#81d8d0 - 3/5

 つい最近十月が始まったような気がするのに、いつのまにかハロウィンなんていう日本の文化にいまひとつ定着しないイベントも終わり、十一月になり、気づいたら今週末にはもう半分が終わってしまう。カレンダーを見て、荒北はうわあ、と声に出して呟いた。このままではあっという間に十一月が力尽き、十二月も息絶え、一月になって談話室で箱根駅伝を見ているうちにセンター試験になってしまう。これはまずいぞ、と思いながら荒北はもう一度、自分しかいない部屋で呟いた。
「うわあ」
 今日学校で返却された約一ヶ月前の模試の成績は、あまり芳しくなかった。なぜ模試というものは忘れた頃に返ってくるのだろう、と思う。指数関数的に解ける問題の難易度も解く速度も上がっているとはいえ、やはり実戦の結果以上に指標になるものはない。これでは今の自分がどのあたりにいるのかわからないではないかと思い、小さく舌打ちをしてから成績表を封筒の中に戻した。
 シャープペンシルを手に取り、参考書を開くものの全然身が入らない。なんだか興がそがれてしまったような、そんな気分だ。こんなときはいくらやってもしょうがないとさっさと今日の勉強は終わりにすることを決め、簡単に机の上を片付けた。決断は早いタイプである。
 ぐぐ、っと伸びをしてから財布と鍵だけをスウェットのポケットに突っ込み部屋を出た。のんびりと歩いて談話室へと行くと、夕食後とはいえほどほどに時間はたっており、かつまだそこまで遅くない時間だったのであまり同級生はいなかった。いまごろみんなは部屋で勉強しているか、誰かの部屋で話すなりゲームをするなりしているのだろう。
 下級生のグループがいくつか、ちょうどいいくらいの音量で話しているのを聞き流しながら端に置かれたソファに座った。ぼんと足を前に投げ出し力を抜いてソファに沈みこむ。なにか持ってくればよかったか、とも思ったが、いまさら立つのも億劫である。結果なにをするでもなく、ただぼうっと雑談と雑談の混ざりあったノイズを聞きながら、天井を見上げていた。
 そのうちにだんだんと意識がふわふわとしだし、知らない間に眠ってしまっていたらしい。ゆっくりと目を開けると自分の両足が一番最初に見えた。天井を見上げていたはずだが、いつの間にか下を向いて寝ていたようだ。首を動かそうとすると凝り固まっていてギチギチと痛んだ。
「あ、起きた?」
 痛む首を左手で押さえながら声のしたほうを向くと、隣で新開が本を読んでいた。いつの間にきたのだろうか、そんなことを思いながらぼんやりと新開を見ていると、あれ、まだ頭起きてない? なんて見当外れのことを言って笑った。
「新開だ」
「おう、オレだぜ。おはよ、靖友」
「……いつからいたのォ」
「んー、三十分くらい前?」
「いま何時?」
「十時ちょっと前かな」
「あーまじか……」
 十時前となると、小一時間は寝ていたということになる。人のいるところで自分がそんなに長い間、起きることなく寝ていたというのはにわかには信じがたい。
「オレ一度も起きなかったわ……気づいたら寝てたし」
「ほんとか? めずらしいな。やっぱ疲れてるんじゃないか?」
「んー、そうかもネェ」
 新開の言うとおり、自分ではそんなつもりはなくとも疲れは蓄積しているのかもしれない。頭のなかで東堂が、だからそのやり方はよくないと言ったではないか! と仁王立ちしながら叫んでいる。確かにそうかもなあ、と心のなかで呟いた。頭のなかの東堂は、ぽかんと口を開けて目を丸くし、わ、わかればよいのだ……と呟いてしゅるしゅると消えていった。
