光・鏡・薪 - 3/3

 蝋燭の炎だけが揺れている。羽根ペンを机に置いたヨレンタは、自身の綴った文字をじっと見つめていた。きっと彼女の「古い友人」と対話をしているのだろう。その時間に水を差すべきではないと、ドゥラカは息を詰めた。少し身体を動かすだけで、この椅子は軋んで小さな音をたてる。
 ヨレンタが小さく口にした「やっぱり」が、ドゥラカの意識の端に引っ掛かっていた。そう言うということは、以前に同じようなことを言った、あるいは聞いたということだろう。奇跡とはまた大きく出たな、と思う。教会という体制を打破しようとする人はどんな無神論者かと思っていたけれど、空を見上げて神の偉業に思いを馳せるヨレンタは、今も神そのものは捨ててはいないように思えた。そんな人が口にする奇跡という言葉の重さ。
 ぴんと伸ばされていたヨレンタの背中から力が抜けて、輪郭がゆるくたわむ。長く息を吐き、綴られた文字をいとおしげに撫でた。空気を満たしていた緊張がほどけた気がして、ドゥラカはあの、と声を出した。ヨレンタが顔をあげて振り返る。その顔は先刻よりも幾分か柔らかくなっていた。
「ご友人って……どんな方だったんですか」
「なんで聞くの? そんなこと」
 机に片肘をついたまま、からだをずらしてドゥラカに正面から向き直り、問う。あくまで淡々とした口調で。
「懐かしい相手の話をしたいこともあるかなと、思ったので」
 穏やかな笑みすら浮かべているのに、彼女には一切の隙がなかった。緊張がほどけたのはどうやらドゥラカの勘違いだったらしい。口の中が渇いている。語り続けたからという、それだけの理由ではなくて。
 ヨレンタはドゥラカのこわばった頬をじっと見つめて、それからふっと息継ぎをするように笑った。目を伏せて呟いた。懐かしいな。
「大人に急に詰められるのって怖いよね」
 その言葉が予想外だったので、咄嗟に返す言葉を見つけられずドゥラカは開きかけた口をただつぐんだ。ここまでとはどこか違う声色で発せられた言葉が、ふたりの間に落ちる。しかしヨレンタはむしろその様子に気を良くしたようで、友人ね、と小さく笑った。どこか遠い目をしながら。
「彼らと過ごした日々は、きっと私の人生で一番明るくてあたたかい日々だった」
「彼ら……ってことは、この本を書いたのはひとりでなくて?」
「ううん、書いたのはひとり。研究をしていたのは別のひと。私も、そのひとに畳み掛けられるように地動説の話をされたときは心臓が跳ねて指先が痺れた。もうずっと昔の話」
 言葉を切って、ヨレンタは改めて紙の束を手に取る。文字をなぞりながらページをめくる。
「書いた人はどんな人だったんですか」
「どんな……どんなひとだったんだろうね。私は結局、彼らのことをよくは知らなかった。彼らも私のことを知らなかった。だからこうなったのかも」
「こう……」
「彼らは異端として処刑されて、私は生き延びた。偶然の積み重ねでね。きっと何かが違えば私たちの立場は逆だったかもしれない。今でも彼らが本当は逃げ延びていて、どこかで再会する夢を見る」
「それは……きついですね」
「最悪の夢見だよね」
 ページをめくる手が止まる。最後のページ。そして一ページ目へと戻る。
「例えば」
 自嘲気味な口調のまま、ヨレンタが言葉を切った。手元に落としていた視線が、まっすぐドゥラカへと向けられる。切先がそこになかったとしてても、剣を向けられている気分には変わりないなと思った。
「彼らの話でも出版してみる?」
「え?」
「若いふたりの友情と悲劇、これからの世間には受けるんじゃない? 道徳劇よりよっぽど刺激的だと思うけど」
「それ、本気で言ってますか?」
