その日は卒業アルバムだか卒業記念ビデオだかの撮影について連絡があるとかで、福富と東堂が放課後なかなか帰ってこなかった。待たせるのも悪いからと言われていた荒北と新開は二人で先に夕食を食べることになっていた。
さらに数日が経ってもなお、結局、やはり二人してその一件に触れることはないままだった。東堂とのカラーコードにまつわる会話以降荒北は迷宮に迷い込んでしまい、新開の頭のなかの肝心な部分は相変わらずわからないままである。しかしそれはあくまで荒北の水面下に限った話で、目に見える範囲について言えば今まで通りの少し距離の近い友人という関係に変化はない。部屋にも行くしくだらない話もするし夕食を一緒に食べもする、本当に、なにもなかったかのようだった。
(でも、そんなことねえんだよなあ)
東堂の言った、「同じ結論に至るとしてもルートは変わる」という言葉が耳にこびりついてしまったかのようだった。いままで一本道だと信じていた、一本道ではないという可能性があるなんて思いもしなかった道は実は一本道ではなく、もう一本別のルートがあって、しかもルート変更はいつでも可能だと言われたようなものだ。しかもルート変更をしたとして、終着点が変わる場合も変わらない場合もあるときた。荒北は実はしっかり混乱していて、そしてそれは新開が荒北にとってどうでもいいタイプの人間ではないからなのだった。
夕食前、荒北はすでに解いた問題のうち間違えたものの解き直しをしていた。福富と東堂からいつ解放してもらえるかわからないということは昼間のうちに聞いていたので、新開とはじゃあ腹が減ったら食べに行こう、まあとりあえずメールするわ、なんて適当な約束だけしたのが昼休みの終わる十分前。放課後はいつものように図書館の窓際の席に座り、付箋のはられたページを順々に開いていく。そしていい加減外も暗くなってきたころ、携帯が短く振動した。
『腹減った!靖友図書館?』
必要最低限の文字数で送られてきたメールにふっと息をこぼし、ぱぱっとメールを返してノートを閉じた。するとすぐに返信がきて、それに目を通してから片付けを再開する。
『いまからかたして直接いく』
『了解!さき着いたら席とっとくぜ』
最初は絶対アドレスを交換するなんてごめんだと思っていたはずなのに、いまではこうして一分単位のメールの応酬をするまでになってしまった。三年目の付き合いとなればもうはるかかなたに消えてしまったメールだってそれこそ山のようにあるはずで、それは意識するととても不思議なことのように思えた。なんでもないような会話、行動が積もり積もって、そのほとんどはだんだん忘れられていってしまうのに、妙なシーンや妙な会話だけいつまでも覚えていたりする。しかも覚えているそれがなにか重要な場面とは限らないあたり、人間ってよくわからない、と荒北は思った。たぶん、左隣でレンジでチンした親子丼を食べる新開の幸福な横顔を荒北は覚えているだろう。ふとしたときに思い出す新開の手の中にあるのはもしかしたら親子丼ではないかもしれないけれど、生活に染みついた定位置ってそういうことなんかな、と迷宮から抜け出せない荒北はそんなことをつらつらと考えている。
食堂についてあたりを見回すと、ならんだ長机のうちのひとつの端に座っている新開が見えた。ほとんどタイミングを同じくして新開も荒北に気づき、手を顔のあたりまで上げて振りながらにっこりと笑った。
「腹減ったぜ」
「席あんがとネ。先食っててよかったのに」
「いやどうせだし一緒に食ったほうがいいじゃん」
言いながら新開は立ち上がり、自分が座っていた席とその向かいにティッシュとタオルを置いた。夕飯時の食堂はそこそこ混み合っている。先ほどは定位置がどうのなんて考えていたが、今日は定位置ではなく向かい合って食事をすることになりそうである。
トレイを右手に持ち列にならんだ新開に続いて荒北も列に入った。ベルトコンベアに乗せられた部品がどんどん組み立てられてひとつの製品ができあがっていくように、トレイの上に食事が完成されていく。
