに感情は満ち足りていたが、体は相応にがちがちに固まっていた。ゆっくりと肩を回してから、両手を組みあわせて大きく上に向かって伸ばす。椅子が軋む。立ち上がり、腰を伸ばすついでに少し歩くかと外へ出る。往復し慣れた道を歩く。その先、いつもパンを渡している場所に、彼はいた。
 こんな時間に何をしているのだと、一瞬足が止まる。オクジーは、待ち合わせの時間にいつもそうしているように、目印にしている岩に腰かけて空を見上げていた。声を掛けようか、面倒だから気付かなかったことにして戻ろうか。一瞬二つの選択肢が頭に浮かんだが、なぜ自分が迷わなければいけないのかと反発じみた思いが頭をもたげる。その拍子に、ざり、と足音が立った。オクジーの肩がぴくりと跳ね、そして振り返る。彼のまとう緊張した空気はしかし、バデーニの姿を認めたことで弛緩したようだった。
「バデーニさん」
 彼だということは、夜更けの薄い暗がりの中でもそのシルエットをひと目見ただけでわかっていたが、まだ距離はある。振り返ったとて、バデーニにはその顔がよく見えるわけではない。しかし、表情を和らげているのだろうことは、声色から容易に察せられた。
「おはようございます」
「……おはよう」
 挨拶をされれば、返すもの。染み付いた習慣が言葉を返させる。さっさと自室に戻ることを諦め、オクジーのほうへとゆっくり歩を向けた。表情がわかる距離にまで近づくと、やはりオクジーは夜更けの訪問者が知り合いであることに安堵した顔をしていた。
「朝、お早いですね」
「先ほど、石箱に残されていた仮説の検証を終えた。いくつか修正が必要な点もあったが、概ね矛盾はない」
「それじゃあ……」
「ああ、ようやく研究に取り掛かれる」
 そう返すと、オクジーは嬉しそうに顔を緩めた。わざわざ言うことではなかったなと思ったが、その表情を見て、まあいいかと思い直す。ようやく出発点に立ったことに、自分でも思うより高揚していたらしい。気分が良いので、彼の話も聞いてみることにした。
「きみは何を?」
「ああ、星を見ていました」
 答えながら、オクジーは少し奥に腰をずらしスペースを空ける。立ったままでも別に構わなかったのに。そう思いつつも、彼の厚意を受けとることにした。シンプルに示された思いやりを無視するのはなんとなく気が引けたからだった。
 オクジーの右側、半分背中合わせになるような角度で、隣に腰かける。空はもうだいぶ明るんでいた。
「まさか夜通しか?」
「帰るタイミングを失いまして……。さすがに途中うたた寝はしていましたけど」
 気まずそうに頭をかく。その顔を横目で見ながら、暇だな、とも、ちゃんと眠ればいいのに、とも思った。
「さすがにこの明るさではもう見えないだろう。眠りに戻ればいいだろうに」
「それは……はい。でも」
 一度言葉を切り、彼はふっと空を見上げる。
「朝焼けも綺麗なので」
 その言葉に連れられるように、空を見た。濃紺の夜空が、少しずつ薄くなっている。山のふちが橙に染まり、そのすぐ上では夜と朝が溶け合って、雲の下側だけが朝日に照らされている。頭上にはまだ夜空があるとはいえ、それはもう真夜中の色とは違う。太陽はまだ見えないのに、もうすぐそこに朝がきているのだとわかる。冷たく透明な空気が、からだを満たす。息を吐くと、からだが内側から目覚めていく気がする。
 ああ、朝焼けはこんなにも綺麗だったのか。
「……」
 バデーニはじっと空を見つめた。左の瞳が空を映してきらきらとひかる。オクジーはその横顔を見て、また空へと視線を戻した。
 視力の落ちたバデーニの目では、星そのものはもはやほとんど見えない。見えるのは満点の星空ではなくただの暗い夜の空であり、彼の知識が視力を補っているだけにすぎない。しかし、朝焼けは違った。一面に広がる空の色、そのうつくしいグラデーションは確かにその瞳に映っていた。
「……確かに、綺麗だな」
 ぽつりと口から溢れ落ちる。オクジーは小さく笑って、言った。
「バデーニさんと同じ空を見られてよかったです」

