バルカの空は星に埋め尽くされている。牢の窓からも見えていた星空を、こうしてあらためて見上げている今の状況に変な気分になる。うつくしいね、と乃木がつぶやく。人工的な光のない夜なのに、隣に座って天窓を見上げるその横顔は、ほのかに明るい。
何度も隣で見てきた横顔。視線に気づいた乃木が黒須へと向き直り、微笑む。完璧な微笑だ。相変わらず。
いつだったか乃木に尋ねたことがある。助手席の彼は、声色にわずかばかりの困惑を混ぜながら、もう少し詳しく、と言った。東京の空に星は少ない。代わりに、街灯とビルの電気がきらきらと窓の外を流れていく。
「乃木さんって表情の作り方がすごく上手じゃないですか。違和感もわざとらしさもなく、瞬時に状況に応じた完璧な顔をされるので」
「そうかな」
「はい。いつもすごいなと思ってます」
黒須としては常日頃から思っていることなのだが、本人には今一つその自覚はないらしく、頷きなのか疑問符なのか曖昧な声を漏らした。赤信号に変わる手前、ゆっくりとブレーキを踏み込む。きれいに舗装された日本の道路はとかく走りやすい。エンジン音のかすかな振動が夜にこだましている。
「表情か。どうやっているか……いざ言われると難しいね。感覚的なものだから」
ちらりと左を見やると、乃木はミラーに映る自分の顔を見ているようだった。変な話を振ってしまったなと思いつつも、気になっている点ではあったので問いを重ねる。
「本当に最初の頃は、乃木さんも練習とかなさいましたか」
言ってから、このひとに練習って言葉は似合わないなと思った。誰にだって初めてこの任についたときがあり、訓練と鍛練と修練を重ねて今に至っているのだと頭ではわかってはいても、想像できるかというと話は別になる。自分の遥か先を行く乃木は、どこまでも完璧な存在のように思えた。完璧な存在なんてどこにもいないことはわかっており、そのうえで、完璧な存在であるようにこちらに感じさせる乃木のことを、心から尊敬している。
そんな心中を知ってか知らずか、乃木はフラットな声色でそりゃあねと答えた。
「誰だって最初からなんでもできるわけじゃないよ」
「乃木さんは最初からなんでもできそうです」
「買いかぶりだよ、さすがに」
ふふ、とひそやかに笑うと、乃木は流れるようにミラーから黒須へと目線を移した。不意に合わせられた瞳に、街の明かりが映りこんでオレンジに光る。吸い込まれそうで、呼吸のリズムがかすかに狂う。
視界の端で、交差する車線の信号が点滅している。
「……」
目を逸らし、サイドレバーを引きアクセルを踏む。滑らかに発進した車内、今度は隠すことなく声を揺らして乃木が笑った。
「確かに改善の余地ありだな」
「……自覚はあります」
「ならいい」
乃木さんだからですよ、と瞬間よぎった言葉を振り払う。他の誰かなら視線を合わせたくらいでは動揺などしないが、それはただの言い訳だ。ハンドルを握り進行方向を見つめる横顔は先ほどまでよりも幾分か固い。乃木はじっと黒須を見つめるも、そんな後輩の様子には触れることなく、正面に向き直ってから口を開いた。
「表情は他者の受け取り方次第だから、作り込みすぎないほうがいい。不自然になる」
「はい」
「どちらかというと寄せるのは感情のほうかな。それなら、見られる角度にかかわらずどうにでもなるから」
「わかりました」
「いまの交差点。右から左に抜けたのは」
「黒あるいは濃紺の軽。運転手は女、助手席に高校生らしき娘がいました。その後右に車線変更」
「よし」
必要十分な回答に乃木が満足げに頷くと、ようやく黒須の空気がわずかに緩んだ。
「ちゃんと見ることもできているし、十分だよ」
「いえ、精進します」
黒須の、こういう素直な若者らしさを、乃木は好ましく思っていた。ひた向きで真面目。彼が自分を慕ってくれていることは言葉や行動の端々から伝わってくるが、どうしてここまで自分のことを、と不思議に思うことも多々ある。雛鳥の刷り込みのようなものかもしれない。ときに無防備に向けられる信頼。対象は自分であるとわかってはいても、そのまぶしさを、どこか他人事のように見ている。
「黒須は素直なんだな」
「それ、あんまり良くないやつですよね」