 新開の大きな手が文庫本の一番最初のページを開き、右手の親指と人さし指ではさまれていた焦げ茶色の紐を抜き出す。あの紐もしおりと呼んでいいのだろうか、なんて、どうでもいいようなことを考えながら、新開の手の動きをぼんやりと視界にとらえていた。左手の人さし指をはさんでいたページを開き、しおりをわずかに引きながらスッと差し込み、閉じる。流れるような動作だった。もう何度も、いや何度なんていうレベルではなく繰り返してきた動作なのだろう。新開が推理小説が好き、というのはなかなかに意外性のある事実だと荒北は思っている。そして好ましい。
「それも推理小説ゥ?」
 首に添えていた左手を外しながら問うと、新開はちらりと荒北を見て、それから手元の小説に視線を戻して、いや、恋愛小説、と言ってから、たぶん、とつけ加えた。
「たぶんってなんだよ」
「短編集なんだ。恋愛がらみのがほとんどだけど、なんていうか、それだけじゃないっていうかさ」
「ふぅん」
 荒北がそう言うと新開は少し身を乗り出して小説をローテーブルに置き、荒北と同じように足を投げ出して背もたれにからだをもたれかけ、ソファに沈んだ。
「新開ってさぁ」
「んー?」
「恋愛小説も読むんだネ」
「んー、あんまり読まねえけどな。たまに」
「おもしれえの?」
「おもしろいよ。なんか、たまにウッてなる」
「なんだよそれ」
「こう、なんていうかさ、痛いところ突かれるような、そういう感じだよ」
「へえ」
 わかるような、わからないような。荒北が曖昧にうなずくと、新開はふっと綻ぶように笑った。
 コチ、コチ、コチ、コチ、と一定のリズムで時計の秒針が進む音が響いている。これ聞いていたらそりゃあ眠くなるだろうな、と思いながら、二人の間に会話はない。いつの間にか談話室にいるのは荒北と新開だけで、時おり風呂上がりの者が廊下をぱたぱたと歩いていく音だけが聞こえる。二人は廊下を背にして座っているので、音と気配しか感じない。目に入るのは自分の足と新開の足、ローテーブルに伏せて置かれた文庫本くらいだった。
「靖友」
「んー」
 名前を呼ぶ。こたえる。新開は言葉をつがず、荒北はなにも言わない。コチ、コチ、コチ、コチ、時計の音が、まるで鼓動と同じようなテンポで響いている。
 足の間でゆるく組み合わせていた両手をほどき、指先だけで合わせた。向い合わせの一組ずつくるくると回転させていく。ぎこちなく左手の薬指と右手の薬指をおいかけっこのように動かして、推定十回転させたところでやめ、だらりとソファに手を落とした。からだの横に投げ出された左手と、太もものうえにある右手。いま何時なのだろう。何分たったのだろう。コチ、コチ、コチ、コチ、等間隔の音が眠気を誘って、ほどよく疲れた頭がふわふわと浮かび上がっていく。
「ねむそうな顔してる」
「これ眠くなんね?」
「なるなる」
「オレさあ」
「んー」
「新開が小説好きって、けっこういいと思うぜ」
「えっ」
「んー?」
 驚いた声に驚いて、荒北はしかしあくまでのっそりとした動きで左を見た。新開は背もたれからすこしからだを起こしていて荒北をじっと見ていて、けれど荒北と目が合うとすぐさま目をそらし、ゆるゆると再びソファに沈みこんでいった。ピンと伸びていた背筋が猫背になる。糸がたわむみたいだ、と荒北は思いながらそれを見ていた。
「そっかあ……」
「んだよ」
「いやさ、靖友がほめてくれるのなんてめずらしいからさ、びっくりした」
「ほめてんのかあれ」
「そうだろ」
「そうだったのか」
「オレがそう思ったからな」
 視線を新開から外し、ローテーブルに伏せられた小説を見つめる。表紙が下にされて置かれているから、作者も題名もわからない。数行のあらすじと、葡萄のマークだけ。目がいいからか、小さな文字で書かれたあらすじも難なく読めた。ふうん、と思いながら隣の新開を横目で見やる。新開は、締まりがないのともすこし違う、幸せでたまらないというような顔をしていた。ニヤケヤロウ、とも違う。なんていうんだろう、こういうの、と荒北は考えるけれど、うまく言い表す言葉は思いつかなかった。
