零くん実は魔法が使えるようになったんだ、どうする、と言った赤井に、正気か? と冷たい視線を投げつけてしまったのが悪かったのか、こころなしか昨日から赤井がしゅんとしている。
なにがどう、とか具体的にそういうことではなく、なんとなく赤井の尻尾がうなだれているような気がするのだ。朝起きたときも、帰ったときも、おやすみを言ったときも。先に寝るな、と弱々しく微笑んだ言って彼のベッドのある部屋に入っていくときの背中に漂う哀愁ときたら! でも赤井がなにか言ってくるわけでもないので、いま俺にできることはなにもない。と、思う。俺がなにかしたのがきっかけだとしても。
警察庁からの帰り、霞が関駅前で顔を合わせた新一くんとご飯に行くことになったのはまったくの偶然だった。俺も驚いたけど、新一くんのほうが驚いていた。聞けば警視庁のほうに顔を出していたのだという。最後に会ったのはもうずいぶんと前で、このあと時間もあるから飲みに行こうとなるのも当然の流れだった。焼鳥が食べたい気分だったのでスマートフォンで予約だけして鳥貴族に向かう。降谷さんもとりきとか行くんだ-、と感慨深そうに呟いた新一くんは、俺のことをなんだと思っているんだ。そのへんにいる三十代のおっさんと中身たいして変わらないんだけど。
「最近どうなんですか」
「質問が雑じゃない?」
席についてひとまず何皿かと飲み物を頼み、店員の後ろ姿を見送る。新一くんはそうやって若い子らしい質問をし、俺が笑うと新一くんはつられて声を上げて笑った。
「でも、赤井とは連絡取ってるんでしょ。だいたい知ってるだろうに」
「いやまあ、それもそうですけど。やっぱり降谷さんからも聞きたいなーと」
そういうもん? と聞くとそういうもんですと。ふうん、とうなずきながら口をつけたハイボールはけっこうちゃんとした味がする。居酒屋の安い酒なんて大抵がお察しという味ななか、チェーンでうまいのは本当に貴重だ。
「最近はまあ、お互い普通に忙しいし、たいしたイベントもなにもないよ。帰ってただいまおかえりって言うくらいで、たまーに帰宅時間が近いときとかに少ししゃべるくらいかな」
最近面倒で夜食べないし、と言いながら運ばれてきた皮に手を伸ばす。ふと顔を上げると新一くんは変な顔をしていた。それから変な顔のままで、一緒に住んでましたよね、と言う。
「うん。ていうか新一くん知ってるよね?」
「いや、まあ、赤井さんから聞きましたけど。そういうことじゃなくて」
ええー、と新一くんはなんともいえないような声でうなり、やってられないというような顔で手元のビールをあおった。
「一緒に住んでてその接触のなさおかしくないですか?」
「まあね、でもしょうがなくない? 僕もあいつも帰り不定期だし、待ってたり無理に合わせて体調とかサイクルを崩すのなんてもってのほかだし」
今度は新一くんが、そういうもんなんですか? と怪訝な顔で言った。そういうもんだよ、とうなずきながら、心の片隅でぽんっと芽生えた罪悪感のようなものを見ない振りをする。
「赤井さんがちょっとかわいそうだな」
「え、なんで」
「ええー、いやだって、そんなの全然一緒に住んでる意味ないじゃないですか」
住所が同じの一人暮らしとなにが違うんですか?