黒須は表情に出やすいことを指摘されてると受け止めたらしい。眉が寄る。自分が至らないとでも思っているのだろう。そうじゃなくて、と乃木が言葉を継ぐと、黒須は少し首をかしげながらも黙って言葉の先を待った。
「きみの素直さは長所だと思うよ。自己評価も適切。だから飲み込みも上達も早い」
「ありがとうございます」
「それに、表情に出やすいと言ったって、別に気になるほどのものではないよ。むしろ嘘っぽくならないのがいい。これは上官としての評価」
「恐れ入ります」
簡潔な返事。ほとんど他者との接点を持たないままマンツーマンで訓練と実戦を重ねていく自分たちは、関係の名前が曖昧だ。明確に階級という線が引かれる上官と部下、先達として持てるものを伝えていく先輩と後輩、互いに命を預け合うバディ。信頼関係がなければこの常に綱渡りの任務を共にこなすことなどできない。
黒須は当初から、適切な応答をするのが絶妙に上手かった。部下として従順であり、後輩としてあらゆるものを吸収しようとする爽やかな貪欲さがあり、いつだって変わらぬ強固な信頼を乃木に寄せながらも、ふとした会話では気安さをにじませる。
上官としての言葉には、部下として厳粛に。先輩としての言葉には、問いを重ねて自らの糧に。そして時折、人懐っこい笑顔を向ける。
「それに、僕個人としても、きみとは本当に仕事がしやすくて助かってるよ」
ちょうど、こんなふうに。嬉しさを隠すことなく一瞬破顔した黒須は、しかしすぐに表情を引き締めた。
「いえ、まだまだです。もっと先輩の役に立てるようになりたいので」
煌々と光る街は、人が平和に生活している証だ。目的地が近い。トンネル。逆光になって、黒須の横顔がよく見えなくなる。
「でも、嬉しいです、ありがとうございます」
柔らかい声。こちらの意図を過不足なく汲み取り、かといって言語化による認識の共有も怠らない。好意を素直に受け取り、感謝で返す。乃木のことを実情以上に慕い、まっすぐに追い掛けてくる。
黒須はよくできた男だった。
――そんな関係だったから、知らないうちに胡座をかいていたのかもしれない。その態度に、言葉に、信頼に。名前を呼ぶだけで、呼ばれるだけで通じる関係は心地よかった。そんなもの、砂上の楼閣だったのに。
バタンと音を立てて扉が閉まる。ノコルとピヨの足音が遠ざかっていき、沈黙が流れる。静寂。ここには空白を埋めてくれるエンジン音はない。
黒須が掴みかかってくれてよかった、と思った。感情をぶつけてくれなかったら、どうしたらいいかわからなかっただろう。話をするべきだと痛いほどわかっていたが、何から切り出せばいいかわからなかった。こんなことは初めてだった。
「……肩はどう」
結局、乃木が呟いたのは気の効いた言葉とは程遠かったが、それでも何も言わないよりは遥かにましだったらしい。黒須は安堵の表情を浮かべて、経過はだいぶ良いです、と答えた。
「両利きで助かりました」
空気が張りつめている。割れそうで割れない風船のように。今さら眼前に突きつけられた緊迫は耐えがたく、あえて茶化すように言うと、乃木もふうっと息を吐き、小さく微笑んだ。
「先に、これまでの情報共有をしよう」
「はい」
入り口を背に左側に置いてある椅子に座るのかと思いきや、乃木はゲルの中央に立ちくるりと振り返った。
「天窓から星がきれいに見えるんだ」
そう言って床に座りこみ、天窓を見上げる。明かりの落ちた部屋を春の闇が満たしていた。液晶の青白い光も今はない。どこに腰を下ろすか瞬間迷ったが、ほかの選択肢は決め手に欠けて、黒須は乃木の隣に同じように座った。座って見上げる天蓋は実際よりも高く見えて、確かに天窓を埋め尽くす星はうつくしかった。
「うつくしいね」
乃木の声が静かに空気を揺らす。先ほどまでの、道に迷って立ち尽くす子供のような表情はもう影を潜めてしまった。いつもと同じ、柔らかく静かな微笑み。空を見上げる横顔を見つめる。そうですね、とだけ答えた。
それから、太田に連絡をするにしてもまずは認識を統一しようということで、約一ヶ月の間にそれぞれの身に起きたことを手短に開示しあった。任務の一環としての会話は淀みなく、摩擦もなくするすると進んでいく。
