おまえと桜は見ない

 天気予報が大げさに告げた降雪予想から遅れて五時間後、いつの間にか雪が舞い始めていた。明日は朝から晴れるという。温度もそこまで低くはないようだし、夜の間に止むだろう。今回の雪もきっと、積もることはない。
 一条がカイジの部屋にするりと転がり込んできてから、惰性のように数ヶ月が経とうとしていた。二人が不意にばったりと出くわしたのは年末商戦まっただ中の頃だったから、もう少しで二ヶ月か。予想を裏切って、一条は四畳半でのその日暮らしにあっさりと適応している。慣性の法則が働いたように、だらりと、淡々と。
 風呂場のほうからギャッとひどい声がした直後、一条の罵声が飛んだ。さすがに何事かとカイジが駆け寄り勢いよく扉を開けると、タオルにくるまって身を縮みこませていた一条が振り返り、すかさず「バカ!」と叫ぶ。
「水しか出ねえ! ちゃんとガス代払ったか!?」
「は……、払った! お湯出ねえの? マジ?」
「シャワー出しててもあったかくならない。本当に払ったんだろうな?」
「本当だよ、競馬でちょっと勝ったときだったから本当だって」
 一条は深々とため息を吐いてから、邪魔、と呟いて持っていたシャワーヘッドをカイジに押し付けた。狭い入り口ですれ違い、忌々しげな舌打ち。とにもかくにももう一度服を着直す一条から目を逸らして、ズボンの裾をまくり上げて風呂場にしゃがみこむ。試しに何回かシャワーを出したり止めたりを繰り返してみるが、頑として水しか出てこない。シャワーから蛇口に水の出し先を変えてみても、勢いよく捻るたびにキュッと高い音が鳴って冷水が出てくるのみ。
「マジで出ねえ」
「悪あがきしても?」
「悪あがきしても。これ給湯器かな……、はああ、勘弁してくれよ……」
 うなだれつつ諦めて立ち上がる。足の裏が冷たい。足掻く様子を一条も後ろから覗き込んでいたらしい。すっと体を引いた。
「……とりあえず銭湯行くか」
「……雪だけど?」
「しょうがねえじゃん、このままじゃ寒いし……」
 伺うような視線に根負けした一条が仕方がないなと呟くと、カイジの表情が一瞬で明るくなった。単純なやつ。雪が反射して、窓の外がぼうっと光っている。

