序
第一ボタンを外したポロシャツの襟に指をかけて、清水葵はシャツの内側に風を送り込んだ。背中を滑り落ちていく汗に顔をしかめる。せめて背骨の真上、背中のちょうど真ん中を伝ってくれればいいものを、すーっと汗が流れていく感覚は中途半端に左に片寄ってばかりだ。片側だけ汗かいてるのかな、鞄のせいか。そう思い、空の弁当箱やら中身の微妙に残ったペットボトルやら分厚いプリントの束を挟んだクリアファイルやらでそれなりの重さの学生鞄を右肩にかけなおす。ずん、と重くなった右半身とすっかり軽くなった左半身、アンバランスな重さに体が歪み背中が軋む。
よいしょ、と小さく声を出しつつ体を揺すって鞄を持ち上げ、持ち手のねじれを直した。ちょうどいい位置に鞄がおさまる。風が吹いて、きれいにアイロンのかかったスカートのプリーツを揺らしていく。夏の入り口、五月である。
一番気温が高くなる時間帯にアスファルトの上に生徒を放り出す学校が憎い。短縮授業なんて厄介なだけだ。朝はいつも通り、なのに昼には学校を追い出されて、それなら最初から休みにしてくれればいいのに。午前で帰れるのはとってもありがたい、それは確かだけど、そうはいっても。もっと過ごしやすい気温ならよかったのに。
葵は昔から、車が道路にまったくいないときでも赤信号の横断歩道を渡れない子供だった。ちゃんと左右を見て、車やバイクがいなくても信号は守ること。両親の教えは完全に葵に染み付いている。ほかにも、挨拶とありがとうとごめんなさいはどんなときでもちゃんと声に出すこと、どんな些細なことでもしてもらって当たり前とは思わないこと、自分をまるごと全部受け入れてどんなときも自分を好きでいてあげること、ごはんはきれいに丁寧に食べること、嘘はつかないこと、など。だから、中学生のときにちょっとかっこいいなと思っていた陸上部の先輩が購買のおばちゃんに横柄な態度を取り、そのうえまだ残っている食べ物を捨てているのを見たときには当然ながら一瞬で冷めた。なんて最低なやつなんだと思った。つい数十分前、その先輩と付き合っている派手なかわいさのクラスメイトが葵のことをださいと言ってげらげら笑ったけれど、そんなのはくだらないことだ。とてつもなく。
「カンナ」と書かれた扉とOPENの看板がかけられた店の軒先が見えて、葵は大きく深呼吸をした。嫌なことやむかついたことについていろいろと考えるのは帰り道だけ、家に帰り着く前、もしくは誰かに会う前にはしっかりと気持ちの切り替えをする、というのはいつの間にか身についた習慣だった。
日陰に入って額に浮いた汗を厚手のタオルでぬぐい、それでぱたぱたと首もとをあおぐ。鞄から出した鏡をのぞきこみ、汗で頬に貼りついた髪をはらってもう一度、折りたたまれたタオルの端で丁寧に汗を拭く。鞄の重みに引っぱられて乱れていた襟元を直し、ぴんと背筋を伸ばしにーっと笑顔を作る。
「こんにちは」
すこし重いドアをぐっと引いて開けると、ひんやりとした空気がぶわりと中から溢れてきた。すずしー、とうっとりとした声が思わず漏れる。カウンターの奥から店主の島田が顔をのぞかせ、いらっしゃいと控えめに手を振った。
「ごはん?」
「はい!」
「おなかすいたでしょ、なににする?」
「タコライスお願いします!」
「かしこまりました。待っててね」
「ありがとうございます」
クーラーのよく当たる位置を知り尽くしている葵は、直撃場所ではないもののかなり風がきて涼しい席に腰をおろした。やっと肩が重量から解放され、ふう、と息を吐く。冷たい風に吹かれて汗がどんどん乾いていく感覚が気持ちいい。
「葵ちゃんおかえり」
「まだ昼なのにさぼりかー?」
「林さん畑沢さん、こんにちは。さぼりじゃなくて、今日短縮授業だったんですよ」
もー、と口をとがらせながらも笑ってみせると、常連客の二人はそりゃそうだ、葵ちゃんがさぼるわけないもんなとアイスコーヒーを飲みながら言った。七十代の彼らは定年を迎えてだいぶたつ。葵がまだ一人ではカンナにこられなかった頃から林と畑沢はよくこの店にいて、そのため葵にとっては完全に遠い親戚のおじいちゃんのような位置づけである。聞くところによるとどうやら仕事をしていた時分からの常連らしい。営業の間にここでアイスコーヒーを飲みつつ汗を引かせていたのだという二人の数十年前の話を聞いて、なんだか不思議な気持ちになったことを今でも覚えている。
「午後なんかあったの?」
いつもより二つ三つ多く氷が浮かぶ、なみなみと注がれたグラスを葵の前に置きながら島田が聞いた。はい、と頷いてからグラスに口をつけてすぐさま、いつもの水ではない、すっぱい味に驚いて島田を見上げる。
「レモン水?」
「暑かっただろうからサービスね」
「わあ、ありがとうございます! しみわたる……!」
よかった、と島田が満足げに頷く。とはいってもポッカレモン混ぜただけだけど、とすまなそうに言われ、葵はとんでもないですと首をぶんぶんと左右に振った。島田くんは本当に葵ちゃんに甘いよなあ、と畑沢に笑われて島田が照れたように頭をかく。葵の母と島田はいとこである。自分の子供はがたいのいい男兄弟というのもあり、島田は葵がかわいくて仕方ないのだ。
「あ、そうだ、今日の午後なんか先生たちが会議らしくて。その関係で午前だけに」
「へえ、そうなんだ」
「もういっそ休みにしてくれればいいのに……」