「……では、太田に連絡します。まずはノコルとムルーデル社ですね」
「頼む」
「了解」
立ち上がり、パソコンの電源を入れると強烈な明るさが目にしみた。瞬きでやり過ごし、久しぶりに打つキーボードの感触にかすかな違和感を感じながら、中腰で彼女へメールを書く。送信。一分もたたないうちに、了解の返信が届いた。
「はや」
思わず、苦笑混じりの声が漏れた。電子に変換された言葉はタイムラグなく距離を越えるというのに、すぐ目の前にいる自分たちはずっと言葉を探している。しないといけない会話はこれでもう終わってしまった。この夜がどこに向かうのか、全く見当もつかない。とりあえず、目の前を埋めるように口を開く。
「返信届きました。判明次第乃木さんにメールするようです。……乃木さん?」
画面から視線を上げると、乃木はじっと黒須を見つめていた。その視線は相手を見透かすようなものではなく、静かに海の底を覗き込むときのもののように思えた。
「黒須」
「はい」
名前を呼ばれる。続く言葉がわからない。乃木は視線をさまよわせてから、開きかけた口を一度閉じ、それからもう一度、ゆっくりと黒須に視線を合わせた。
「もう、今を逃したら機会はないと思うから、あえて蒸し返すよ」
静かな、それでいて強固な意志を感じる声。判決を待つかのように、意識のすべてが引き付けられて、離れない。
「なんでもいい。僕に言いたいこと、全部ぶつけてくれ」
理解はしても、納得はできないこと。頭ではわかっても、心では許せないこと。そういう綻びはいつか必ず大きな溝になる。組み換えを望むなら勿論自分からも上申するが、すまないが今すぐというわけにはいかない。まずは、バルカとテントのこの正念場を越えなくては。
乃木はいつものように静かな瞳で淡々と言葉を重ねたが、だからこそ、つとめてそうしているのであろうことが伝わってくる。電流が流れるように、指先がかすかにしびれる。
ああ、乃木さんはこういうひとだ。こういうひとだった。初めて会ったときから、ずっと。
「……では」
浅い呼吸をひとつ。先刻までの、行き先のわからない道を行くような心許なさはもうない。
「うん」
「まず、隣に座ってもいいですか?」
「え? ああ、もちろん」
乃木は拍子抜けした声を漏らして、それから慌てて頷いた。パソコンは立ち上げたまま、スクリーンの明るさを限界まで落とす。乃木の左隣まで戻り、一瞬だけ考えて、なんとなく正座を選んだ。彼は変わらず体育座りだったが、正面から向き合う形に座り直してくれた。
「乃木さん、俺は、乃木さんに育ててもらいました」
できるだけ穏やかに聞こえるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。そういうことを思う時点でやはり緊張しているのだろう。自ら急所を差し出すようなことを言おうとしていることは自覚している。そしてそれが、きっと本当は別班員として望ましくないのだということも。それでも、黒須は言わずにはいられなかった。乃木と、自分たちの話がしたかった。
「撃たれてから今日まで、約一ヶ月。機を逃さないように回復につとめながら、これまでのことばかり考えてました。煮えたぎる感情をなんとか抑えて、冷静に、いつも通りに、って」
乃木は静かに聞いている。立てたままだった足首を寝かせると途端にブーツの違和感が大きくなり、失敗したなと思う。彼がそんな身動ぎに気づかないわけもなく、固くなっていた表情をふっと緩めて、足崩せば、と微笑んだ。意図を汲んでくれたのだろう。自分だけでなく、乃木も歩み寄ろうとしているのだとわかり安堵する。変わらず完璧な表情だが、さっきよりも、血が通った微笑みのように思えた。
「すみません。それで、そういうもの全部、乃木さんに教えてもらったんだって、改めて認識しました」
「全部」
「はい。果たすべき目的を見失わないこと、そのために何をすべきか、自分のコントロールの仕方、一瞬の判断を違えないようにすること。まあ、まだまだですけど」
「それは……」
「わかってます。でも、材料はちゃんとあった」