そう淡々と言われて、ぐっと言葉に詰まり、それを感づかれぬようにグラスに手を伸ばす。
「どうだろう。でも、あいつのことだからきっと嫌ならさっさと出ていくよ」
そう言いながら、きっと本当に、赤井はあの部屋を出ていくのだろうな、と思った。それを止めることはできない。だって仕方がない。相手の気持ちを試したり、一時の気の迷いでそういうことをするような奴じゃないことは知ってる。だから、その赤井がそうするということは、きっとそういうことなのだろう。
「それ本気で言ってるの? 降谷さん」
新一くんは俺のことをまっすぐ見つめながらそう言った。なんとなく気まずかったからぼんじりを手に取って、曖昧に笑った。そんな俺を見て、新一くんはあきれ返ったようにため息を吐き出したのだった。それ以降新一くんはその件についてなにも言わず、あとは本人たちでどうぞ、という態度を決め込むことにしたようだった。
家へと向かいながら考える。どういうわけか赤井と暮らしていること、赤井がどうしてあの家に帰ってくるのかということ、きっと自分はとんでもなくわがままで自己中心的なのだろうということ、などについて。これは同居でもルームシェアでもなく同棲だという点について、そこに認識の相違はないのだが、実態はいったいどうだろう。こんなの。
(新一くんの言うとおりだ。こんなの、一人暮らし二人分と変わりない)
赤井のことは好きだ。好きだからこんな酔狂なことをしているわけだし、赤井だってきっと、俺のことを好きだからまだこんな酔狂なことを続けているのだろう。きっと、まだ。
嫌なことばだな、と思った。きっとまだ自分を好きだなんて、しがみつくみたいで最悪だ。
だからといって面倒で厄介なすべてを投げ出すわけにもいかないのだから質が悪い。昔から恋愛体質ではなかったから、すぐに面倒になって嫌になってしまう。そのくせ、だいぶこじらせにこじらせてしまったものだからそうすることもできない。というか、やっぱり好きなのだろう。こういうことをぐだぐだと考えたり、そういう面倒なことの渦巻く部屋に帰ろうとしているあたり。
「救えないな」
ふっとこぼれ出たつぶやきは自嘲じみている。ああほんとうに、まったく、面倒でしょうがない。
そんなことを考えながら部屋の前へとたどりつき、鍵を差し込んだあたりでなんだか嫌な予感がふっと頭をよぎる。いやいやなんだよ、と頭を振りながら鍵をひねり、ドアを開けて。その瞬間、事態を正しく理解した。
走る。走る。息が切れて、携帯もなにも持たず、ただ鍵だけを握りしめて、手当たり次第に走っているのだった。かばんは玄関に放り投げてきた。玄関はちゃんと閉めてきたっけ。いやでもまあきっと大丈夫だろう。
帰った玄関に、赤井の靴はなかった。つまり、そういうことだ。
なんでずっと、盲目的に信じていられたのだろう。赤井があの部屋から出て行かないという確証なんて、たったのひとつだってなかったのに。
はあ、はあ、とどんどん息が苦しくなっていく。足がもつれて手と足がばらばらに動く。足はそこそこ速いはずなのに、いまの自分はとてもそんなことを言えた立場ではなかった。もがくように、無様に走っている。ばかだなあ、と思う。ばかだなあ。どこにいるのかも、見つけて何を言うつもりなのかもなにもわからないくせに。
赤井と住むようになったのは割となし崩しのような成り行きで、好きだなんだということになったのも割と成り行きだった。適当でずるい大人らしく酒の勢いだって借りたし、仕事だなんだとたくさんの言い訳に溢れていた。近くにある人間のあたたかさに安心して、そこにいてほしいと確かに思っていたくせに、そういうものをちゃんと確かめることをしようとはしなかった。そのつけが、これだ。考えるより先に動けよ、ばか。
立ち止った瞬間に汗が噴き出てくる。肩で息をしながら見つめる先に、赤井がいた。
「早かったな」
いや、なんだそれ。と言いたいのに息がなかなか整わない。やばい、心臓めっちゃ速い、どくどくいってるの自分でもわかる。
「零くん?」
「……っ、」
