逃げるは癪だが受けて立つ

 自分の定位置であるデスクに腰を下ろし、降谷は重々しいため息をついた。ああまたかと遠くの席で苦笑する上司は当然のように妻帯者である。もうすぐお嬢さんが結婚されるらしい。おめでとうございます。なんかあったんですか? とその上司に聞く同僚は先日プロポーズがうまくいったらしい。降谷さん、また例のアレですよ、と小さな声で答える部下は今度こそいまの恋人と結婚すると息巻いている。ああ、降谷さん上からの受けもいいからな……と絶妙なフォローを入れてくれた同僚も妻帯者。最近やけに多くないか? と首を傾げた同僚も妻帯者。またですか? と机にコーヒーを起きつつ自分を気遣ってくれる風見も妻帯者。
「風見……」
 すがるように見上げたものの風見の表情はいつもと変わらず、呆れているようですらあった。
「いい加減受けるだけ受けてみては?」
「それが! できたら! 苦労しないんだよ!」
「じゃあお断りするしかないんじゃないですか」
「そうなんだよ……知ってる……」
 風見が入れてくれたコーヒーに口をつけながら、降谷はもう一度重々しいため息をそれはもうゆっくりと吐き出した。現状見渡すかぎり、いまこの一角に恋人も配偶者もいないのは降谷零ただひとりである。
 悲しいかな、降谷の左手の薬指に指輪が鎮座したことも、その予定も全くない。
 もはや項垂れるしかなかった。この一連の騒動を招いたのは自分の軽率な発言であり、今更悔やんでも悔やみきれない。椅子に思い切りもたれ、今度は天を仰いだ。天井の蛍光灯は今日も煌々と光っている。
「結婚したい………………」
 ただし、その先に続く言葉は「もうお見合い断るのめんどくさい」である。

 事の発端というのは、なんということはない、ただの世間話のなかでぽろりと降谷がこぼした発言だった。
 プロポーズが成功したという同僚を、みなでささやかながら祝っていたときのことだ。降谷はあることに気づいてしまった。よくよく考えてみれば、降谷の右隣から順に、妻帯者、妻帯者、彼女持ち、婚約中、結婚まで秒読み、件の同僚、彼女持ち、アタック中、妻帯者、妻帯者、来月結婚式、お付き合いは時間の問題、そして降谷に戻る、という並び。降谷には配偶者はおろか恋人も思いを寄せる相手もいない。
 つまり、恋愛のれの字もないのは降谷だけだったのである。
 それに気づいた降谷はそれはもうびっくりした。みんないつの間に!? と本当にびっくりした。動揺したと言ってもいい。周囲がちゃんと人生を共に歩む人を探している間に、降谷がしたことといえばコーヒーを淹れるのがやたら上手くなったことくらいだ。よく知っているはずの同僚たちがまったく未知の人間のような気分になった。部下にも妻帯者やら婚約中やらがいるのだから年齢なんて関係ないんだなと思ったし、いいことばかりじゃないと言いつつも明るくてあたたかい関係を他人と築いているみなのことをどこかうらやましく思った。そして、時間がなくて、忙しくて、というのは本当にただの言い訳なんだな……とそんなことをしみじみと思った。
「いいなあ……」
 それは、たいした他意のない呟きだった。幸せそうな同僚たちを見ていたら自然と零れ落ちたのだ。いままで恋愛はもう今更めんどくさいしどうでもいいや、そう思っていたけれど、もしかしたらとても短絡的だったのかもしれない。当然、ただ面倒なだけではないのだろう。大変だったり苦労したりはしても、それに見合うだけのよろこびや幸せもあるのだろうな、と降谷ははじめて思った。
 自分だけが、ひとりであるような気がした。それを悲しいとか寂しいとか思うわけではないが、もしかしたらなにか違えば違う人生もあったのかな、とは思った。自分や自分の生き方を否定はしないが、きっとなにかが足りないんだろうな、そこがみんなと違うんだな……。そう思うと、なんだか、悲しいとも切ないとも違うような、なんともいえない気持ちで胸がいっぱいになった。
 そこまでは、よかったのだ。問題は、そのときの降谷の呟きと横顔とが、その場にいた面々に雷が落ちるが如き衝撃を与えてしまったことだった。
「降谷! おまえなら大丈夫だ、きっといい相手が見つかる!」
「いやその前に俺がいい相手を見つけてやる!」
