ダリアが枯れる - 2/2

「小野田くーん?」
 肩を揺さぶられた、という感覚に引きずられて意識が急浮上して、そして聞こえてきた鳴子の声で、坂道の目は完全に覚めた。がばりと体を起こすともう教室の人はまばらで、自分の机の横に鳴子と今泉が立っている。
「あ……鳴子くん、今泉くん」
「おはよ、小野田くん」
 ニッと鳴子が笑う。
「小野田くんがこおへんから迎えにきたら、そこでスカシとかちおうてしもたわ」
 どうやら、帰りのホームルームが終わったあとにそのまま教室で眠ってしまっていたようだ。坂道のクラスの担任はあっさりとホームルームを終えるので、たいていは坂道が二人の教室まで行って廊下で待っている。それが今日は坂道の姿が見えず、けれどどうやらホームルームは終わっているらしいとわかって、不思議に思って二人がきてくれたらしい。
「めずらしいな、小野田が教室で寝てるの」
「はは、一日ぶりの学校で疲れちゃったのかな」
 二日前の夜中に突然高熱を出した坂道は昨日は学校を休んでいた。もともと昼頃からすこし体調が悪かったのと練習が終わったあたりから微熱はあったらしいために、昼頃から家に帰って眠るまでの記憶がなんだか曖昧だ。
 寝起きのぼんやりした頭がだんだんクリアになってきて、そうだ練習いかなきゃ、という焦りとともにあわてて教室の前にかかっている時計に目をやる。まだじゅうぶん部活に間に合う時間だったことに胸をなでおろしつつ、自分を待ってくれている二人を見上げた。
「いま片づけるからちょっとだけ待って」
 ぼんやりしていてはいけない、せっかく今日は嘘のように元気になったのに、と自分に言い聞かせて自分の頬を両手でぺしりと叩く。そして立ち上がった瞬間。大きな瞳からぼろっと涙がこぼれた。
「!? あ、あれ」
「小野田くん!? どないしたん!?」
「小野田!?」
 二人ともぎょっとした顔をしたが一番驚いたのは坂道本人だった。わけがわからないのに、なぜか涙は次から次へとぽろぽろこぼれてくる。はやく止めなければと両手で目をこすろうとすると机にばんと手をついて身を乗り出した鳴子に腕をつかまれ止められた。今泉はあわてて鞄のなかをごそごそとさぐり、取り出したタオルを坂道に差し出す。
「あ、ありがとう」
 眼鏡をはずして今泉から受け取ったタオルで目元をおさえていると、涙はすぐにひきはじめる。ますますわけがわからない。
「小野田くん大丈夫か? どっかまだ痛いんか?」
「や、大丈夫、だよ! ごめん、びっくりしたよね……ごめんね」
「おい、まだ今日も休んだほうがいいんじゃないのか」
「せやで、熱下がったのも昨日の夕方なんやろ? まだ無理したらあかんて!」
「ありがとう、でももうなんでもないし、練習いけるよ!」
「小野田……」
 今泉くんこれありがとう、濡らしちゃってごめんね、どうしよう、と坂道がおろおろと言うと、今泉は気にするなと言って坂道の手からタオルを受け取った。
「ほんまに大丈夫なんか、小野田くん」
「うん、心配かけちゃってごめんね。大丈夫だよ」
 心配そうに坂道の顔をのぞきこむ二人が安心してくれるように、再びにっこりと笑ってみせる。まだ若干の時間の余裕があるとはいえ、そろそろ部室に向かわないと走るはめになりそうだ。机のなかからノートとクリアファイルを取り出して鞄にいれ、待っててくれてありがとう、行こう、と言うと、二人も微妙な顔ながらに歩き出す。部室に着くまでのあいだに何度も、今泉も鳴子も、少しでも本調子でないなら休めと心配そうな顔で言ってくれた。そのたびに坂道は首を振って、むしろはやく走りたいよと笑った。
「こんにちは!」
「ちーっす!」
「こんにちは」
「小野田!」
 三人が部室の扉を開けて一番最初に反応したのは手嶋だった。坂道の声に弾かれるように顔を上げ、すぐさま駆けよってくる。
「小野田、もう体はいいのか?」
「ご心配をおかけしてしまってすみません! もう大丈夫です!」
「ほんとうか? もしまだどこか変だと思ったらすぐに言うんだぞ」
「はい、ありがとうございます!」