「よく図書館で勉強できるな」
「学校終わってから部屋戻ってまた食堂って、行ったり来たりすんのやなんだよ」
「あ、動線の話だったんだ」
「ドーセン?」
「動く線」
「あー」
「まあ確かに、教室、図書館、食堂、部屋が一番無駄ねえよな、言われてみれば」
「だって赤本重いじゃん」
「オレそもそもずっと部屋に置いてある」
「重いから?」
「そう、肩痛くなる」
「なにを取るかって話か、コレ」
「なにを取るかって?」
「移動距離と重さ」
「ああ」
移動距離を最短にするかわりに荷物が重くなる荒北と、荷物は軽いかわりに移動に無駄が多い新開。なんだか自分たちらしいな、と思っているうちにキープしておいた席へと戻ってきて、がたんと椅子を揺らしながら引いた。
「いただきます」
手を合わせてそう言う。いつのまにか自然とタイミングが合うようになっていた。ここにも共に過ごした年月が息づいている。
「うちさ、いただきますのとき、手合わせねえんだ」
「そーなの?」
「うん、手じゃなくてお辞儀」
新開が箸で味噌汁をかきまぜながら言う。荒北はふうん、と答えながらご飯を口に運んだ。
「家帰ったときはどうすんの」
「いま? やっぱお辞儀」
「へえ」
「けど、学校とか、靖友とかみんなといると手のほうが普通ってかんじ」
「はじめて聞いた」
「靖友んちは普通に手?」
「そうだな」
そっかあ、と新開は言い、それ以降は食事に集中することにしたらしい。空腹のときはいつもに比べてもくもくと食べるのは荒北も同じなので、自然とテーブルの上は言葉少なになった。三年、たかが三年である。人生の六分の一。積み重なって息づいているものもあれば、今日初めて知ることもある。なんだか不思議な気分だった。不思議というか、新鮮っていうほうが正しいのか、と荒北は先ほどの新開と同じように味噌汁をかきまぜながら考える。適切な言葉を選ぶことは難しい。
「明早の学食、超広くて超きれいだった」
「前写真見た。あそこ校舎もすげえキレイだよな」
「で、そんな学食が満席になるくらい人いんだって」
「うわあまじかよ」
「席取れなくて食いっぱぐれたらどうしよう」
「そこはがんばるしかないんじゃね」
「だよなー」
オープンキャンパス行ったけど、と新開が吐く息とともに小さく言う。全然想像つかねえ。
荒北はなんと言おうかすこし迷って、けれど言葉がすぐに出てこなくて、ただウン、とうなずいた。そして、オレも、と付け加える。付け加えながらあのときのメールと一緒だ、と思う。レースのときは絶対に逃さないような一瞬のタイミングを逃してしまう。自転車が手足のように動くようになるまで確かに時間はかかったけれど、言葉なんてもう十八年も使っているくせに、まだ自分の思うままに動いてはくれない。なんなんだまったく、と文句が言いたくなるような不便さである。
「洋南ってオープンキャンパスいつ?」
「十二月入ってから」
「もうちょい先か」
「……いや、あっという間だよ」
そしたら、と新開が口を開き、しかしその先の言葉が出てくるより先に手を伸ばしたので醤油を取りわたしてやる。ありがと、と言い、新開はもう一度そしたら、と言った。
「靖友が静岡で、オレは東京か」
「受かったらな」
「……いまみたいに、醤油、取ってもらえなくなっちまうな」
「……さびしいのォ?」
手を止めて新開を見つめる。新開はまっすぐ荒北を見つめ返し、なにか言いかけてからやめ、唇をきゅっと引き結ぶ。それから、やすともは、と呟いた。
「靖友は、さびしくなったり、しねえの?」
「……そうなるんだろうなとは、思う」
「なんだよそれ」
オレはさびしいよ、いまから、やっぱりさびしいよ。目を伏せた新開に、自分の意図するところが正しく伝わっていないことがわかって、らしくもなく荒北は慌てた。
「そういうことじゃなくて」
「そういうって、じゃあ、どういうのだよ」
「最初のころはバタバタしててそれどころじゃなくて、けど慣れてきたらやっぱ、ホームシックみてえなのにはなるんじゃねえの? わかんねえけど。だってまだ全然先のことだぜ、想像つかねえもん」