 言ってしまえば、ただそれだけのことだ。彼が書き残したい思い出にすら残らないもの。それなのに、彼の文章を読んで、あの朝のことを思い起こしてしまった。確かにあのとき、自分もまた知ったのだ。彼によって、知ってしまった。当たり前にくる朝、ただ視界に納めるのみで意識せずにいたその空が、本当は綺麗なのだということを。
 地動説の完成のめどがたったら発表方法についても考えなければいけないということはずっとバデーニの頭の隅にあったが、真理の扉に手を掛けられたことも相まって、優先順位はいとも容易く入れ替わってしまった。
 楕円軌道が正しいことの証明は必要であるしその過程には当然困難もあるだろうが、向かう先が明確になったことで霧が晴れたようだった。それと同時に、自分が利益を上げることに固執していたのが急にどうでもよく思えてくる。自分が地動説を立証し発表することで得るものを得る前から放棄するわけではないが、あくまで副産物。いざ地動説の完成が現実味を帯びてくると、反対に、利益や名声というものはバデーニのなかで途端に現実味を失っていた。
 真理には遅かれ早かれ誰かが必ずたどり着く。ただ、数多の人が繋いできた研究の果て、その先頭にいたのが、偶然自分だっただけ。
 そんなことより彼の文だと、再び最初のページに立ち戻る。たどたどしい文字をそっと指でなぞる。本来頭の回転は早いのだろう、誤字もあれば所々主語と述語がねじれているが、それを差し引いてもすっと頭に流れ込んでくる。彼の思考が。
 特別なのは自分じゃない、という言葉がふっと脳裏に浮かんで、すとんと胸に落ちていく。自分はただ、そういう役割だっただけ。繋いできたものを形にする役割。それすらもオクジーがもたらしたものだ。きみなんだ、と思う。このうねりの中心にいる者、自分のなかからなにかを創り出せる限られた存在。──本当に特別なのは、きみだ。
 もし自分の論文が世に発表できなかったとしても、それが真理であるなら、いつかきっと誰かがたどり着く。繋ぐことさえできれば。けれど、オクジーの文は、ひとりの人間の生涯を変えた感動は、まだここにしかない。吹けば簡単に飛んでしまうような小さな灯火。
 本を抱えて、納屋の外へ出る。そこにはいつもと同じ、暗い夜の空が広がるばかりだ。しかし彼の文を読んだとき、確かに脳裏に星空が広がった。もう視覚情報としては覚えていない、きらめく星々。文字としては書かれていない、うつくしい朝焼け。たとえ思い出せなくなっても、忘れてしまっても、きっと何度でもそれらを見ることができる。この文を通せば、何度でも。
 自分も繋がなくてはならないと思った。石箱を遺してきた者たちのように。ピャスト伯のように。彼から託されたあの書庫を作り上げてきた者たちのように。自分の空を照らしてくれたこの灯火を、消させてなるものか。
 そうと決まれば行動あるのみだと室内に戻る。まずは最初の一ページを繰り返し読んだ。何度も。……何度も。

 それからのバデーニの日々は、自身の論文を書き進めながら、オクジーの文章を覚え、貧民たちの頭に刻む、その繰り返しだった。
 元々文章を読むのは速く、さっと一読すれば内容を覚えることはできたが、彼の文を覚えるのはそれとはまったく違う作業だった。原本を持ち出すことはそもそもできないし、書き写し持ち歩くのも、もしものことを考えるとリスクが高い。そこで彼の文を暗記することにした。
 そのためには、ただ内容が合っているだけではだめなのだ。細かな文章の誤りは正しつつも、表現をまるごと覚えるために繰り返し読んでは頭の中で復唱する。バデーニの生来の完璧主義がそうさせたというのはおおいにあったが、なにより、言葉のひとつひとつ、文章のリズム、彼の描こうとするうつくしさ、それら全てをそのまま残したかった。
 次第に暗記にかかる時間は短くなっていき、通常の速読と同じ速さでできるようになっていった。かかる時間が減ったぶん、論文に行き詰まるたび、彼の文章を頭の中で諳じては噛み締めた。他者の目を通じて追体験すると、自分はひとりではないと思えた。本人に伝えたいと思ったことは一度や二度ではなかったが、そうするわけにはいかないと理性で振り払う。知らなければ隠す必要はない。演技をする必要はない。秘密にも嘘にもならない。何かあったときに、彼はこの研究に無関係だと第三者を納得させられるようにしておかなくては。