 鳴子と今泉は自分たちとほとんど同じようなことを言うすこし過保護な先輩に、顔を見合わせてくすりと笑いあった。坂道が胸の前で拳を握りしめてこれまで以上にがんばりますと言うと、手嶋は下ろしていた右手を上げて、しかしその右手はただ宙をさまよってなにをするでもなく再び下ろされる。
「? 手嶋さん?」
「ごめん、なんでもない。とにかく、もうほんとうになんともないんだな?」
「はい! ばっちり元気です!」
「そうか、よかった」
 微笑む手嶋の顔がどこか寂しげに感じられて、坂道はなぜだか、こんな手嶋さんを見たことがある、と思った。坂道には手嶋とそこまで深い会話をした覚えはないので、自分でもなぜそんなことを思ったのかはわからないが。手嶋さんこそなにかあったんですか、と口を開きかけて、しかし鳴子が着替え途中の青八木に自分が涙をこぼした話をしているのが聞こえたために、二人の会話はそこで終わりになってしまった。
「ちょっと鳴子くん! はずかしいからその話はやめてよー!」
「もーほんまびっくりしたんやからな!? 心臓に悪いわ小野田くん」
「……なにか」
「えっ?」
「なにか、つらいことがあったのか」
 青八木がそうたずねると、坂道に背を向けていた手嶋が人知れず息を飲んだ。
 つらいこと。はたと坂道は考える。つらいことがあったのだろうか。悲しいことがあったのだろうか。あったような気もするし、そんなものは最初からなかったような気もする。でも、なぜだか、答えにはっきりと確信をもつことができない。
「いえ、別にないです」
 確信をもてないくせに、口を開いてするりと出てきた言葉に違和感はまったくなかった。
「たぶん、悲しい夢をみたような気がするから、それでだと思います」
 さっきまでもやもやしていたのが嘘のように、言った先から本当に別段変わったことはなにもなかったのだとじわじわと信憑性が増していく。事実坂道の言葉は自然そのものだったから、青八木はそれならいいとでもいうようにこくりと頷いたし、他の誰も気にも止めていない。ほら、さっさと着替えて練習始めるぞ、と手嶋がパンと手を叩けばそこからはいつも通りの日常で、坂道はそれで、些細な引っ掛かりなんて綺麗さっぱり忘れてしまった。

 片想いをこじらせると花を吐き出すようになるという病気、通称花吐き病にかかっている人間の数を正確に把握することはもはや不可能だ。誰かが吐き出した花に触れると感染し、発症するまで感染しているかはわからない。そして発症の鍵となる「片想いをこじらせる」という状況自体がひどく曖昧で、実際どのラインを越えると発症するのかはいまだに謎、という、まさに奇病である。
 そして不可思議な状況に対する人間の適応能力は存外高かったようで、ほどなくしてこの奇妙な病気への免疫および抗体を持つタイプの人間が現れた。人の吐き出した花を食べることができ、かつ自身は感染しないという彼ら彼女らは、いつしか「花喰い」と呼ばれるようになった。花喰いに花を食べられると花吐き病はなぜか完治する。しかし自分が花喰いか否かは自分が花吐き病を発症するまではわからない。
 接触感染の場合は通常通り片想いをこじらせるまでは発症しないのだが、経口感染の場合はまったくの別物である。経口感染すると二日から三日の潜伏期間を経て無条件で発症する。それを過ぎても発症しなかった場合にはじめて自分が花喰いだったとわかるというわけだ。
 花喰い自体がとてつもなく稀少であるのにくわえ、自分の無条件の発症などというリスクをこえてまで他人の花を口にする人間は少ない。そんなわけで花吐き病感染の規模は日々拡大を続けているし、花喰いは相変わらず都市伝説レベルの存在でしかないのだった。

 高校生の話題といえば、部活動、昨日のバラエティ番組、新しく始まったドラマ、忘れた宿題を写させてもらうための交渉、芸能人のゴシップネタ、それから、他人の恋愛事情。結局中心となるような話題は昔も今もそうそう変わらない。そんなもので、今日もどこかの教室では誰それが彼に片想いしているらしい、彼は彼女に告白して玉砕したそうだ、そんな話が密やかに囁かれている。