未知だろ、と最後に一言つけ加え、グラスを手に取る。新開がなにも言わないので、まだ伝わってないだろうかと不安に思いつつちらりと正面に座る男をうかがったが、新開はといえば、眉をひそめてわけがわからないというような顔をしていた。
「靖友って、実はけっこうめんどくせえんだな」
「ハァ?」
「それ、さびしいでいいじゃん」
「よくねえよ」
「なんで?」
「だって微妙にちげえだろ」
「そんな変わらなくないか」
「変わるって」
「どのへんが?」
「ニュアンスが」
新開はやっぱり変な顔をして、心底わからないとでもいうように、ニュアンス……とぼそりと呟いた。
「靖友、そういうの気にするやつだったっけ」
「失礼」
「ごめん、ってそうじゃなくてさ」
もっとこう、感覚的な……、と両手を落ちつかなさげに動かしながら新開が首をかしげ、うーんと唸る。
「だからニュアンスって」
「や、そうなんだけど、こういうかんじ? そうそうそんなかんじ、みたいな、靖友とはけっこうそういう会話ばっかしてた気がすんだけど、オレだけ?」
「指事語ばっか」
「笑うなよ……」
頬杖をついてふふっと笑う荒北に新開が情けない顔を向ける。その顔を見ているとなぜだかむしょうにでこぴんしたくなってしまって、荒北がすっと右手を伸ばすと、新開はさっと両手を額にあててガードした。
「ガードすんなよつまんねー」
「靖友のでこぴん痛いんだってば!」
「けどまあ、なんとなくわかった」
「そうだよ痛いんだよ、頼むから乱発するのやめてくれよ」
「いやそっちじゃなくて」
「ん?」
警戒を解かないまま、新開がわずかに首をかしげる。一度途切れた話題を再開させるのがなんだか気まずくて、荒北はテーブルに置かれていた右手で頭をかき視線を落としながら口を開く。
「だからァ、会話のほう」
「あ、ああ」
一瞬きょとんとしたのち合点がいったらしく、新開は大きく一度うなずき、それからよかったと言って笑った。
「なんかあった?」
「え?」
「いや、靖友がそういうこと考えるって、なんかあったのかなって」
それを新開、おまえが言っちゃうのかよ、そう思わないでもなかったが、口に出すつもりはなかったので当たらずとも遠からずなことを答えにすることにした。
「マウスのさ、ころころするところあんじゃん」
「スクロールするときに、えっと……、ころころするやつ?」
「そうそれ」
言葉を探すもうまいものが見つからず、最終的にやっぱり荒北と同じくころころという言葉を選んだ新開はなんだかかわいい。そんなことを思いながら言葉を続ける。食堂はいまや食事タイムというより食後の歓談タイムで、混み具合はあいかわらずだった。
「あれとか、思い浮かぶけど名前わかんねえやつってけっこうあるなって思ってよ」
「あー、あるな、たしかに」
「で、反対に、エンターキーってエンターキーなのにエンターじゃねえじゃん」
「ちょ、ちょっとまって」
「あー、えっとォ、EnterじゃなくてReturnって書いてあんだよ」
「あ、ああ、なるほどな。そういうことか」
「んで、そういう、名前が違うけど同じものもあんだなって思って、日本語ってムズカシーなーって思ったわけ」
ふうん、と言いながら新開は水を飲み、なんとなく荒北もそれにならった。
「オレも、不思議に思ってたことあって」
「おう」
「文庫の、あの茶色い紐あるだろ、あれって、あれもしおりになんの? それとも紐なのか? って」
新開の言葉に、咄嗟にローテーブルに伏せられた文庫本を思い浮かべた。そういえばあのとき、自分もあの紐もしおりと呼んでいいんだろうかと思った気がする。新開が荒北と同じようなことを思っていたという事実がなんだかくすぐったい。
「それ、オレも思ってた」
「ほんとか!」
「しおりってやっぱ紙、っていうか、あのはさむやつのほうがしおりだよな」
「そう、そうなんだよな。あの紐さ、でもなんか名前があるとも思えないだろ? じゃあやっぱしおりなのか、うーんって」
「あー、すげえわかる」