 ──そう、何度も自分自身に言い聞かせていたのに。
 ペンの代わりに再び剣を取ったオクジーの背中が遠ざかっていく。その背中に再び伸ばしかけた手を、振り切るようにぎゅっと握る。自分がすべきことはそれではないと、持てる全速力でペンを走らせる。走らせながら、視界の揺らぎを必死に押し止める。どうしてあの時手紙を書いておかなかった。どうして彼がここに来るまでの話を聞いておかなかった。どうしてもっと早く、どうして、どうして。
 本当はもっと早く、彼と縁を切るべきだった。それをしなかったのは、叶うなら、彼の……いまのオクジーが見るその世界のうつくしさを、もっと隣で見ていたいと思ってしまったからだった。
 冷たい床の独房で、バデーニはオクジーの無事を祈る。空も見えない独房で、このまま彼が目を覚まさないことを祈る。苦痛なく、天国に迎え入れられることを祈る。
 本当はとにかく先に逃げてほしかった。同時に、時に人にはどうしても選べない道もあると知っている。選んだら最後、永遠にうしなわれるもの。それを守るためにはそうしなければならない、そうすることでしか守れないもの。それがほかの何よりも──命よりも重いことがあると。
 彼の眼差しを思い出す。もう何を祈るべきなのか、祈りたいのか、自分でもわからなかった。ただ彼のことを思う。彼の言葉を諳じる。何度も。

 山を下る道すがら、早々に何回か木の根に躓き転びそうになったので、バデーニの手にかけられた縄を引く調査隊のひとりが丁寧に足元の様子を教えてくれるようになった。石箱が本当に実在したことで、いくらか警戒が緩んだのだろう。もう処刑を待つだけの人間に対する、せめてもの憐れみだったのかもしれない。ひとりの人間の、ありふれた善性。
「星は見えますか」
 試しに尋ねてみると、ええ、と何のこともなく肯定が返ってきた。
「雲がないのでよく見えます」
「そうですか」
 言葉を重ねた彼をノヴァクが咎めるように振り返ったが、聞きたいことはもう十分だった。風向きから考えても、明日は快晴だろう。それだけわかれば、十分だ。
 一行は言葉すくなに山を下っていく。オクジーが夜空をなんか綺麗だと言った日のことを思い返す。その部分の記述を思い返す。ともに見た、あの朝焼けも。

 手渡された処刑服を見つめる。まだ夜半のはず。最期に夜明けを見たかったが、どうやらそれは叶わないらしい。
「これで、すべて終わりですね」
 オクジーのその言葉を聞いた瞬間、ぎゅっとバデーニの拳に力が籠った。そうじゃない。そうではない! もう残された時間がわずかだという現実が、口を開かせる。もう秘密にする必要もない。せめて、彼の文章がきっと残り、続いていくということだけは本人に伝えたかった。
 処刑台に向かう道は、地獄の入り口へと向かう道だ。先を歩くオクジーの背中を目に焼き付ける。一週間前、見送れなかった背中。この頭の中の真理と感動さえ携えていけるなら、自分は地獄もきっと受け入れられよう。
 それでもやはり、叶うなら、地獄に行くのは自分だけでありますようにと思う。巻き込んだのは自分なのだから。オクジーは神の国に迎え入れられてほしいし、彼の文章は残り続けてほしいと思う。随分と自分勝手だな、と自嘲する。表から風が建物の中に吹き込んで、ごうごうと鳴っている。
 外へ出ても、やはり星は見えなかった。しかし調査隊の彼が言ったように雲がないのなら、きっと明日も晴れる。またあのうつくしい朝が空を染めて、人知れず動き続けているこの世界に、あたらしい一日が訪れる。あの文章はきっと復元される。見上げる星のうつくしさ、世界ががらりと変わる感動は、きっと誰かに繋がっていく。
「確かに、これで我々も地獄の入り口に立ったな」
「いや、」
 その言葉に引かれて、顔を上げる。そして確かに見た。微笑む横顔を。あの朝と同じように。月光の下、背を向けて歩き出す直前に見せたものと同じ横顔を。
「天界のですよ」
 風が吹く。その目には映らなくとも、オクジーの言葉を通して星空を見る。この世界はうつくしく、昔もいまもこの先も変わらず、人の世など介さず、動いている。その感動をありありと伝えるきみの文章はきっと復元されて、灯火はいずれ世界を照らすに足る光になるだろう。きみの全てをそのまま残すために、私は自分にできる全てをした。
 バデーニはゆっくりと目を瞑り、一番好きな一節を頭の中で諳じた。あの朝を思い起こさせた一文。そして目を開く。この文章が伝わったとしても、あの日きみと見た空の色は、あの横顔は、誰にも伝わらずここで消えていく。きみも私も、きっと特別な存在などではなかった。私にとっての特別がきみだった、ただそれだけ。誰も知らない、きみも知らない、私だけの秘密。それを抱いて死んでいく。
「この空は、絶対に、綺麗だ」
 それならば、明日の朝の空も、きっと。
「それを信じることにするか」
 きみが言うなら間違いない。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!