 銭湯は歩いて十五分ほどの距離にある。舞う程度の雪とはいえさすがに傘をさして向かったのだが、久しぶりの大きな風呂を堪能している間にあっさりと止んでしまったらしい。帰路はすでに不要になり、ただの荷物になっていた。
「止むの待ってから家出ればよかったな」
「まあいいだろ、強まってきたら困ったし」
 ガードレールや寂れた公園の遊具だけが、うっすらと白くなっている。一条は足を止めて、薄く砂糖を振ったような滑り台を見つめる。口では雪が強まったら困ると言ったくせに、その横顔はどこか残念そうに見えた。
「雪、好きなのか?」
 数歩後ろから声をかける。振り返ったその目にはわずかな驚きが滲んでいた。
「なんで」
「積もってなくて残念そうに見えたから」
「迷惑なだけだよ、雪なんて」
 自嘲気味に呟き、しかしふっと表情を緩めて笑う。
「でも、そうだな、昔は好きだった」
 懐かしむような視線。その先に思い出しているものを、カイジは知らない。
 なんで一条は自分といるんだろう、と唐突に思うことがあった。そうしたことはこれまでも何度かあって、そういうときの一条は、決まってここにはいない誰かを視線の先に見つめている。それは過去の彼自身なのかもしれないし、そのとき隣にいた誰かなのかもしれなかった。
(一条のこと、よく知らないな)
 寝食を共にしてみても、所帯染みたやり取りに予想外に違和感がなくても、それらはいつでもどこか現実味がない。カイジにとってはあの日、沼を介して対峙していた一条のほうこそが鮮烈なのだった。
「なあ」
「ん」
 聞きたいことはいくつもある。どうやって地下から戻ってきたのか、どうしてずっと出ていかずに、今もここにいてくれるのか、なんで帝愛なんかに入ったのか、どういう風にあのカジノの店長になるに至ったのか。どうしてあの日、苦し紛れに捻り出した「……ウチ、来る?」という誘いに、頷いたのか。
 それでも、聞いたら答えてくれるようなやつでもない。本当は自分が何を一番聞きたいのかもわからず、カイジは結局、寒いな、とだけ呟いた。
 二人の謎の共同生活が今のところ上手く回っているのは、一条がカイジに許す「ここまで」という一線をカイジがちゃんと守っているからに過ぎない。そこを無遠慮に踏み越えたら最後、きっと自分は完全に切り捨てられるだろう。一条は約束どおり戻ってきた。満を持して一条がカイジに再戦を挑むとき、どれほどの興奮が得られるか。紙一重の勝利と破滅。それらがなくなるのは、困る。
 呼び掛けておきながら当たり障りのない言葉でお茶を濁したカイジを、一条は肩越しにつまらなさそうに見つめた。まだ僅かに湿った髪が風に揺れる。
「髪、やっと前みたいにきれいに戻ったよな」
「やめろ、気色悪い」
「ほめたのに……」
 再会した頃の一条の髪はバサバサと傷んでいた。それはそうだろうとかつての地下での劣悪な環境を思いつつも、小綺麗にしていた姿が印象に残っているがゆえに何とも言えない気持ちになったことも確かだった。口では気色悪いと言いつつ、言葉の端に笑みが滲んでいるのが、カイジには嬉しかった。
 ふと、何かに気づいたように一条が顔を上げた。
「これ、桜か?」
「ああ、うん。満開になるとけっこうきれいなんだよなあ」
 ぶわーって花吹雪みたいになってさ、と呑気に言いつつカイジが一条の隣まで距離を詰める。
 桜。もうずっと東京にいるのに、何年経っても、思い出すのはあの部屋から見ていた桜ばかりだ。
「……四月にはここで花見してもいいかもな」
 大きな枝を見上げながら、ふと、一条の口からそんな言葉が転び出た。じゃあビール買ってとか言うかなとカイジの言葉を待ったが、待てど返事はこない。気になって桜から隣へ目をやると、カイジは何も言わず、ただじっと静かな視線を一条に向けていた。
「……なんだよ」
 奥底まで見抜こうとするような目に耐えられず、思わず言った。カイジの表情が躊躇うように揺れて、それから、ゆっくりと口を開く。
「あのさ、ずっと気になってたんだけど」
 一条が何かを懐かしむような目をするとき。その先にいるのは、自分ではない。これまでも、この先も。
「主任とは連絡取ってんの」
「……それを、おまえが言うのか」
 一瞬で一条の表情が歪む。苦々しげに、言う。

 なるほど一条にとって、カイジの隣は息がしやすい。それは自分達の間に、裏切りや失望が生まれるほどの積み重ねがないからだ。なんの積み重ねもないまま、いきなり本質に触れてしまったような関係だ。そもそもがゼロなのだから、こうして惰性じみた生活を同じくしたって何も生まれないし、その先に何かを失うこともない。だってもう、一条は失ったのだから。
(わかってる。本当はただ、村上に会うのが怖いだけだって……)
 村上はそんなやつではないとわかっている。それでも、彼を知らない年月が、果たして本当にそうなのかと囁く。地下に送られたのは自分だけだったが、村上にもそれ相応の処分が与えられただろう。それなのに、どんな顔をしてもう一度村上に会えばいいのか。そう思うと、探そうとするだけでも足がすくむ。
 村上をこの地獄に引きずり込んだのは自分だ。覚悟はしていても、失望を、侮蔑を、拒絶を、いざ眼前に突き付けられたら、自分は。