「一昨日の前の日、ええと、さきおとといやったっけ? パーマ先輩、二年の女子に告白されとったらしいで」
 そんなことを鳴子が言ったのは、昼休みもなかばを過ぎた頃だった。
 思いもよらぬ人の名前に、坂道はつい飲んでいた野菜ジュースのパックを持つ手に力を込めてしまい盛大にむせかえった。期待した通りの坂道の反応に鳴子は気をよくし、にんまりと笑った。今泉はといえば、別にそこまで興味ありませんという顔を装ってパンを食べ続けてはいるが、浮いた話の聞かない先輩の恋の予感にそわそわするのを隠しきれていない。
「さすが手嶋さんだぁ……!」
 けほけほと咳き込んでいた坂道が息を整えてうっとりと呟いた。努力家で、優しくて、気が効いて、性格も成績もいいかっこいい先輩。そんな手嶋に告白する女子がいるということはまったく不思議ではないなと思う。
「女子ってああいう人好きそうだよな」
「スカシは女子のなにを知ってんねん!? せやけどまあ、わかるわ」
「委員会で一年と話してるの見たことあるけど、女子が手嶋さんがどうのって騒いでた」
「あ~、委員会な。わかるわー、恋愛あるあるや」
「そうなの鳴子くん!?」
「二人で居残って委員会の仕事。居残りなんてめんどくさいのに、でも、もう少し二人でいたい……、そういうのに女子は弱いんやで」
「おおお!」
「手嶋さんってあれだよな、ファンより本命が圧倒的に多そうなタイプ」
「あ、それはわかるかもしれない!」
「なんや小野田くん、目キラッキラしとるで」
 坂道のテンションがいつになく高い。くるくるとめまぐるしく変わる表情にふっと口許をゆるめて今泉が笑う。なんだかんだ言って、三人で交わす他愛もない会話は嫌いじゃない。自分もずいぶんほだされたものだなと思う。けれど悪い気はしなかった。
「なんかさ、恋バナって、友達ー! ってかんじするじゃん!?」
 えへへ、とお弁当をほおばる坂道のまわりにはぽわぽわした雰囲気が漂っている。友達、という言葉を聞いて今泉は満更でもなさそうに牛乳に手をのばし、鳴子が嬉しくてたまらないというように笑い声をあげた。
「あっ、じゃ、じゃあ、手嶋さんに彼女さんできたんだ……!?」
 しかし坂道のこの一言によって、そうそうそれや、それを言おうと思ってこの話をしたんやワイは、と鳴子がなぜか背筋をぴんと伸ばした。なんだなんだと坂道と今泉ももぞもぞと居住まいを正してなんとなく身構える。
「聞いて驚くなや」
「う、うん……!」
「パーマ先輩、断ったらしいで。他に好きな人がおるー言うて」
 購買で買った焼きそばパンをびしっと坂道に向けて言う。というかなんでそんなこと知ってるんだ、と今更ながらに今泉が言うと鳴子はクラスの女子から聞いた、となんでもないことのように答えた。
「え、えええっ」
「な、びっくりしたやろ!?」
「びっくりした……!」
「好きな人いたのか……」
「それや! あのパーマ先輩が好きな相手、気にならへん?」
「なる……!」
 手嶋さんごめんなさい、と呟くあたり坂道の育ちのよさがうかがえる。他人のプライベートを詮索するものではない、付き合うことになったのならともかくとしてそうではないのなら尚更。そんなことは坂道も、今泉も、もちろん鳴子だってわかっている。わかりきっている。けれど気になる。知れるものなら知りたい。好奇心には勝てないのが男子高校生という生き物だった。
「今日の練習後、それとなく聞き出してみようや」
 残り少ない昼休みを費やした真剣な話し合いの結果、ネタ振りをするのが鳴子、そっちの方向に向けて話題の舵取りをするのが坂道、なんとかして相手、もしくはその手がかりを聞き出すのが今泉ということになった。しかしまあ計画通りにいくわけではないからそのときは臨機応変に話を盛り上げようということで、と顔を見合わせ神妙に頷きあう。目的のために全員で協力しあう。レースと同じだ。
 かくして訪れた練習後、部室は妙な緊張感に包まれていた。