「降谷さんなら大丈夫です!」
「降谷ごめんな俺全然気づかなくて……ごめんな……!」
「降谷さん……!」
「降谷……!」
「え? ちょ、ちょっと待ってくださ、え?」
「降谷さん!!」
「安心しろ降谷! 俺に任せろ!」
「自分もいい人がいればご紹介します!」
「あの、え?」
「降谷さん!」
「降谷ー!」
「降谷ーー!!!」
 無神経でごめんなあ、おまえなら大丈夫だ、おまえは本当にいいやつだ、いままでのご恩を返させてください……、などなど。なぜか涙ながらに詰め寄られてしまえばさすがの降谷も口を挟みようもない。というか降谷はちゃんと「え、あの、大丈夫なので! 彼女ほしいとか結婚したいとかそういうのじゃありません! 一般的なやつです! 個人の話じゃないです! なにもしなくていです! 謙遜でもなく!!」と何度も叫んだのだが、降谷のために俺らが一肌いや二肌脱ごうぜと一致団結してしまった屈強な輩たちはまったく聞いちゃいなかった。もみくちゃにされている降谷はもはやわけもわからず、為す術もない。気づいたときには時すでに遅し。降谷の前には次から次へとお見合いや友達紹介の話が舞い込んでくるようになってしまったのであった。
 とはいえ、降谷も最初のうちはこれもいい機会だからご縁があれば交際なり結婚なりするのもいいのかもしれない、ていうか食わず嫌いしないで人並みの幸せを自分も目指してみたっていいじゃないか、とそう思っていたのだ。もとより自由恋愛がすべてだとは思わないし、縁談による結婚が主流だったころのほうが離婚率が低かったらしいと聞いたこともある。結局恋愛だろうが縁談だろうが相手と自分次第ということだろう。というかハイパーものぐさ仕事人間の自分が自由恋愛の果てに結婚しようとするよりもきっとベテルギウスが超新星爆発を起こすほうが早い。なによりただの職場の人間、いってしまえば他人の自分のために親身になってくれているのは純粋に嬉しかったのだ。
 はじめてお見合いの話をもらった日、降谷の胸を占めたのはどこかくすぐったいようなあたたかい気持ちだった。目の前に幸福な未来への輝かしい扉が出現したような気がした。ほくほくした気分だったことも確かだし、楽しみすぎるあまり無意味に笑顔を振り撒いてしまったことも確かだし、はじめての状況に舞い上がって奮発した肉を買ってしまったことも確かだ。せっかく紹介してくれたのだもちろんお見合いに行かせてもらおう、万が一にも相手に失礼のないようにいろいろリサーチしておこう、というかまずは自分がどんな人間でどんな人となら共に人生を歩んでいけそうか、そういう自己分析をしなければ……。自己分析なんて就活のときぶりだなー、なんて思いつつ、脳裏にいまは彼岸にいる友人たちを思い浮かべた。みんなが口々におめでとうと言ってお祝儀の袋をペンライトのように振っている。みんな、ありがとう! 俺、幸せになります! 降谷はうきうきしつつチラシの裏をテーブルの上に広げた。
 結論から言うと、それがいけなかった。
「じ、地雷原すぎる……!」
 降谷は頭を抱えた。自分の人生の年表のなかの大半を占める潜入捜査(当然話せない)。ターニングポイントになったできごとは友人や親友の殉職(当然話せない)。好きなことは機械的に仕事を処理して予定よりも早く終わらせること、嫌いなことはイレギュラーに振り回されて計画が狂うこと、譲れないことはプライベートより仕事を優先する場合も多々あること。恋人もしくは配偶者に求めるものはこの特殊な仕事への理解とお互い相手に依存しないこと。言えない。まかり間違っても絶対にお見合いで相手に言うことではない。
 ずうんと暗くなった気分を振り払うように降谷は首を勢いよく左右に振った。待て、他を考えよう。お見合いといえばあれだ。ご趣味は? ってやつだ。趣味、趣味、……。趣味……? ボクシング(基本的に誰でも伸せる)とギター(力でねじ伏せられるレベル)とテニス(優勝経験あり)は趣味とは違うし……、ていうか俺の趣味ってなんだ……? 車か? あっ車いいかもしれない。運転下手じゃないし! でもいい年して彼女もいない友達ももうほとんどいない男がスポーツカー乗り回してるのは、控えめに申し上げて寒くないか!?
