お嬢さん、と後ろから声をかけると、長い髪がさらりと舞った。窓の外の雪面に光が反射して、薄い色の髪がきらりとひかる。
「挨拶がまだだったなと思ってね。燕青だ、よろしく」
振り向いた彼女に、片手を上げながら軽い口調で言う。できるだけ親しみやすく感じてもらえるように。彼女はすぐさま体全体で向き直り、腰に手をあてる武人の一礼をし、口を開く。
「故あって真名を明かせぬ無礼をお許しください。私のことは、アーチャー・インフェルノと。よろしくお願いいたします、燕青殿」
そう言って顔を上げた彼女の眼差しは強く、炎が揺らめくようだと思った。それが、彼女との出会いだった。
自分がカルデアにやってきたとき、彼女たちはすでに数多の死線を越えたあとだった。マスターにマシュ、ダ・ヴィンチ女史にスタッフの面々、みな明るく振る舞ってはいるがふとした瞬間に喪失の影がよぎる。自分は「新宿のアサシン」としてカルデアと縁づいたので、のらりくらりと日々を過ごしていたのが最初の頃。彼ら彼女らにとっては走り続ける目的があるほうが気も紛れるのだろうと、喪失の正体には踏み込まぬまま、親しみの奥に時折揺れる警戒もわかったうえでそのままにしていた。まあ、ドッペルゲンガーとひとつになった今では昔の話だが。
さて、アーチャー・インフェルノのことに話を戻そう。初対面時の堅物感からしてまさかずっと鎧を着ているつもりかと思ったが、そんなことはなく、髪をひとつに束ねた和服の軽装でサーヴァントや職員たちともよく談笑しているところを見かけた。なかでも彼女はゲームがお気に召したらしく、ムニエルがようやく仲間ができた! と泣いて喜んでいた。穏やかな物腰と柔らかな微笑、あのときの燃えるような瞳は影もなく、それでいてふとした瞬間に表情が曇る。そして他者に声をかけられると、またぱっと明るい笑顔を向けるのだった。
このカルデアに、ややこしい名前を持つ者は自分と彼女しかおらず、そして人理修復後に召喚された者も自分と彼女だけだった。厳密に言えばモードレッドも人理修復後の召喚らしいのだが、時間神殿からの帰還後間もなくということなので、別物と数えていいだろう。とにかく、アーチャー・インフェルノが何らかの葛藤を抱えて今も真名を告げないのだろうということは想像に難くない。そこに自分から踏み込んだりはしないつもりだったが、レクリエーションルームに足繁く通う彼女の本当の行き先は道中にある資料室であるとわかり、彼女と話がしてみたくなった。お説教をするわけでもなし、世間話程度であれば差し障りないだろう。そう思い、食堂で彼女が一人のタイミングを見計らって声をかけたのだが。
「まあまあ、そんな警戒しなさんな。ちょっとおまえさんと話したくなっただけだよ」
対外的な笑顔でも隠しきれていないわずかな緊張に、思わず自分のほうが笑ってしまった。彼女の斜め前の椅子を引き、適当に腰かける。どちらかといえば隠し事が苦手な、まっすぐな性格なのだろう。手元の日本茶からほのかに湯気が立っている。
「……いえ、すみません。まだ皆さまとは日が浅いので、つい。失礼をいたしました」
彼女はお手本のような笑みを崩し、困ったように眉を下げながら笑った。軽く頭を下げると、長い髪がぱらりと一筋落ちた。
「いいって。人理修復後のまれびと同士、仲良くやろうぜ」
「ふふ、神ならぬただのサーヴァントの身ではございますが、ありがとうございます」
もともとわずかだった緊張が軽口でほどけたらしく、ようやく自然体の表情になる。そして、あの、と彼女の方から口を開いた。
「ずっとお聞きしたかったのですが。燕青殿のことをしんしん、とお呼びする方もいらっしゃいますよね? マスターも時折」
「ああ、あれね。俺ってば、最初は新宿のアサシンとしてここにきたもんだから、それでね」
「まあ、なるほど。そういうことだったのですね!」
「日本じゃパンダの名前は音を重ねることが多いらしいな。言いやすいってマスターが気に入っちまって」
「ええ、ええ、確かに呼びやすい良いあだ名です。最初に聞いたその場で尋ねればよかったのですけれど、機を逸してしまって……」
「あはは、あるある。後から混ぜっ返すほうが気を遣うやつな」