 三年生が引退してから部室が妙に広く感じる。それに寂しさを感じつつも、もうずいぶんと慣れてきているのも事実だった。不在に慣れるということは切ない。そして四月になって学年が上がり、新入部員が入れば、そんな寂しさはどこかに消えていってしまうのだろう。
 そんなことをぽつりぽつりと話しながら部品の整理と着替えをしている手嶋と青八木の後ろで、三人は土で汚れた床の掃除を行っていた。ひそやかに視線を合わせてコクリと頷き、鳴子がいつも通りの口調でパーマ先輩、と呼んだ。
「ん? どうしたー?」
「クラスの女子が話してたんですけどォ、秋になってくると女子って告白したくなるもんらしいッスよ」
 そうなの!? と目線で問いかけてきた坂道に今泉はぶんぶんと首を振ってみせる。そんなわけがあるか。もちろんネタ振りのために鳴子が考えた嘘だ。へえ、とか涼しいと人恋しくなるんちゃいますかなんて適当な会話を繰り広げる鳴子と手嶋、ときどき青八木の後ろ側では今泉と坂道が頭を抱えている。これではあまりに不自然だし、秋になると告白したくなるなんて振りとして雑すぎる。会話の最初くらい考えておけばよかった。予鈴に急かされて人員配置を決めるところまでしかできなかったことが悔やまれる。
 手嶋と青八木はというと、急にそんなことを言ってきた鳴子と先程までの緊張した空気でだいたいの見当はついていた。じっと自分を見つめる青八木に困ったように笑いかけてから、手嶋は、ていうかさ、と会話を遮る。
「おおかた、三日前のことでも聞いたんだろ?」
 苦笑する手嶋の予想外の発言にパッと一年生三人は顔を見合わせた。先読みされるとは思ってなかったな、ほんまや想定外や、手嶋さんってすごいね。三者三様の心のうちを表情から読み取り、再度コクリと頷く。予定変更、ここから先は臨機応変にいこう。
「ほんならサックリ聞かせてもらいましょか! 好きな人っていったい誰なんです!?」
 鳴子がなかば叫ぶように言う。青八木は自分は口をはさまないことに決めたらしく、くるりと背を向けて着替えを再開した。坂道は申し訳なさそうな顔をしつつも期待に満ちた目で手嶋の顔を見つめているし、今泉は自分は興味ありませんという体を装ってはいるが一度も自分を見ないためにポーズなのがばればれである。観念したようにふう、と息を吐き出して手嶋が口を開いた。
「しょうがねえな。知りたいか?」
「知りたいです……!」
「うおー! 知りたいっす!」
「……」
「エリートくんは別に興味ないみたいだから言わなくていいか」
「スカシ!」
 ちらりと手嶋が今泉を見遣り、鳴子がこっそりと彼を呼ぶ。しかし今泉は依然としてもうごみのほとんどない床を掃き続けている。
「スカシ!!」
「今泉くん……!」
 好奇心に勝てない二人に立て続けにせっつかれてしまえば、今泉も口を開くほかはなく。
「……き、」
「き?」
「…………気になります」
 そう、苦々しい口調でぼそりと言った。
 今度こそもう逃げられないな、と手嶋は居心地悪そうに頭をかき、手にしていた部品数確認表のクリップボードを机の上におく。とんだ自傷行為だなと心のなかで呟きながら。
「別に聞いて楽しい話じゃねーぞ? 脈ナシだし」
「パーマ先輩もモテるって聞きましたけど!」
「いや別にそんなことねーよ」
「手嶋さん、すごく素敵な方だから脈ナシなんてことはないと思います……!」
「ははっ、そうだとよかったんだけどなあ」
 なんでもないことのようにそう言って笑う手嶋の横顔がとても寂しそうで、思わず三人は顔を見合わせた。なんでも器用にこなすといった手嶋のイメージと結び付かない弱気な声。そんなに切ない片想いをしているのだろうか。
「あの、オレらの知ってる人ですか」
「んー、知ってるといえば知ってるし、知らないといえば知らない、かな」
「知ってるといえば知ってるし知らないといえば知らない……?」
「なぞなぞかいな」
 うーん、とうなり首をひねる三人の横では、わずかに眉をひそめた青八木が手嶋をじっと見ている。声を出さずに唇だけをわずかに動かして、たのむ、と言った手嶋に、こくりと頷いてみせた。
「ほーら、さっさと片してちゃっちゃと帰れ」
「だーっ全然わからん!」