 降谷は己の生まれた星のもとを呪った。駅前で配っていた新しいパチンコ屋のロゴ入りのボールペンでチラシの上に展開された降谷の半生は、とてもお見合いの席で言えるものではなかった。なんだこの人生。地雷原ッ……! 圧倒的地雷原ッ……! がっくりと項垂れたが、それよりもなによりも、こんなにいままでがんばってきたのにその道のりが特殊すぎるあまり包み隠すことばかりの自分に気づいてしまったことが一番悲しかった。鏡に手をのばす。いつも通り男前な顔がそこにあった。降谷にはナルシストの気は一ミクロンだってないが、客観的に見て自分の顔がいいことは知っている。高学歴高収入高顔面偏差値。性格だっていい、と思う。思うがそれは自己評価の話であり、こんな物件がぽつねんと手付かずのまま残っているのはきっと性格かなにかに重大な難ありだからに違いないと考えるのが普通の神経だろう。誰だってプール付きの豪邸であっても事故物件には住みたくない。
 降谷はこっそり泣いた。脳裏の友人たちも泣いていた。自分だって幸せになりたいが、同じように幸せになるべき普通の女性たちをこんなわけのわからん婚姻に巻き込むわけにはいかない。となれば永遠に結婚なんてできるはずもない。いまこの瞬間にお蔵入りが決定した脳内お祝儀はいつの間にかお香典になっていた。さようなら結婚生活。ハッピーライフハッピーホーム。安らかに眠れ普通の人生。結婚が決まったときに飲もうと思って数時間前に買ってきたばかりのワインの栓を、降谷は泣きながら開けた。
 翌日、二日酔いになりながらもせっかくいいお話をいただいたのに申し訳ありません、と深々と頭を下げたとき、上司は説得するような言葉をなにも言わなかった。ただ一言、「特殊な仕事だしな、わかるよ。またいい話があったら持ってくるからそのときはそのときで考えてみてくれな」と笑って言った上司には本当に感謝してもしきれない。しかし、「こんな男絶対お断りだろ」と自分で思ってしまった以上、その後も次々と持ち込まれる話を受けるわけにはどうしてもいかなかった。とはいえどうか降谷には幸せになってほしいと願う周囲の人間がおいそれと引き下がるはずがない。結果、絶対に結婚して降谷に幸せになってほしい周囲と絶対にこんな自分と一般女性を結婚させるわけにはいかない降谷のほこたてが日々繰り広げられている、というわけである。

 はあ、と降谷は自動販売機に小銭を投入しながらため息をついた。これまではなんとかお断りを成功させているが、相手だって一癖も二癖も三癖もある警察庁の猛者たち。ここぞというタイミング、言い方、話の運びでお断りを繰り出さなければ逆にこちらが丸め込まれて気づいたときには着物のお嬢さんとご対面、なんてことになりかねない。重ねて言うが、降谷だって結婚したいのだ。いや結婚したいというか、別に結婚に固執はしているわけではない。普通に幸せになりたい。普通が一番貴重なことなんて数億年前から知っている。だからこそ、こんな普通でない相手と結婚する羽目になる未来の配偶者に対して申し訳なさすぎてしかたないのだ。というわけでお見合いを受けるわけにはいかない、と降谷は固く心に決めてしまっていた。
 どうしよう、と思った。そろそろお断りのネタが切れ始めている。同じ手法が通じる相手ではないし、下手したら攻略法が既に存在しているかもしれない。となるともうどうしようもなかった。そろそろ禁じ手にも手を出さないといけないかもしれない、と暗澹とした気持ちになりつつプルタブを引く。それはつまり架空の恋人の存在をでっちあげる、というものなのだが、その気になれば恋人の裏をとるためあの手この手を尽くしそうな上司同僚部下しかいないためこれはあまりにもハイリスクだ。ゆえに禁じ手である。発覚の瞬間に即反則負け、誰かの選んだ相手の待つ式場へ強制送還にだってなりかねない。
(疲れた……平穏な日常を取り戻したい……)
 コーヒーが体のなかを滑り落ちていく。限界だった。対症療法でどうにかなる域を既に越えてしまっている。抜本的な解決策が必要だった。対象が完全に戦意を喪失し、沈黙するしかなくなるような、そんな作戦。そのためには、禁じ手にならない、そのギリギリを攻めるしかない。もはや残されたお断りプランは一つしかなかった。