 黙ってしまった一条の横顔を見つめる。自分が話題を振ったくせに、カイジは気まずさを紛らわすように首の後ろに手をやった。
「主任は一条のこと探してんじゃねえの?」
「わかんねえだろそんなの……」
「なんで?」
「は?」
「付き合い長いっぽかったじゃん。あのあと、オレ、『おまえになんか言われなくても一条さんは必ず戻ってくる!』って言われたし」
「はあ!?」
 思ったより何倍も大きな声が出て、夜の公園にわずかに反響した。そんなの。そんなこと。
「そういうことはもっと早く言えよバカ!!」
「ええ~~……」
 勢いそのままにカイジに掴みかかったが、気が抜けて脱力して、ずるずるとしゃがみこむ。カイジがおろおろと動揺しているのがいい気味だった。
「そうだ、おまえはそういうやつだったよな……」
 こちらの都合など一切お構いなしに、嵐のように全てを薙ぎ払って全てを奪いもすれば、ただただ与えもする。底抜けに人が良くて人を信じることにてらいがない。何度も騙されているくせに、何度騙されても。
 あのとき、オレたちの日々を一気に飛び越えておまえだけが掛けた言葉が、その後の数多の苦境においてどれほどオレを支えたか。何も知らないくせに、何も知らなかったくせに。たった数日、事故みたいに人生が重なっただけのおまえが。
 ずっと、自分だけの何かが欲しかった。きっとずっとそれだけに突き動かされていた。がむしゃらに働いて働いて、なりふり構わずに走り続けて、全てを失って文字通り突き落とされたその先で、最後に自分の手に残ったもの。
 この絶望も希望も、よりによって、同じ存在からもたらされたことなど。おまえにだけは知られたくない。おまえだけは、そんなこと、知らなくていい。
「い、一条?」
「バカバカしすぎて涙も出ねえ」
 はああ、と深く息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。花芽はまだまだ見えない。
「帰るか」
 すっきりとした表情で一条が言った。カイジには何がなんだかわからないままだったが、機嫌が良さそうなのでまあいいかと思いつつ、頷く。再び歩き始めた二人の後ろで、ブランコの金具が風でこすれる音がした。
「一条、機嫌直った?」
「まとわりついてくる犬みたいだなおまえは」
 まあ、と言葉を切って、一条は小さく笑った。
「あったかいコーヒーでも買ってやる」
「いいの? やったー」
「その代わりちゃんと給湯器直せよ」
「グッ……」
 並んで家路につく。増やしてくるから軍資金貸してと戯れに言ってみれば、手加減なしの強さで尻を蹴られた。
 花見でもしてみるかと口では言ったって、きっと自分たちが並んで桜を見る日はこない。同じくらい、延長線のようにずっとこうして暮らしていくような気もする。今こうして並んで歩いているのは、積み重なった偶然のいたずらにすぎない。
 だからこそ、とカイジは思う。もし朝になって急にいなくなっていたとしても、自分はきっと一条を探さない。ああそうかと、来るべき日が来たのだとそのまま受け入れるだろう。結局自分たちは同じ穴の狢で、安寧の日々のなかにただ留まっていることはできないのだ。だってもう、あの熱を知ってしまった。知らなかった頃にはもう戻れない。
 だからこそ、一条。何も言わずに出ていってもいいけれど、もしそうするのなら、その代わり。体の芯が震えるほどの緊張を、息苦しいほどの高揚を、どうかもう一度、オレに与えてくれ。おまえが削る命の火花を、魂の刹那のきらめきをちゃんと見届けるから。
 きっと自分は死ぬまで、どちらかの息の根を止めるような勝負を止められないだろう。おまえもそうじゃないのか、と思うし、そうであってほしいと、きっと願ってもいる。
「一条」
 名前を呼ぶ。
「どうした、カイジ」
 数歩先で一条が立ち止まり、振り返る。穏やかな表情。何気ない、幸福と言っても差し支えのない日々。
「コーヒーよりおでんがいい」
「わがまま言うな。帰るまでに冷める」
「歩きながら食べれば」
「じゃあ肉まんにしろ」
 こうしてやり取りを重ねても、自分たちがずっと一緒に隣を歩くことはない。それでいい。この日々を手放すとしても、死線を越えたその先で最後に向かい合う相手は、やっぱりおまえがいい。

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