 鳴子はがしがしと頭をかきつつも、言われた通りに手早く荷物をまとめはじめた。坂道と今泉も鳴子に続き、終わり次第ドアに手をかけた青八木のほうへ歩いていく。
「オレ、小野田がこういう話に乗ってくるのちょっと意外だったわ」
「へ、そうですか?」
「なんか想像つかなくってさ」
「今までそういう話する友達いなかったので……、あっ、えっと、手嶋さんは先輩なので友達ではないんですけどそういう仲のいいというか、えっと、ボクにとってはそういうかんじの方なので!」
「はは、そっか」
 先ほど机においたクリップボードをもう一度手に取ると、がちゃり、と音を立てて青八木がドアを開けた。
「純太は?」
「オレは部誌書いたりしてから帰るから。鍵おいといて、オレ閉めるわ」
「わかった」
「手嶋さん、さようなら!今日もありがとうございました!」
「おつかれさんです!」
「失礼します」
「じゃーなー、気を付けて帰れよー」
 ひらひらと手を振ると、青八木は控えめながらに手を振り返し、三人はぺこりとお辞儀をしてから部室から出ていった。鳴子の大きい声と坂道の笑い声、四人分の足音がだんだん遠ざかっていく。耳をそばだて、完全に足音が聞こえなくなると同時に、手嶋はロッカーに背をあずけてずるずると床に崩れ落ちた。
「っ、はー……」
 息とともに吐き出した声が静かな部室に反響する。青八木に事情を話していてよかったと思う。表面的にはなんでもないような顔をしていてもやはりしんどいことには変わりないし、先ほどからものがつっかえたように胸のあたりに違和感を感じていた。
 三日前の夕方、同じクラスの女子に告白された。練習が終わったあとの人気のない校門、まわりには誰もいなくて、二人分の影が長く伸びていた。気持ちはうれしいけど、ごめん、好きな人がいるんだ。そう言うと彼女は、うん、知ってた、と言って笑った。
 わかってたけど、言いたかっただけなの。けじめっていうか。押し付けみたいなかんじで言うだけ言ってごめん。でももうひとりでぐるぐる悩むのいやでさ。その人とうまくいくといいねって、ほんとに思ってるから。だから、しばらくは気まずくても、また普通に話したりしてくれるとうれしい。自転車、がんばってね。応援行くから。じゃあね。手嶋くん。
 そうぽつりぽつりと言って手を振った彼女の背中をぼんやりと見送る。好きな人。すきなひと。もうひとりでぐるぐる悩むのいやでさ、と言った彼女の声が耳の奥で反響している。すきなひと。ひとつ年下の、小柄なのにすごい力を体のなかに持っている後輩。もうずっと、ひとりでぐるぐる悩み続けている。
 ふと、背後に人の気配がして振り返った。そこに立っていた、というか、立ち尽くしていたのはまさに自分のすきなひとで、大きな瞳を見開いて自分を見つめていた。
「小野田」
「てしまさん、って、すきなひと、いたんですね」
 何回か瞬きをした後輩は、一瞬だけ見せた傷ついた顔を隠すように笑おうとして、でも失敗して、ぽろぽろと涙をこぼした。
「あっ、す、すみません、目にゴミ入っただけなので、じゃあ!」
 両手で目をこすり、きびすを返して走り去ろうとする後輩の腕をつかむ。パッと自分を見つめる顔はもうなにも隠しきれていなくて、涙をこらえようときゅっと結んだ口がわなないていた。
「待てよ小野田、ちがくて」
「すみません、はなし――、っ、」
 言いかけた坂道が自由なほうの左手で口許をおさえる。丸めた背が震えていて、吐く、と咄嗟に頭に思い浮かぶ。その背を抱きかかえるようにしながら手を引いて早足で歩き出した。どこか、人がこなさそうなところに行かなければ。
 校舎を囲う塀ぞいをつたって裏側まで行く間、坂道は吐こうとしているものを何度も何度も飲み込んでいるようで、ごくりという音がなぜだかクリアに聞こえていた。もうすぐだから、だいじょうぶ、そう声をかけながら背中をさする。ぽろぽろと落ちる涙がアスファルトに染みて、点々とあとをのこしていた。
「小野田、吐いちまえ、全部吐いたほうが楽になるから」