これまであることを特段意識したことのなかったような公園のベンチに腰かけて空を見ていた赤井は、いまはくるりと肩越しに振り返って肩で息をする俺を見つめているのだった。なにを言おうとしてもうまく音にならない、というか、なにを言おうとしているのかも、この期に及んで自分でもよくわからなかった。様子がおかしいのに気が付いたのか、赤井がゆっくりと立ち上がり、近づいてくる。たらりと額を汗が流れていった感覚が妙にクリアで、スーツからすこしだけ引っぱり出したワイシャツの袖でそれを拭った。
「息、荒いな」
「めちゃくちゃ走ってきたから……」
「大丈夫か」
「あんまり」
「はは、そうか」
やっとの思いで呼吸を鎮めてから、顔をあげて赤井を見つめる。いつも通りの顔、いつも通りの表情。いやもうちょっとそれなりの顔をしろよ、と思う。だってお前はあの部屋を出ていくんだろう。
「荷物、いつ取りにくるんだ」
そう言うと、赤井はきょとんと目を丸くしてはあ? と間抜けな声を出した。はあ? とこっちだって言いたくなる。自分の荷物の始末もしないつもりかよ。
「なんのことだ」
「は? 急に出て行ったのは赤井だろう」
「あ、そこまでいったのか」
「はああ?」
そこまで飛躍すると思わなかった、と赤井はどこか楽しげに笑いながら言って、その不適切にもほどがある表情に、無責任な奴だなと今度はめちゃくちゃに腹が立ってきた。走りながら感じていた鼻の奥がつんと痛むような、そういう感情はもうどこかへ跡形もなく消えてしまった。前言撤回だこのやろう、最後まで俺をおちょくるくらいならさっさと出てけ。まだなにも言ってないけどな!
「いや、ちゃんと話すよ」
「いい。出ていくんだったらちゃんと対面で言え、こういう曖昧なやり方は一番むかつく」
「そういうつもりじゃないんだ最初から。出ていくつもりはないし、追い出されても困る」
「自分勝手だな!」
「きみもだろ、なんでも自己完結しすぎだ」
その点については自覚ありなのでうっと言葉に詰まった。暴走しがちなのは悪いところだと思っている、常々。思ってはいるが、いや、だいたいが赤井のせいだから悪いのは俺だけじゃないのでは?
「とりあえず座ってくれ」
「……わかった」
立ち話のままもなんだし、と思い直して頷いた。赤井はほっとしたように目元をゆるめて、そんなあまり見たことのないような表情に、誠に遺憾ながら、俺はすこしだけきゅんとしてしまった。
俺たちの関係は曖昧すぎるだろう、と赤井は言った。曖昧で、なし崩しで、言い訳ばかりでお互い予防線を張り続けている。
「零くんが追いかけてきてくれなかったら、そのときはちょっと考えようと思ってた」
「なにを」
「今後の付き合いについて?」
非生産的なことはしたくないから、と赤井は言ったけれど、じゃあいまは別に非生産的とは思ってないのか、と思うとなんだか変な気分だった。
「なんでこんなことを?」
感情的にならないように気をつけながらそう聞くと、赤井は変な顔になって、それからこないだの朝、と口を開いた。
「変なことを言ったろう」
変なこと、と記憶をめぐらせて、ああ、と頷く、
「魔法がうんぬんってやつ」
「そう」
そこでやっと、俺はさっきの赤井の変な顔がはずかしそうな顔なのだとわかった。
「寝ぼけてるか頭おかしくなったかと思った」
「手厳しいな」
はは、と普通に笑う赤井は別に気にしていないのだろう。それがなんだか申し訳なくて、赤井から目をそらした。
「まあ、タイミングも悪かったなと思って反省したんだ。朝のあんなばたばたしてるときに言われても困るだろうし」
「……どうして急にそんなこと言ったんですか」
これまでずっと、口数が多く途切れることなく言葉を続けていた赤井が、ここではじめて口ごもった。なんだなんだ、と思ってもう一度隣を向くと、今度は赤井のほうがふいっと顔をそむけた。
「赤井?」
「……なんでもいいから、零くんと話したくて」
「えっ」
「ずっと、ろくに話していなかったから、なんでもよかったんだ、いや、それにしては雑だしあれはないだろうと自分でも反省したけれど」
ということは。ということは、あのしゅんとうなだれた尻尾と、哀愁漂う背中は、俺に相手にしてもらえなくてさびしかったってことか!?