 うすら笑うようにぶつけられた言葉に、カッと顔が熱くなる。これは怒りだ。そうやって人の死を消費すること、それが選択肢になりうる人間だと思われていることへの、怒り。しかしドゥラカは意識的に深呼吸をして、反射で固く握り締めた拳を開いた。侮辱されたときでも、思慮深くあらねば生き残れない。今までと同じ。そう自分に言い聞かせる。ヨレンタは何も言わない。ただ、ドゥラカが細く長く息を吐くさまを見つめていた。
「私はやらない」
「どうして?」
「死は綺麗なものなんかじゃないから」
 ようやく発せられたドゥラカの声は落ち着いていたが、確かな怒気が滲んでいた。真っ直ぐな眼差しに睨まれつつ、ヨレンタはその指が小さく震えているのを認めた。そのとき初めて、まだ年若い子にかわいそうなことをしたな、と思った。
「ごめんね。試すことを言って」
 そして、ヨレンタは今度こそ警戒を完全に解き、視線をあわせて微笑んだ。大人がこどもを安心させるための、ただそれだけの笑顔だった。
 ドゥラカのからだがようやく空気を取り込む。ここまでの緊張が一気にゆるんだのか、心臓が一気に慌ただしく音を立てていた。じわりと額に汗が滲んでいるのが自分でもわかる。指先で生え際を拭いつつ、ヨレンタの様子を伺い見る。先ほどのごめんねは本心だったようで、もうその瞳から剣呑な光は消えていた。本来の彼女は、こうやって人好きのする笑みをにこにこと浮かべている人物だったのだろう。
「大丈夫?」
「まあ……なんとか」
「本の内容を疑ったわけじゃないんだよ。確かに彼の言葉だなと思ったし。それでもあなたのこと、本当に信じていいのかなってまだ思ったから」
 ヨレンタがなんでもないことのように言った。だとしてもそんな、自身も傷付けるような言葉で試さなくてもいいのに、と咄嗟に思う。しかし、そうして彼女は自身の身を守ってきたのかもしれないという考えも同時によぎって、結局ドゥラカはただ黙って頷いた。
 蝋燭は相変わらず揺らめいていたが、窓の外はいつの間にか幾分明るくなっている。鳥の声が遠くに聞こえる。ふいにそれらが耳に入ってきて、昨夜からまだ一日も経っていないんだなとどこか他人事のように思った。
「もういいよ。疲れたでしょう」
 ヨレンタも朝がきていたことに気付いたらしい。退出しやすいように机に向き直りかけたが、そんな彼女をドゥラカが呼び止める。
「あの」
「何?」
「ええと……」
 自分とは全く違う人生を送ってきたヨレンタに、何かもっと聞きたいことがあった。しかし、呼び止めはしたものの、そこに続く言葉をまだ見つけられてはいない。彼女の怒り、憤り。その下に水脈のように流れる哀しみ。それらの存在は火を見るより明らかで、しかし無遠慮に踏み込みたいわけでもない。
「人生に対する怒りって、いつかなくなると思いますか?」
 結局ドゥラカが口にしたのは、そんな、漠然とした問だった。きっと人は、その人だけのかたちの怒りを抱えて生きているのだろう。その多寡に関係なく。抑圧に対する反発も、奪われたものを取り返すための歩みも、いつかただ、風化してまっさらになっていくのだろうか。
「そうなってたまるかと思ってはいるけれど、でも、きっとその方がしあわせなんだろうな」
「諦めてしまえば楽だからですか」
「そうだね」
 そこで一度言葉を切り、ヨレンタはふっと短く息を吐いて笑った。
「まあ、私はもう燃えかすみたいなものだけど」
「燃えかすって……」
「怒りを維持するのって大変だから。くべられるものはもう、私自身以外になくなってしまった。いつからか、もうずっとそう」
 あなたは、薪以外のものを人生に見つけられるといいね。
 そう言った声と眼差しがあまりにも真っ直ぐだったので、目が逸らせない。なんの言葉も意味がないように思えて、ドゥラカはただ、しかししっかりと頷いた。もうずっと、神なんて信じていない。だから祈ることもしない。けれど彼女の声は、紛れもなく祈りのようだと思った。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!