 うずくまった坂道を抱きしめながらそう言うと、必死に首を横にふる。背中をさすり、ときどきとんとんと叩いているうちに、我慢の限界が近いのか坂道の背中がぶるりと震えた。
「み、な、でぇ、」
 涙を流しながら必死になにかを言おうとしている坂道は、見ないで、と言いたいのだろうか。こんなつらそうな姿を見て放っておけるはずがないのに、と思いながらなにも言わずに背中をさすり続ける。なにもしてあげられないのがひどくもどかしい。坂道が完全に体を折る。口をおさえた両手のあいだから甘くすえたようなにおいがした。しかし、ぎゅっと目をつぶり、独特の声と音を立てながら坂道が吐き出したものは、どろどろになった胃の中身ではなくて。
「花……?」
 うずくまり涙を流しながら、はー、はー、と苦しそうに息をする姿とはどう考えても似合わない、場違いなほど真っ白な花びらがアスファルトに散らばっている。
「さわっちゃ、だめ、です、さわらないで……!」
 必死にそう言って手嶋の腕をつかむ。しかし、坂道が顔をあげたそのときにはもう手嶋の手は花びらをつまんでいて、それを見た坂道の顔がくしゃりと歪んだ。
 花。涙。すきなひと、いたんですね。アスファルトの染み。震える背中。頭のなかをいろんなものがめまぐるしく駆けめぐる。
「小野田、もしかして、花吐き病だったのか」
 こくりと頷く。
「オレのこと、すきだったのか」
 こくり、こくりと二回頷く。
「なんだよ……なんだよそれ」
「ごめ、ごめんなさい、っ、手嶋さん、」
 泣いて謝りながら、また白い花びらを吐き出す。新たに吐き出された花びらをよく見ると最初に吐いた花びらよりはいくぶんしなびていて、ところどころ茶色くなっていた。それを見るやいなや坂道の顔色がさっと青ざめる。
「どうしよう、嫌だ、」
「小野田? どうしたんだ?」
「花、枯れはじめちゃった、いやだ……」
 坂道はいやだ、どうしようと泣きながら繰り返すが、手嶋にはさっぱりわからない。クラスメイトやワイドショーが話していた花吐き病について、たいして真剣に聞いてこなかったことをはじめて後悔した。震える坂道を抱きしめながら、急いでポケットからスマートフォンを取り出す。数文字を検索窓に打ち込んで、検索結果の一番上のページを全速力で読んで、一瞬だけ目をつむり、ふう、と息を吐き出す。花吐き病についてのページに書かれていた発症条件と症状の進行の仕方、そして完治させる方法。そのメリットと、デメリット。腹をくくるのは一瞬だった。だってすきなひとが苦しんでいるのだ。肩をつかんで顔をのぞきこむ。思っていたよりずっと華奢な肩だった。
「すきだ」
「っ、……!?」
「小野田がすきだ。ずっと悩んでた。いい先輩でいないとって思って、言わないでいようって思ってた。でも、ごめん。オレがぐずぐずしてたせいで、ごめん」
 信じられないというように坂道の瞳が揺れる。てしまさん、と呟いた声は掠れていて、差し込む夕日で頬が橙に照らされていた。
「……ほんとですか」
「うん、ほんと」
「ボクも、すきです。ずっと、すき、でした」
「もっとはやく言ってればよかった、ごめんな」
「ボク、ちゃんと言ってればよかったのに……」
 ぼろ、と再び溢れてきた涙をそっと指先でぬぐう。
「だからさ、小野田。凡人のオレだけど、だいたい二千人に一人の、オレがその一人だってこと、祈ってて」
 そう笑ってみせると、坂道はよくわからない、と言いたそうな、すこし困惑したような顔をした。そっと抱きよせて腕に力をこめる。とんとんと背中を叩きながら、坂道にはばれないように白い花びらを口に運ぶ。噛んでも噛んでも飲み込めないそれをむりやり飲み込んで、もう一枚。飲み込んだら、もう一枚。抱きしめた小さい体が熱い。吐き出す花が枯れはじめたら最後のステージの合図で、末期症状のひとつである発熱はもうすでにはじまっているのだろう。
 同じリズムで背中を叩いているうちに、意識を失うようにして坂道は眠りはじめた。浅い息を繰り返している苦しそうな姿に、胸がおしつぶされそうになる。