ものすごい衝撃だった。こいつが、こんな一人で生きていけて当たり前みたいな顔をしている赤井が、俺の反応ひとつであんなにしゅんとして。かわいい、と思った。かわいくないわけがなかった。うわ、やばい、どうしよう。なんか泣きそうだ。
「零くん?」
目が合って、きれいな緑色の目がすぐそこにあって、その瞬間に涙がこみ上げてきた。じんわりと目が熱くなって、口がわなないて、情けなくてたまらなくて、飛びつくように赤井の首にしがみついた。
「ど、どうしたんだ」
「赤井」
慌てて背中をさする赤井の肩にぐりぐりと頭をおしつける。声がくぐもって、もごもご言ってるようにしか聞こえないかもしれないけどそれでも別によかった。
「あかい」
「なんだなんだ」
「ごめん」
「次はもうちょっと相手してくれ」
「うん」
「それくらいでいいから」
「うん。あかい」
「ん」
「すき……」
瞬間、ぴたりと石になったように赤井は固まってしまった。それがおかしくて、かわいくて、肩に押し付けていた顔をあげてもう一度ぎゅうと赤井にしがみつく。
「すき!」
泣き笑いみたいになりながら言うと、今度は赤井のほうが俺の肩にぐりぐりと顔を押し付けてきた。子供みたいでかわいいな、と思う。ああ、かわいい。かわいくてしょうがない。ちょっと思うことはあれど、こんなに思うのは初めてだった。
「零くん待ってくれ、頭が追いつかないから」
「処理が?」
「そう」
ぎゅうぎゅう子供のようにしがみつきあっていた俺たちは、ほぼ同じタイミングで体を離して、それからくすくすと笑いあった。
「案外嘘でもなかった」
そう言って赤井はやわらかく微笑む。どういうことだ、と首を傾げると赤井は、なんとなくきみのことはわかるから、と言った。
「零くんは追いかけてくるのかなあ、なんてぐるぐる考えながら家を出て、追いかけてこないかもしれない、そしたらどうしよう、本当にあの部屋を出ないといけなくなってしまうな、なんて思いながらぶらぶらとあてもなく歩いて。なんとなく、ここで零くんが俺を見つけるような気がしたんだ」
変かな、と赤井は照れたように笑った。それから、零くんのことがもっとたくさんわかるようになったら、それこそ魔法みたいなのに、と。
「いや、悪い。浮かれてるんだ」
そう言う赤井の頭上では、生まれるよりもずうっと前と同じ星空が輝いている。魔法が使えたらもっと早くから赤井とちゃんと向き合っていられたのだろうか。
それ本気で言ってるの? 降谷さん。
新一くんに言われた言葉が耳のなかによみがえる。そうじゃ、そうじゃないだろう。ちゃんと人と向き合うのに魔法なんて必要ないし、魔法なんてなくてもそういうことが息をするようにできる人だってやまほどいる。自分はそういうタイプではないけれど、でも、ここを逃したらいけないというときはわかる。赤井、と呼ぶと赤井はきょとんとした目で俺の顔をのぞき込んだ。普通だったら俺がぜったいしないようなこの状況でいまキスをしたら、赤井はどんな顔をするだろうか。たった十数センチ近づくだけできっとこれまでよりも素直になって、きっとこれまでよりもちゃんと誠実に向き合えるような気がする。それはきっと素直になるとか、勇気を出すということなんだけど、いい年してそれはなんかこっぱずかしい。だからかわりに、これも、魔法って呼んでいいかな。
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