「靖友ー」
「んー?」
「なんでって、聞いていい?」
「まわりくどい」
「じゃ、教えてよ、靖友」
「んー、」
 好ましいと思ったのは確かだ。しかし理由、といわれると答えに困ってしまった。なんというか、そういう、明確に言葉にできるものではないのだ、そう思いながらんーとかあーとか曖昧な音を発して、沈黙の隙間を時計の音が埋めている。
「なんつーかさ」
「うん」
「理屈とかじゃなくて、なんかそう思ったんだよ、そんだけ」
「直感的な?」
「あー、んー、たぶんそんなやつ」
「なるほどなあ」
 新開は組み合わせた両手を裏返してぐぐっと前に押し出し、靖友のそういうのはあたるからなあ、やっぱうれしいなあ、と言ってからへへっと照れたような声をもらした。
「なんかオレがはじいんだけどォ」
「だってほんとにめずらしいだろ?」
「必死かよ」
「必死だよ」
 茶化すように発した言葉に、笑い混じりながらも思いのほか真剣なトーンで返されて、今度は荒北が驚く番だった。先ほどの新開のようにわずかにからだを起こして新開を見る。けれど新開は真剣なトーンなんてもうとっくにどこかに引っ込めてしまっていて、いつものようにへらりと笑いながら首をかしげて靖友? とまた名前を呼んだ。
「……変なやつゥ」
「なんだそれ」
「オメェのことだよォ新開」
「あはは」
「あははじゃねえよ」
「ふふっ、うん」
 変なやつゥ、ともう一度言うと、新開は緩めていた両手をもう一度ぐぐぐっと前に押し出し、長く息を吐き出した。
 ぱたり、と新開の両手が新開の太もものうえに落ちる。それから、後ろに手をついてすこしからだを起こす。よいしょ、と小さく声に出しながら座る位置をわずかに前にして、また背もたれにからだを預ける。新開の右手が、からだの外側に投げ出される。
 コチ、コチ、コチ、コチ、どこかあたたかい音と、ゆっくりと息を吸ったり吐いたりする二人ぶんの音、それらが混ざりあってすこし冷えた夜の空気に溶けていく。
 予感、めいたものは。いまのいままでまったくなかったかもしれないし、とっくの昔からずっとそこにあったのかもしれない。
 だから、新開が右手を伸ばして手の甲の上から押さえるように荒北の左手をつかんでも、荒北は驚くほどに驚かなかったのである。それどころか、大きい手から伝わる高めの体温を夜中に入る湯船のように気持ちいいとすら思った。当然あるはずの驚きとか戸惑いとか動揺とか、そういったものは一切なりを潜めてしまって、読みかけの本にしおりをはさむような、そういう当然の流れとして、荒北はつかんできた新開の右手を受け入れていた。
 手がふれてから二回、秒針の音がしたとき、荒北はぐるりと左手首を返して自分からも新開の手のひらを握った。手のひらと手のひらが合わさるようになったことでわずかに隙間が生まれる。秒針の音、一回。新開の指が荒北の指の間にすべりこんでくる。それを握り返す。手と手の間をできるかぎり埋めるように、何度も、何度も、角度を変えながら互いの手を握りあう。そこに性急さはひとかけらも存在していなかった。秒針の音と、トク、トク、と脈打つ鼓動のリズムと同じ、そういうゆったりとしたテンポで手を離してはつなぎ、離し、またきゅっと力をこめる。左手の指先が、右手の指先が、まるで心臓が移動してきてしまったかのように脈打っている。
「あれ、荒北さん、新開さん?」
 どれくらいそうしていたかわからないころ、背後から声をかけられて振り返った。黒田だった。
「黒田ァ」
「なにしてんすか」
「うーん、ぼーっとしてた、かな」
「はあ」
 なんともいえないような顔をした黒田の髪はわずかに濡れている。後輩と話しているのに、二人の手はあいかわらずつながれたままだった。