 だらりと力を失った体をおぶって、大通りまでの道をゆっくりと歩きだした。家の番号も念のため登録してあってよかった。歩きながら電話をかけるとほどなく坂道の母親の声がして、総北高校自転車競技部の手嶋純太といいます、坂道くんのひとつ上の学年です、と名乗る。帰り際に熱を出したからこれからご自宅までうかがいますと言うと住所を教えてくれた。大通りでタクシーをつかまえ、流れていく窓の外の景色を見ながら、また本人の前では名前呼べなかったな、と思った。
 それが、三日前にあったすべて。
 青八木には坂道が花吐き病だったこと、もう末期症状になっていたこと、告白したことはかいつまんで言葉すくなに話したが、自分が彼の吐いた花を食べたことは話さなかった。余計な心配をかけたくはなかった。坂道が自分のことを忘れるかもしれないということを伝え、もしなにかあったらフォロー頼むわ、と笑顔をつくってみせると、青八木は
「こんなときまで笑わなくていい」
と言ってくれて、その優しさにすこしだけ泣いた。
 一日経ち、二日経ち、そして昨日の夜。
 手嶋は賭けに負けた。
「いままでついてなかったぶん、もしかしたら、って思ったんだけどなー……」
 誰もいない部室で、声は思ったよりも大きく聞こえる。胸がつっかえて息をするのが苦しい。体を丸めて膝を抱き、はーっ、はーっ、と息を吐きながらそれがせりあがってくるのを待つ。
 正式名称「嘔吐中枢花被性疾患」、通称花吐き病。
 片想いをこじらせると発症し、吐き出された花が枯れはじめると完治は絶望的となる。末期症状には高熱、記憶障害等があげられる。稀に例外はあるものの、ほとんどのケースにおいて片想いの相手およびその相手に向ける感情についての記憶に異常をきたす。
 吐き出された花に接触することによる接触感染が主だが、経口感染の場合は二日から三日の潜伏期間を経て無条件で発症する。
 前述の通り、花が枯れる前は完治は比較的容易であるが枯れはじめると絶望的となる。末期症状以降において確認されている唯一の完治の方法は、俗に「花喰い」と呼ばれている、抗体を持つ人間によって花を食べてもらうことである。しかし抗体を持つ人間は現在人口の0.05%程度にすぎず、二千人に一人程度の割合であることから、依然として難病であることに変わりはない。
 抗体を持っているか否かは発症してみるまではわからない。そして経口感染の場合、通常の接触感染と比較した際に、最終ステージに進むまでが早いと言われている。
「うっ……ぐ、は、」
 普通逆流しないところを異物が逆流してくる感覚。胃液が熱くて、喉が焼けそうになる。あの瞬間、考えたのは自分のことより坂道のことだった。
 もし、もし自分が花喰いだったなら。メリットは坂道の花吐き病の完治と片想いの成就。デメリットは特になし。
 もし花喰いでなかったなら。メリットは特になし。デメリットは自分の花吐き病の発症。
 なにもしなくても坂道は熱が下がる頃にはあったことすべて忘れちまうのかな、すきだって言ったこと、言ってくれたこと、忘れちまうのかな。そう考えたら坂道の吐き出した白い花びらを口にする以外の選択肢はないように思えた。だって、デメリットがあるのは自分だけで、坂道にはなかったのだから。
「っ、はぁ、」
 そうはいってもやっぱりきついなあ。わかってたけど、覚悟はしてたつもりだったけど。ほんとに全部忘れちゃったんだなあ。
 忘れたくない。自分が忘れられることはいい。次はどうか幸せな恋をして幸せになってほしいと思う。本当にそう思う、思うけど、でも、自分のなかにだけいる坂道のことは忘れたくない。自分が彼をすきだったこと、真っ白な花びら、アスファルトに落ちた涙の染み、すきでしたって言ったときの震えた声、夕日に照らされた頬、抱きしめた体の熱さ、華奢な肩、そういうすべてを忘れたくない。忘れたくない。
「坂道――」
 なんでうまくいかないんだろう。
 きれいに掃除された床に散らばった、赤いベゴニアが、手嶋を嘲笑っている。

ダリア(白) 感謝、豊かな愛情
ベゴニア 片想い、幸福な日々

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