だよなあ、そうだよなあ、もやもやするよな、するする、と口々に言いながら、濡れたグラスの外側を指先でなぞる。
「頭のなかにあるものが同じものなら、それって、名前が違っても同じってことだよな」
「エンターキーみたいに?」
「そう」
新開はうなずき、言葉を探しているようだった。荒北はなにも言わずに続きを待つ。沈黙を埋めるために残りの水を飲んでしまいたかったが、そうしたらもう一杯をつぎに席を立たなければならない。それがなんだかいやで、やっぱり、人さし指でグラスのふちをなぞり指先を濡らしていた。
「名前があっても、わかんなくても、別の名前でも、そのうしろにあるものが同じなら同じってことだろ?」
「っと、そう、だと思うけど」
「じゃあさ、同じって、なんでわかるんだ? さっきの靖友とオレみたいに、ころころとか紐とか、物があるときはいいけどさ。考えてることとか、思ったこととか、同じって、そもそもそんなことありえないんじゃないのか?」
えっと、と新開は眉間をおさえ言葉につまる。その様子を見つめて、荒北は漠然と、しかし直感的に、新開も自分と同じようなことを考えたのかもしれないなと思った。それは荒北の勝手な想像にすぎなくて、本当のことなど知らず、わかるはずもないのだが、そうして降ってきた考えというのは確かに荒北の表情をわずかにやわらかくした。
あれから、いろいろなことを考えたけれど。新開のことがすきなのか、そういう、恋愛的な意味で、という問いに対する答えは、おそらくノーなのだと思う。おそらく、というのは、あくまでイエスかノーかの二択でいえばノーであるという意味であり、二択ではない、記述式の正確な答えを的確に表す言葉はきっとどこかにあるのだが、それを探し当てるにはまだまだ時間が必要だと、そういう意味である。
そしてそのための時間はきっとずっとあるのだろう。そういう意味でもやはりイエスかノーかでいえばノーだな、と思う。荒北はそれをとっくに、きっとずっと前から知っていた。
「だめだ、靖友にあてられて難しいこと考えてたら、頭痛くなってきた」
「おら諦めんなよ、がんばれ」
「人には自分ががんばれって言うくせに……」
「オレはもう十分考えたからァ」
「そりゃないぜ」
そう言って、新開は天井を仰ぎながら両手で頭をかきまぜる。そして深くなった眉間のしわを指でひきのばしてやりたいと思ったが、またでこぴんだと思われてガードされそうな気がして、手を伸ばすのはやめた。
「そもそも不自然なんだよ、形のないモンをむりやり枠にあてはめて、それか、一番近い形の枠をどっかから探してきて、それにはめてから送受信するしかねえんだから」
荒北がそう言うと、新開は髪をぐちゃぐちゃにしていた両手を止め、発電所みたいだなあ、とのんきな声で言った。
「発電所? なんで」
「ほら、できた電気全部が届くわけじゃねえだろ。送電線とか、エネルギー変換? とか、そういういろんなところで絶対にロスがでるからさ。それみたいだなって」
「……なるほど」
考えていないようで、新開もしっかり考えているんだなあ、と思い荒北はにやりと笑う。
そしてふと、だからこそそうしてうまれた隙間を埋めるために、人は手を握ったり、抱き合ったり、そういうことをするのかもしれないと思った。
新開もそうだったのだろうか。言葉を介さないで、介さないからこそ、直接流れ込むように伝わるものもある。あの夜確かに自分たちはなにかを共有した。
「たぶんさ、だから、大切なことを伝えたいときに、難しい言葉っていらないんだ」
そこにもロスとか誤変換はあったのかもしれないけれど、手首を返して新開の手を握り返したときの小さな震えとか、体温とか、そういうものを通じて、たぶんなにかを共有したのだ。言葉という媒介に押し込められない、そういうなにか。そしてそれはあくまで荒北ひとりが思っていることであって、新開がなにを思ってそうしたのかはやっぱりわからず、新開がどう思っているのかもわからず、この先もずっとわからないままなのだろう。けれどそれでいい。そういうものだから。