わざわざ眉間ではなく心臓を狙ったこと。二回も自分を殺し損なったこと。その特技。確かに震えていた指先と、頭に突きつけて躊躇いなく引いた、三回目の引き金。第三者に起きた事象への客観的考察なら、きっと思い至っただろう。自分のことはよく見えない。自分の表情を自分で見ることはできないように。
体の内側を焼き尽くすような怒り、その奥にあったのは、「よりによってあなたが、どうして」という悲痛な叫びだった。
「俺はそこまで至れませんでした。本当に裏切ったなら、乃木さんが何回も外すわけない。そんなことで、乃木さんの心が揺れるわけないのに」
「それは違うよ……」
弱々しく乃木が呟いた。視線が揺れる。
「あのとき、指が震えてた。黒須が避けてくれて、大丈夫だって思ってはいても、どれだけ安心したか」
「その次は思いっきり引き金を引いたのはそういうことだったんだって、ようやくわかりました。騙し絵でも見ていた気分です」
上手に嘘をつくには、本当のことも混ぜるといいとよく言われる。角度を変えれば目の前に立ち現れる真実。種明かしといえばそれまでだが、そのうえで、きっとあのときの言葉は確かに真実であったのだ。
「……俺は乃木さんのことをよく知らない。どんな思いで生きてきたかなんて知らなかったし、言葉で聞いたってわからない。でも、いまの俺を形づくったのも、やっぱり乃木さんなんです」
強固な意志も、誇り高い信念も、容赦のなさも、柔らかい笑顔も、氷のような視線も、迷子のような背中も、揺れる声も、全部。乃木さんだから信じてきた。乃木さんがそう言うから、信じた。裏切りの言葉すらも。
「絶対に殺してやるって言ったのは、本心でした。それはなかったことにはならない。でも、悔しくて憎くて、信じたくないのに本気なんだってわかって、もうわけわかんなくて、それでもやるべきことがあるから。そうやって、自分に言い聞かせるのは乃木さんが教えてくれたことなんですよ、もう、どうしようもないじゃないですか」
奈落のような牢獄で、共に過ごした年月が、かけられた言葉が、見てきた背中が、どうしようもないほどに自分の一部になっていると痛いほど理解してしまった。裏切られても、踏みにじられても。それでもなお、あの日々は、彼から受け取ったうつくしいものは、なくなることはないのだと。
それだけでも最悪だったのに、真意を語りながら自分を振り返ったその目は、紛れもなく自分のよく知る彼のものなのだった。まっすぐ射抜く視線も、駆け寄り添えられた手の温度も、自分の知るものから何も変わっていないのだと、否応なくわかってしまう。涙はとっくに行き場を失って、それなのに目の奥が痛い。ひどい話だ。本当に。
「だから、もう見抜けなくてもしょうがないって思うことにしました」
尊敬も信頼も憧憬も憎悪も慟哭もなかったことにならないなら、もう、仕方がないじゃないか。観念するように、降参するように、へらりと笑う。憑き物が落ちたような気の抜けた顔に、乃木が息を飲む。
「黒須……」
「だいたい、乃木さん、演技が上手すぎるんですよ。前も言いましたけど、本当に。今度からはもうちょっとわかりやすく嘘をついてください」
静まった空気をあえて混ぜっ返すように、一転、黒須が明るい声で言った。言いたいことは全部言った、これでおしまい。そういう合図。重たくなりすぎず、かといって軽くもしすぎない、絶妙なバランス。
そういうコントロールが、黒須は絶妙に上手いのだった。組んだばかりの頃から。
「人間ができすぎてるよ、君は……」
いつの間にか握りこんでいた指を開く。黒須は恐れ入りますと言ってにっこりと笑った。
その様子に、もう彼のなかで結論は出ているのだなと知る。黒須はきっと、これからも乃木を信じると決めたのだ。黒須のなかにあるすべてを勘案して、そのうえで、黒須は乃木を信じることをあらためて選んだ。
それは、どれほどの覚悟なのだろう。本人には人間ができすぎていると言ったが、それだけでないことくらい十二分にわかっている。これまでの彼の信頼が雛が親鳥に寄せるまっさらなものであるなら、いま黒須が差し出したものは銃弾のなかに身ひとつをさらす覚悟だ。裏切られたことを許すより、受け止めるほうがどれほど苦しいか。