思わぬところ流れがやってきたので、早々に切り出す。
「じゃあ俺からも聞きたいんだけどさ、よく資料室に行ってるよな?」
彼女は瞳を丸くして、その直後、あの炎が揺らめくような目でまっすぐに自分を見つめ返した。こういうところはさすが武人の振る舞いだなと感心する。くるくる変わる自然体の表情が引っ込んでしまったのは残念だが、こちらもまた彼女の素の姿なのだろう。
「ええ、はい。ご存知だったのですね」
「たまたま見かけてね。なに、別に咎め立てするようなことじゃない。俺もこれまでのマスターたちのことが知りたくて記録を読んだから気持ちはわかるさ」
彼女は少しだけ椅子を引き、座り直した。体ごと向かい合う形になる。勝手ながら新宿の記録も拝読しました、と呟く彼女に相槌のみで答える。
「……燕青殿は、どうやって真名を明かす覚悟をお決めになりましたか」
「真名ねえ。まあ俺は特別隠し立てする理由もなかったからなあ」
「私にはまだわかりません、仇なす存在になりうるとわかったうえで、それでも我らを……」
「そりゃあね。でも、真名を明かさない、新宿では敵として連れ去った俺を、それでもマスターは信じてくれたからな」
主を持つなんてもうこりごりだと思ったが、この人ならと思ってしまった。
「まったく、人たらしなご主人さまだよ」
茶化すように、しかし確かに本心であるそれを言うと、彼女はそれにはまったく同意ですと大きく頷いた。
「英霊とは因果なものですね。もうこれきりと思ったはずが、何度も生を得てしまう」
「そんで自分の在り方からは逃れられないときたもんだ」
「本当に。業深きものです」
業。自分の抱える業。彼女が抱える業はどのようなものなのだろうか。
「資料室の記録、なんか気になるところでもあったかい?」
話の方向を変えると、彼女は答えず、少し寂しそうに笑った。
「私たちの記憶と記録、その境界はひどく曖昧だなと改めて思いました」
「あー、なるほどな」
特異点にて召喚された存在と、カルデアに召喚された自分。特異点修復前の現界では、特異点の自分に関する記録と、自分が自分として経験した物事の記憶とが入り交じる。自分は一体誰なのか。記録と記憶の折り合いをどうつけるのか、そのうえで自分自身が何者であるのか、それを自らでどのように定めるのか。そういう矛盾と葛藤、それらは英霊にしかわからない困難だろう。
「俺は幻霊でもあるから、あんたとも違うが。そいつは俺もぶち当たった壁だな」
彼女は静かな視線で続きを促す。野暮な話だなと思いつつも言葉を継ぐ。
「悪漢としての新宿のアサシン、侠客としての燕青。今の俺はどちらでもあるわけだが、それはドッペルゲンガーと向き合った今回限りの話。んで、因果なサーヴァントであっても、そんな俺はここにしかあり得ないってわけ」
まあ、幻霊じゃないおまえさんにぴったり当てはまるわけじゃないけどな、と肩をすくめる。彼女は少し視線を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。
「私は……、私はどこまでいっても私なのです。記録を読んで、改めてそう思いました。私は私なのに、立場によって全く違う振る舞いをしてしまう。そしてそのことに何の疑問もない」
「自分だったら必ずそうするだろうってことか? 真逆の振る舞いであっても」
「はい。だから、今の私はマスターのお力になりたいと思っているけれど、いつそれが反転するともわからない。そのことが、私は……」
「んー、そんなもんかねえ? そんなに固く考えなくていいとも思うが」
「そう……でしょうか」
「カルデアの、人理修復を共に駆け抜けたサーヴァントだって、一度も敵対したことがないやつしかいないわけじゃない。オルレアンの記録も読んだろ? あのマルタだってそうさね」
「まあ、マルタ殿を例に出されたら何も言えませんね」
ようやく彼女の表情が和らいだ。ありがとうございます、と再び一礼される。
「まあ、いろいろ言ったが、ここまで多くのサーヴァントと渡り合ってきてるマスターだ。あんまり気にせず、自分の踏ん切りがついたときでいいんじゃないか?」