「黒田は風呂上がり?」
「はい」
「髪、まだ濡れてるぞ。風邪引くなよ」
「その言葉そっくり返しますよ。荒北さん、スウェットだけだと風邪引きますよ、一応受験生でしょう」
「下にシャツ着てっからァ」
 てか一応ってなんだよ、と荒北が声をあらげると、黒田は面倒なことになる前に退散、といったかんじですいませーんと間延びした声を投げてよこした。
「んじゃオレ部屋戻るんで。おやすみなさい」
「おやすみィ」
「おやすみ黒田」
 ぺこりと頭を下げた黒田を見送り、ソファの上へと視線を戻す。つながれたままの手。結局ほどかれることはなく、黒田がきたあとも、話している間も、そしていまもまだ、新開の大きな手は荒北の手のひらを包み込んでいる。
「……部屋戻ろうか」
「……ソウダネェ」
 そして、何事もなかったかのように同時にゆるゆると手をひっこめ、ソファから立ち上がった。のんびりと部屋に向かって歩いている途中会話はなくて、先ほどまで時計と自分以外の体温が埋めていた沈黙の隙間は、いまはなんとなくそろった足音だけがかろうじて埋めている。
 動揺なんてかけらもなかった。いやじゃなかった。むしろ心地よかった。さりげなくほどくとか、振り払うとか、どうしたんだよとかなんだよこれとか言うとか、当然そういうことのいずれかをするべきだったのに、しなかった。
(オレ、なにしてんのかなァ)
 ちらりと、隣を歩く新開の横顔を見る。明かりを背にして影になっているから、表情はあまりよく見えない。
 新開は、どういうつもりで荒北の手を握ったのだろうか。わかるような、そういう、そうすることが自然な空気だったような、でも、まったく見当がつかない。そもそも、明確な答えがあるのだろうか。これに。荒北にはまったくわからなかった。新開はわかっているのだろうか。答えを、知っているのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、先に荒北の部屋の前に着いた。
「じゃ、おやすみ新開」
「うん、おやすみ、靖友」
 右手をポケットにつっこんで鍵を取りだし、鍵穴に差しこんで、まわす。ガチャリ、音が廊下に響く。
「やすとも、」
「ん?」
 首だけを回して振り返ると、新開はうつむき、両手で顔を覆っていた。
「ごめん」
「……ごめんって、なにに対して謝ってんの?」
「えっ……と、ちょっかいだしたこと」
 なるほどこいつはあれをちょっかいというのか。そんな新開のことを、ついかわいいなと思いながら、ふわふわした頭のてっぺんを見つめる。
「……まあ、のったオレもオレだし」
「でも、先にちょっかいだしたのオレだし」
「別にいいからァ。謝んなよ」
「でも……」
 顔をあげた新開の瞳は揺れていて、荒北はがしがしと頭をかいてゆっくり、長く息を吐き出す。それをため息ととったのか新開の肩がびくりと震え、荒北は気まずげに目線をそらす。
「なんか、いやじゃなかったんだよネェ」
 そう言ってちらりと新開をうかがうと、新開はぽかんと口を開け、なんとも情けない顔をしていた。
「情けねぇ顔」
 思わず吹き出しながらその額にでこぴんをする。新開は情けない顔のまま両手で額を押さえ、靖友ぉ……と震える声で言った。
「いてぇよ」
「なあ、」
「うん?」
「なんであんなことしたのォ」
「わ、……」
「ア?」
「わかんねえ……」
 そうこたえた新開の顔が、本当に自分でも自分がわからないというような、そういう顔だったものだから、荒北はなんだか満足してしまった。それ以上なにも聞かなかった。喉のあたりまでせりあがって口まで出かかったけれど、新開ってオレのことすきなの、とは、聞けなかった。

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