冷たいグラスに浮いた水滴を指でなぞりつつ、不満げにそう漏らす葵を島田はまあまあと宥めた。
「悪いことばっかりじゃないと思うよ」
「え?」
含みを持たせた島田の声に顔を上げる。島田はにいっと口の端を上げて、秘密をこっそりと打ち明けるように、口を開いた。
「なんと今日は十二時半から丹野さんがきます」
「えっ」
「いつも少し前にはくるから、もうすぐじゃないかな」
「ええっ」
慌てて店内の掛け時計を確認すると、時刻は十二時二十三分。慌てて前髪を右手で直す葵を、隣の常連客二人はにやにやと眺めている。
「あの兄ちゃんはかっこいいからなあ」
「葵ちゃんも年頃だもんねえ」
「ちが、ちがうから!」
ははは、と笑って島田はカウンターの奥に戻っていった。空腹がそろそろ我慢できない域なのが不安だ。どうか鳴ってくれるなよ、と朝食以降放置されたかわいそうな胃袋に念じていると、ちょうどそのとき、からんからんと軽快な音を立ててゆっくりとドアが開いた。
「こんにちは」
明るい声に、葵の背筋がしゃんと伸びる。するりと店内に入ってきた男性は、すぐに葵と林、畑沢の三人にちゃんと体を向け、いらっしゃいませ、と笑顔で言う。
「丹野さんこんにちは」
ぺこりと頭を下げつつ葵が返すと、男性――丹野まどかは、不思議そうな顔をしつつわずかに首を傾げた。
「今日は短縮授業だったの?」
「あ、はい」
「よくわかるねえ」
はあー、相変わらずすごいなあ、と林が声をあげる。以前林は奥さんと喧嘩したまま家を飛び出てきたことを彼に見抜かれたことがあり、それ以来丹野に一目ならず二目ほど置いているのだ。
「制服でこの時間にいるってことは、ってただそれだけですよ。体調不良でもさぼりでもないみたいだし」
ね、と笑いかけられ、顔が熱くなる。赤くなっていやしないだろうか、と内心かなり慌てながらもこくりと頷き、ごまかすようにグラスに手を伸ばした。荷物おいてきます、ごゆっくりどうぞ、と言い置いて丹野はスタッフルームに引っ込んでしまった。
ドアの向こうに丹野の後ろ姿を見送って安心したのか、ぐう、と葵のお腹が切なげに鳴いた。咄嗟にやばいと思ったがどうやら誰にも聞こえていなかったらしい。ほっと息をつきつつ、宥めるようにレモン水をほとんど空っぽのお腹に再び流し込む。丹野はかっこいいのだが、まだ彼と話すことに慣れていなくて緊張してしまう。
丹野がこの街にやってきたのは三週間前のことだった。カンナで働き始めたのが二週間前。ちょうど彼の仕事初日、葵は自宅ではだらけてしまってできない課題を片付けるべく来店していた。島田が自分のいとこの娘さんなんだと葵のことを紹介したものだから、丹野は下の名前で、葵さんと呼ぶようになった。
エプロンをつけてカウンターに立った丹野をこっそりと盗み見る。はじめましての挨拶のあと、東京から越してきたと言う丹野にお仕事の関係ですか、と尋ねると、小説家になりたかったんだ、と彼は少し寂しそうに言った。今から思えば、これからここで働くという人に向かってお仕事の関係もなにもなかったと思う。困ったような微笑み方を見て、無神経なことを言ってしまったのではとすぐさま体の奥が冷えるような感覚がした。けれど続けて、パソコンがあればどこででも文章は書けるしね、と丹野は照れたように笑った。その笑顔に葵はほっと胸をなでおろした。それ以来葵は彼のことが好きだった。もちろん、恋愛的な意味ではない。
慣れた手つきでコーヒーを挽く彼の横顔はいつも楽しそうだ。今年で三十二だというが、とてもそんなふうには見えない。母に言ったら絶句していた。曰く、あんな童顔が許されるなんて……そんな……、だそうだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
島田にお礼を言い、スプーンを手に取った。いただきます、そう言ってから口にしたタコライスはやはりいつも通りおいしい。ふふ、と聞こえた笑い声に顔を上げると、丹野が葵のほうを見てにこにこと笑っていた。目が合うと、あ、ごめん、と丹野が顔の前で手を振る。
「すごくおいしそうに食べるなと思って」
「本当においしいから……。え、あの、もしかして私声に出てました?」
「うん」
「えっ」
左手で慌てて口を押さえた。無意識の声を聞かれていたことははずかしかったけれど、後ろの島田が嬉しそうにしているので別にいいかなと左手をおろす。今日もおいしいです! と島田本人に向かって言うとガッツポーズで返事をされた。その一連の様子を、丹野はとても優しいまなざしで見つめている。そのやわらかい表情がなにかに似ている気がしたが、言われてみればお母さんが子供を見つめるような雰囲気に近いのかもしれない。三十二と言っていたし、子供がいてもおかしくはない年だ。もしかしたら一緒に暮らしていないだけでお子さんがいるのかなと、そんなことを考えながら葵は黙々とスプーンを口に運ぶ。丹野は不思議な人だ。誰にでも変わらない態度で、笑顔が爽やかで、でもしっかり自分の芯を持っている人、という感じがする。自分の哲学を持っている、というか。丹野さんって、普段どんなことを考えながら生活してるんだろう。自分の仕事に戻ってしまった丹野をまたちらりと横目で見ながら、いつか彼の書いた小説を読んでみたいと思った。謎に包まれたあのひとの、一面に触れてみたい。
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