「いろいろ」
「そう、いろいろ」
「そうですね。いろいろ踏ん切りがついたらそのとき、またお話してくださいませ」
頃合いかと腰を浮かせようとすると、あの、と彼女に呼び止められる。
「世界をあるべき姿に戻そうと立つマスターの力になりたいと、その呼び声に応えずにはいられなかったということだけは」
「わかってる。おまえさんがおもしろがってやってきたクチじゃないことは、見りゃあわかるさ」
「あなたとお話できてよかった」
「美人にそう言ってもらうと嬉しいね。悪かったな、茶、冷めちまった」
「猫舌だからちょうどいいくらい」
「そりゃどーも。人理修復に出遅れた者同士、これからも仲良くしてくれ」
そう言うと、彼女は声を上げて笑った。
と、そんな会話をしてから早数週間。マスターの昏睡がここまで続くと思わず一時騒然となったが、無事目を覚ましてからは、ひっきりなしにサーヴァントたちがマスターの部屋に押し掛けようとするものだから、マスターとマシュ、そしてダ・ヴィンチ女史の許可なしには出入り禁止となった。やはり相当の疲労と負荷がかかったようで、マスターの睡眠時間は今も通常より長いらしい。
アーチャー・インフェルノを伴ったマルタに声をかけられたのは、マスターの帰還から数日後のことだった。ちょうどいいところに、とマルタが手をたたく。
「立香が彼女と話をしたいって言っていてね。あなたも一緒にどう?」
「いや、俺がくっついていっていい話? それ」
「もちろん」
「私からもお願いします、燕青殿」
本人にそう言われれば断る話でもないが、本当にいいのだろうかと思いつつ特段の用事もないので首肯する。マルタが持つ皿にはクッキーがきれいに並べられていた。
「調子はもうだいぶいいのか?」
「ええ。ダ・ヴィンチがガンガン話を聞きたがるものだから、むしろそっちにやられてる」
「あの追い込みすごいからなあ」
軽口を叩きながらそっと横に視線をやると、思い詰めたような表情の彼女が一歩後ろついてくる。マルタもその様子を気にしているようで、彼女からの目配せに頷くと、あのね、とマルタが口を開いた。
「そんなに心配しなくて大丈夫よ。私たちのマスターのお人好し度と謎の器の広さは筋金入りだから、大丈夫」
「……」
「私なんて最初の特異点で、しかも狂化した状態の敵で出てきたんだから」
「その話、何回聞いてもなかなかハードル高いよな」
「ほんとよ、もう、なんでここで!? って感じで」
「災難というかお気の毒というか。ほとんどひとりでなんとかしてたんだろ?」
「だってしょうがないじゃない、走りながらなんとかしてる状態のカルデアだったんだもの」
「マシュからも聞いた、あの時は本当にどうしようと思ったって」
「はああ、やっぱりそうよねえ。私が私を直接ぶん殴れればよかったけど、それもできないし」
「ぶん殴る!?」
思いもよらない単語に、ようやく彼女が顔を上げた。やっと話してくれた、といたずらっぽくマルタが笑う。その手から盆を受け取る。自由になった両手で、マルタはそっと彼女の手をとった。
「生身の人間もサーヴァントも、いろんな側面があって当たり前。サーヴァントはそれがことさら強調されるけど、でもね、私たちのマスターは、今ここにいるあなたのことを唯一のあなたとしてちゃんと見てくれる子よ」
そう言ってにっこりと笑う。まったく、普段は気の置けない気さくな姉さんのくせにこういうときはまさしく聖女さまなのだから、ずるいよなあと思う。手をとられたままの彼女は、迷うように伏せていた顔を上げて、ゆっくり、しかし力強く頷いた。
「もう大丈夫ね」
「はい。ありがとうございます」
向き合わないといけないですから、と彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。そこからは雑談をしながら歩くうちに、ほどなくしてマスターの自室の前に到着する。彼女がゆっくりと深く息を吐ききるのを見計らって、マルタが三回、ドアをノックする。はぁーい、と間延びした声が内側から聞こえ、ドアが開いた。
「調子はどう?」
「よっ、マスター。クッキーいるかい?」