 降谷の手に残った正真正銘唯一の手札、最終手段の第一段階、すなわち「好きな人ができました」が発揮しうる最大の攻撃力で炸裂した夜。降谷の部屋を訪れたのはその好きな人……ではなく、いまや腐れ縁という言葉が一番しっくりくるような関係に落ち着いた男だった。
 赤井秀一。
「お呼び立てしてすみません。久しぶりですね」
「久しぶり。元気そうでよかった」
 赤井は手土産のオリーブの塩漬けを手渡しながら穏やかに笑った。降谷はそのあたりの事情を詳しくは知らないものの現在の赤井は日本とアメリカ、それ以外にもいろいろな国を飛び交う生活をしているらしい。以前であれば考えられないような穏やかな空気が二人の間を流れているが、出会ってからの年月を思えばむしろ当然と言えるだろう。お互いに丸くなった。
「え、スペイン!?」
 やったー塩漬けだー、つまみに最高だなと思いながらラベルを見るとそこに書かれているのは英語ではなくスペイン語。驚いて赤井を見ると赤井は事も無げに「ああ、そうこの間数日スペインに行っていて」と答えた。
「そんなちゃんとしたの、手土産にしてくれなくてよかったのに」
「いや、もともとそれは降谷くんへの土産用に買ったものだったから」
「そうだったんですか? うわあ、わざわざありがとうございます。うれしいな。ワイン開けよ」
 塩漬けの瓶を丁寧にテーブルに置いてから準備してあったつまみ、というには豪華な料理を並べる。いつ見てもすごいな、と感心したように赤井が言ってくれるのは素直に嬉しく、降谷はにこにこと笑った。今日のために買っておいたワインを開け、丁寧な手つきでグラスに注ぐ。棚にはバーボン、冷凍庫にはロックアイス。赤井が好きだと言っていたゴーダチーズも買っておいた。どこからどうみても準備は完璧であった。
 どうしても、今夜中に赤井の協力を手に入れなければならない。
「今日はきてくれて本当にありがとうございます」
「俺が役に立てるなら嬉しいよ」
 赤井に笑いかけ、話を始める前に降谷は塩漬けをぱくりと口に放り込む。オリーブの塩漬けはさすが本場というか、塩気とオリーブ自体の味のバランスがちょうどよかった。降谷の目がきらきらと輝く。
「おいしい! これおいしいです、ありがとうございます!」
 あー、どうしよういくらでも進んじゃう……とうっとり呟く降谷を、赤井は嬉しそうに見つめた。
「よかった。癖が強いかなとも思ってたから」
「えー! 全然そんなことないです、おいしい!」
「そんなに喜んでもらえると思わなかった」
 それから和やかに近況報告を中心とした会話は進み、ワインの残りがボトルの半分を切ったころ、赤井はそれで、と口を開いた。
「相談、というのは? なにかあったのか」
 瞬間、楽しげに緩んでいた降谷の表情が引き締まった。背筋が伸び、両手を体の前で組み合わせる姿はまるで作戦会議時のものだ。赤井は少なからず動揺した。それまでの和気藹々とした雰囲気が雲散霧消し、かわりにぴんと張られたピアノ線のような緊張感が空間を支配する。そんな重大なものなのだろうか? ごくり、と赤井が唾を飲み込んだのを見て、降谷が一瞬迷うように目を伏せる。しかしすぐに顔を上げ、そのまっすぐな視線が赤井を貫いた。
「相談、というのは。あなたに協力してほしいことがあります」
「それは仕事の話か? それとも個人的な?」
「個人的な話です」
 それを聞いて、赤井はほっと胸を撫で下ろした。仕事の話となるとやはり組織や立場の違いからこの場で返事をすることはできないし、赤井がどう思っても力になれないことだってある。しかし個人的な話であればそういったことを考えなくてすむ。個人的な話であれば、それがどんなものであってもできる限り力になりたいとここにくる前から思っていた。視線で続きを促すと、降谷は小さく頷いてから言葉を続けた。
「基本的に、赤井になにかしてほしいという要請はありません。ただ、僕の職場の人間が接触を図る可能性が生じることもあり得る案件です。できる限り阻止しますが……。でも万が一のそのときのために、あなたの助力を乞いたい」
「まずは詳しく聞かせてもらおうか」
「真剣な話なので、笑わないでくださいね」
 降谷の言葉に赤井は重々しく頷いた。笑うはずがない。ただならぬその雰囲気に、自然と背筋が伸びた。