好きだし、大切な友人だと思う。思っている。この先も、きっと思っている。
わかんねえと情けない顔で言った新開もいろいろなことを考えたはずで、自分だっていろいろなことを考えて、そのうえでいままで通りの関係であり距離感なのだ。ルートの変更はなされたわけだが、向かう方向は変わらない。もしかしたらこの先、ルートの変更を検討することも向かう方向が変わることもあるかもしれないが、それはそのときである。そうなったときに、また考えればいい。こうやって二人で、おいしいものを食べながら。
「やべー、靖友とオレ、いまちょう賢い会話してる」
「その発言が賢くねえけどな」
「ははっ、ひでー」
新開は手元に残った二口ぶんの水をごくりと飲み干し、ついでくるけど靖友ももう一杯飲む? と言って左手を差し出した。頼むわ、とうなずいて微妙な量だけが残っていたグラスを空にする。
グラスを両手に持って歩いていく新開のうしろ姿を見ながら、あいつにも彼女ができたらこうやって水とかお茶とか取りに行ってやんのかね、と思った。それはとても愉快な想像で、新開は年上とかすこしきつめの子のほうが合いそうだな、なんて勝手なことを考えてちょっと笑った。
「あ、なに笑ってんの靖友」
「別にィ」
あんがと、と言いながらグラスを受け取る。左手で椅子を引き再び座った新開がそうだ、と口を開く。
「こないだメールで写メ送っただろ」
「あ、あれ返さなくてわりい」
今更だけど、と続けると、いやそれはいいんだ、送りたかっただけだし、と新開はなんでもないことのように首を振った。
「一度靖友の色だって思ったら、ああいう系統の色、そうとしか思えなくなった」
「あれさー、思ったんだけど、ビアンキあれよりもうちょっと青がつよくね? けっこう緑だよな」
「まあそう、靖友のはもっと全然水色に近いんだけど、ああいう色のビアンキも確かあって」
「そうなんだァ」
「で、連想ゲームみたいに、靖友だーってなってさ」
ビアンキ、靖友。短すぎる連想ゲームである。
「もともと福チャンのなのに」
「そうなんだけど、なんか、オレのなかではもう靖友のなんだ」
でさ、と会話を本筋に戻しながら新開が身を乗り出した。
「そのせいで、オレ、将来彼女とか奥さんとかできても、あそこのやつプレゼントできなくなっちまったんだけど! どうしてくれんだよ!」
「ハァ? なんで」
わけがわからない、と思いながら新開が取りに行ってくれた二杯目に口をつける。先ほど新開の仮想彼女のことを考えていたのですこしどきりとしたものの、ばれてはいないらしい。
「だってオレのなかじゃもう靖友の色だってなっちゃったんだぜ? 買いに行ったとき、ぜってえ靖友のこと思い出すよ、オレ」
飛び出た予想外の言葉に、たっぷり三秒。荒北の頭はその意味を処理するのに三秒かかって、そして荒北は弾かれるように、あっはっはと大声で笑い始めた。
「靖友!」
「いや……っ、おま、ちょ、うそだろ……っ、やべ、涙でてきたんだけど」
目じりに涙をにじませながら笑う声は震えていて、うつむいた荒北の頭を、新開は心外だとでもいうように力任せにかきまぜた。
「ヤメロ首とれる!」
「とれねえよ!」
気がすんだ新開がぐわんぐわん揺れていた荒北の頭を解放すると、荒北は余韻のように笑って身を震わせながら、浮かんだ涙を指先でぬぐった。
「はー、やべ、ちょう笑った」
「ひどいぜ靖友、真剣なのに」
「いやほんと、新開、おまえ最高だなァ」
深呼吸をして笑いの余韻をかなたへ押しやりながら荒北が言うと、新開はきょとんと何回か瞬きをし、それから、頬杖をついていた左手を荒北のほうへとのばしてきた。
「じゃあさ、もういっそ靖友が責任とってくれればよくねえか」
「悪さすんじゃねーよバァカ」
荒北の右手の甲にふれようとした新開の手を、そう言って笑いながら、ぺちりと左手ではたく。荒北の右手にはふれることなく新開の左手はテーブルに再び落ち、新開は心底嬉しそうに笑った。
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