「マルタさん、シンシンさん! ありがとうー、ダ・ヴィンチちゃんにたくさん話したからお腹すいたよー」
半ば本気でげっそりした声に笑ってしまう。クッキーを一枚つまみ食いしたマスターは直後、後ろにもうひとりいると気づいたようで、かあっと頬が赤くなった。そんな気の抜けた様子に、張りつめた緊張が緩むどころか出鼻をくじかれたらしく、彼女はぽかんと口を開いていた。一生懸命クッキーを噛む音が聞こえて、つい吹き出してしまう。俯き震えていたマルタが、つられて声を上げて笑い始めた。
「やあ、すまんすまん。さすがだマスター」
「……、ちょっと、二人とも先に言ってよ!」
ばしばしと腕を叩かれて余計おもしろくなってしまった。そして勝手知ったる動きでマルタが部屋のなかの小さな冷蔵庫からペットボトルを持ち出してくるものだから、収めようと思っても全く笑いが収まらない。
「ほらお水飲みなさい、むせるわよ」
「お水は後で飲むよ……。ほらあ、めちゃくちゃ呆れてるじゃん……はずかしすぎ……」
顔を押さえてしゃがみこむマスターを再び立たせ、一緒に部屋に入り机にクッキー皿を置く。そんな様子をひとり黙ったまま、彼女は未だドアの外に立ち尽くしていた。
「あの」
信じられないと言った声だった。全員が彼女を振り返る。
「夢といえ、あなたは……。それなのに、私がおそろしくはないのですか」
マスターは彼女をじっと見つめてから、そうだな、と呟き、彼女に歩み寄る。
「私たちは確かに下総で、アーチャー・インフェルノと戦った。でもそれはここにいるあなたじゃない」
「でも」
「うーん、そしたら、まず最初に、あなたをなんて呼べばいいか教えてもらえないかな」
彼女が目を見開いた。
「あのね、実は、日本出身のサーヴァントがまだあんまり多くないの。私はあなたのこともよく知りたいな」
「……」
「それでさ、一緒にお話ししながら、クッキー食べようよ」
「ええ……、ええ。もったいなきお言葉でございます」
ぶわっと炎のような影が揺らめき、彼女が第三再臨の姿へと変わる。鬼の角が現れる。以前目にした第三再臨の姿とはわずかに違う、薄桃色の髪が揺れる。そして彼女は、すっと片膝をついた。ここまで二人のやりとりを見守っていたが、これ以上はと思い、退室しようとそっと足を引く。マルタも同じことを考えていたらしい。マルタ、燕青、ありがとうとマスターが小さく呟き、頭を下げた。
ドアが閉まる直前、揺れる彼女の声が漏れ聞こえた。
「これまでの数々の無礼をお許しください。そしてそんな私をお側においてくださる、そのお気持ちに感謝申し上げます。どうか、私のことは……」
静かな廊下に、マルタの上機嫌な足音が響く。なあ、と呼び掛けると、なあに、と足音どおりの上機嫌な声が返ってきた。
「どうして俺を呼んだんだい? おまえさんだけでもよかっただろ」
「ああ、そのこと。前に、ふたりで話してたでしょう? だからなんとなくね。いてもらったほうがあの子の緊張もほぐれるかなって」
「相変わらずよく見てるなー」
そうでしょ、とマルタが小さく笑った。
「よかった。たまに思い詰めた顔をするの、気になっていたから」
「レクリエーションルームによく行ってたろ? どうやら、途中にある資料室が目的だったみたいでね。俺はそんな話をちょっとしただけさ」
「なるほど。第七の記録を読みたかったのかもね」
「第七? 真名の見当がついてたのか?」
「あー、いえ、話の流れで前にアンデルセンが聞かせてくれてね。『日本出身、英霊になるほどの女武者となれば自ずとわかる。まあ牛若丸や源頼光のようなタイプならお手上げだがな!』って」
「はああ、先生はさすがだねえ」
「内緒よ」
「当然。そういやさっきの再臨、前に見た第三再臨とは髪色が違う気がしたが、気のせいかね?」
「あら、さすがは浪子。あの色、日本では曙色とも呼ぶのですって」
あの子にぴったりね、とマルタが嬉しそうに呟く。もうマスターの部屋が見えるわけではないが、何とはなしに振り返る。マスターとの話のあと、きっと彼女は改めて名前を教えてくれるだろう。
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