 しかし、数分後。
 事のあらましをすべて聞いた赤井は、思わずテーブルに突っ伏していた。背中は小刻みに震え、呼吸は浅く不規則だし目には涙も浮いている。
「ちょ、笑うなぁ……!!」
 絵に描いたような爆笑とともに撃沈した赤井の正面で、降谷は顔を真っ赤にして立ち上がりその肩をそれなりの力で小突いた。もちろん控えめな表現である。赤井はウッと声を漏らしたがそれもすぐに震える笑い声に飲み込まれる。いい加減にしろよ! とキレ気味に言いながらも、降谷もついには笑ってしまっていた。
「わ、笑わないって、い、言ったじゃないですか!」
「いや、すまん無理だ、めちゃくちゃおもしろい」
「俺は真剣なんだよ!!!」
「それが余計おもしろすぎる……!」
「おま、おまえなあ! 他人事だからって!!」
 笑いがぶり返したのか再び赤井の背中の揺れが大きくなった。もっとも、脳内のお祝儀がお香典にメタモルフォーゼした時点で早々に赤井の笑いの臨界点は突破されていたので、どこがおもしろかったとかそういう話ではないのかもしれない。酔いも手伝ってハイになっているのか、赤井は苦しげに笑い続けている。こんな赤井なんて今まで一度も見たことがない。
「いい加減笑い止んでくれません?」
 さすがにむかついた降谷がげしげしと容赦なく足を蹴っていると、やっと赤井が上体を起こした。長い指先が目尻に滲んだ涙を拭う。
「久しぶりにこんなに笑った」
「僕もこんなに笑われるとは思いませんでした」
「悪かったよ」
「じゃあ協力しろ」
「もちろんだ、できることならなんでもしよう」
 で、なにをすればいいんだ? と赤井が尋ねると、降谷はずっと不機嫌そうに組んでいた腕を解いた。気持ちの切り替えが上手い彼らしいさっぱりとした口調で言う。
「好きな人ができた、ということにはなってるけど当然そんな人はいません。だから、振られたことにしようと思ってて。傷ついて憔悴してる様子を見せて、恋愛も結婚もしばらくは考えられない、そんな感じでがむしゃらに仕事に打ち込んでるところを見せればたぶんいけます。みんな優しいんで」
「それで?」
「はい?」
「そこのどこに俺が出てくるんだ」
 きょとん、と降谷は丸い目を瞬かせ、首を小さくかしげた。
「え? だからその振る相手が赤井です」
「降谷くんが俺を振るのか?」
「話聞いてました?」
 赤井はくらくらと目が回ったような気がした。つまり、俺が、きみを、振る? と文節ごとに区切りつつ言うとあっけらかんと降谷が頷く。
「振ったことにしといてください」
「俺に公安の連中の恨みを買えっていうのか!」
「やだなー、絶対そこまでしませんって。人のプライベートに踏み込むほど良識のない人たちじゃないですよ」
 降谷はご冗談をといった雰囲気でけらけらと笑っているが、赤井からしてみればどうだかといったところだ。もしかしたら何事もなくそれで上手くいくかもしれないが、上手くいかないことだって十分にあり得る。もともと彼らの赤井に対する心象はあまり、いやかなり良くないことを考えるとそんな多大なるリスクを負いたくはない。
「ちょっと待て、振られるところまでやらなくてもいいんじゃないか?」
「というと?」
「好きな人ができたー、と言って相手は架空のまま、のらりくらりとかわすのはどうだろう」
「それだと特定しようとされたときにばれるんですよ」
「思いっきりプライベートに踏み込んでるじゃないか!」
「あれ、ほんとだ」
 降谷はそれきり、うーん、と唸って黙りこんでしまった。赤井は天を仰ぐ。他人事だと思ったからこそ先程はひどく笑ってしまったが、自分も巻き込まれるとなると話は別だ。しかし思い出すだけでやはりめちゃくちゃおもしろい。ここまできたらとことんやってやろうじゃないか、とよくわからない対抗心が赤井のなかで燃え上がる。もはや自棄だった。
「降谷くん、提案なんだが好きな人というのは俺ということにして、それで追及をかわしてみては?」
 降谷は一瞬、いいのか? というような顔をしたが、すぐさま赤井が自分で言うならいいのかという顔に変わった。そんな思いきりの良いところが赤井からするとなかなか好感度が高い。
「それだとなんかこう……」
「嫌か」
「いや、守りに徹するのは性に合わないんですよね。逃げてるみたいで癪っていうか」