紛れもなく乃木が持つものとは違う強さだった。そして、行動がどんなものであったとしても、その信念は揺らぐはずはないという問い掛けでもある。いつでも刃を首筋に突きつける準備をしながらまっすぐ見つめて微笑む、物騒で鮮烈な信頼。
これまで黒須から寄せられる信頼は、川の向こうから眺めるきれいな街の明かりのように、ただまぶしく、どこか自分とは遠いものだった。今は全くの別物だ。息がつまるほどの、現実的な手触り。
「ありがとう、黒須」
ならばこそ、自分もその覚悟にこたえなくてはならない。
「……あの、乃木さん」
「うん?」
「失礼を承知でもうひとつだけ。もう一回だけさっきの、いいですか」
黒須がはにかみながら言う。一瞬なんのことかと思ったが、すぐに合点し、もちろんと頷いた。乃木が手を広げるのと同じくして、黒須も膝立ちになって体をずらし、乃木の背中に手を回した。先ほどはまだ、自分からは回せなかった手。ようやく乃木にも、その体温が伝わってきた。
「……生きてる……」
噛み締める思いがそのまま声に出たのはどちらだったか。深呼吸をひとつだけ。体を離すと、黒須は律儀にありがとうございましたと頭を下げた。
「俺、乃木さんのこと、神様みたいに思ってました」
「えっ?」
「それで、この一ヶ月は血も涙もない化物だと思って……違うな、思おうとしてたけど。ちゃんと人間でよかった。乃木さんが普通の人間で、よかったです」
あまりに直截な言い方に乃木は苦笑するしかない。確かに、傷つき血の滲んだ内面の柔らかい部分はこれまで誰にも見せてはこなかったが、まさか神様とは。
「……きっと僕たちは、もっとなんでもない会話をしてくるべきだった」
それが別班員の自分たちには不要だとされるものだとわかってはいても、言わずにはいられなかった。違う出会い方なら、もっと違う関係性を築いていたのだろうか。でも、そうだとしたら、こんなふうに隣でうつくしい星を見ることはなかっただろう。
「この案件が終わったら何が食べたい?」
つとめて明るい声で乃木が言った。一瞬目を丸くするも、すぐに意図を理解した黒須は、そうですねえと長い指を口許に当てて考え込む。
「魚が食べたいかも」
「ああ、確かに。最後に食べたのいつだったかな……」
「こっちにはほとんどないですもんね」
言ってたら魚の口になってきました、と黒須が笑う。確かに、と乃木も微笑む。
「いろいろ終わったらお寿司でも食べに行こうか。懇意にしてるお寿司屋さんがあるから」
「えっ、乃木さんが連れてってくれるんですか」
「うん。でも、やっぱりその前にまずは回転寿司かな」
「いきなりの格下げ……」
「違う違う、だってきみが何が好きでどれだけ食べるか知らないから」
「じゃあ、まずは回転寿司で昼飯食いましょう。平日じゃなくて休日に。約束ですよ」
そう言って子供のように笑うので、乃木も同じ言葉を重ねて頷いた。「いろいろ」終わったら。それがいつになるのか、はたまたこの先もそんな日はこないのか、わからないけれど。こんな些細なものでも、未来への約束が少しでも自分たちを此岸に引き留めるものになればと思う。
「もう休もう。ベッドは黒須が使って」
立ち上がった乃木の、柔らかくも有無を言わせぬ口調から譲る気はないことがうかがえて、黒須は苦笑する。そんなわけにはという定番のやり取りすら今日はさせてもらえないらしい。ありがたいことは確かなので、素直に頭を下げる。
「それではお言葉に甘えます。ありがとうございます」
「明日から、またよろしく頼む。……黒須がいてくれてよかった」
そう言って乃木が頭を下げた。上官で、先輩で、神様みたいだった人が。自分が正面から見ることのなかった、丸い後頭部。瞬間、あらゆる感情が押し寄せて胸がいっぱいになる。ようやく出口を見つけた涙が溢れそうになるのを、意志の力だけで止めた。
「こちらこそ、数々の非礼をお詫びいたします。そしてまた、こうしてともに働けることを嬉しく思います。あらためてよろしくお願いします、先輩」
一礼。乃木が静かに頷く。黒須が顔を上げると、よく知る表情の乃木がそこにいた。
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