「そしたらいっそ、付き合っていることにするか」
「あ、そこまでいっちゃいます?」
 あはは、と降谷が笑った。しかしすぐさま、でも、と口許に手を当てて考え込む。
「それだと逆に、今後どうなるかということで波紋を呼ぶ可能性が出てくるな」
「確かに。仕事はどうするのかということで気を揉ませそうだ。実際はなにもないが」
「そうなるとめんどくさいですね。万が一にも話が大きくなったら厄介だし……。実際はなにもないけど」
「そもそもなんで相手が俺なんだ」
「そこいま聞きます?」
「一応」
 うーん、と呟いて、降谷は塩漬けに手を伸ばした。もぐもぐと口を動かしながら、フォークの細い柄を指先でくるくるといじっている。
「お断りプランを考える段で、なるべく人に迷惑がかからなく、かつみんなの気持ちを傷つけないように、穏便に、でもはっきりきっぱりと、この一連のお見合い騒動を終わりにしたいなって思ってたんですよ」
「うん」
「で、女性はまじで無理だなと思って」
「そうか?」
「そうですよ。どう考えてもこの経歴事故物件すぎだろ、じゃあ真純さんと結婚するって言って俺がきたらどうします?」
「真純はやらん」
「でしょ。娘が俺みたいなの連れてきたら俺だって絶対許さないと思うもん。娘いないけど」
 あはは、とさっぱりと笑って降谷はワインを足した。あんまりあけっぴろげに降谷が言うものだから赤井はすこし心配になったのだが、すぐさまそんな必要もないなと思い直す。つまり、降谷の自己評価が低いのではないかということについて。しかし彼が自分を卑下するような類いの人間ではないことは以前からよく知っているし、一連の話のなかでも降谷は自己評価と客観的評価を切り離して話していたので、それがまったく見当違いな心配であることを赤井はちゃんとわかっていた。
「でね、赤井ならなんかこう……遠慮しなくていいかなって」
「おい」
「嫌だったら絶対はっきり言ってくれるし、それなら協力してもらうことになってもならなくても後腐れもなさそうじゃないですか」
「ああ……そういう」
「俺も幸せにはなりたいんですよ。だから未来への希望を残しつつ、でもお見合いはこないようにしたくて、この計画を思い付いたわけです」
「なるほどな」
 未来への希望、と赤井は小さく繰り返した。あまりにいろいろなことがあった人生だった。人並みの幸せを願うのは当然のことだろう。
「降谷くんはどういう人がタイプなんだ?」
「うーん、自分がしっかりしてる人かな。あとはある程度自分の身は自分で守れるかんじであってほしいかも。それからこんな仕事でしょ、理解がないと厳しいんで、………………これ蘭さんと真純さんですね」
「新一に怒られるぞ。あと真純はやらん」
「わかってますよ冗談です! そういうあなたは?」
「まあ、似たようなもんだな。あとははっきりした性格のほうがいい」
「あー、わかります、俺ぐずぐずしてる人ほんと嫌いで」
それからやいのやいのといい年したおじさん二人で縁遠い恋愛話に花を咲かせたのだが、一本目のワインがなくなった段で二人は本来の話からだいぶ脱線していたことに気づいた。二本目を取り出してからさて、と仕切り直す赤井に、降谷がすみませんと小さく謝る。
「降谷くん?」
「あの、大丈夫です。やっぱり自分でなんとかします。逃げるのは癪とか言ってられないし、やっぱり赤井にも迷惑かけるし」
 俯く降谷を見ていたら、断るのがもう面倒だと言いつつも周囲が自分のことを思ってしてくれていることを嬉しく思っているのも本心なのだなと伝わってくるような気がした。なんとか力になってやりたい、と赤井は拳を握る。あの降谷がせっかく自分を頼ろうと思ってくれたのだ。
 一方降谷は、自分だけで突っ走って赤井を巻き込んでしまったことを後悔しはじめていた。きっと赤井のことだから、知ってしまった以上はできる範囲で力になろうとしてくれるだろう。さらりと気遣いをしてくれるような男だからこそ、それが申し訳ない。ならば赤井にデメリットが生じるようなものはだめだ、それからちゃんとメリットだってないと。でないと、こんな面倒事に巻き込むわけにはいかない。
 そう思った瞬間、それは天啓のように降谷の頭に降ってきた。がばりと顔をあげると、驚いたように赤井が目を丸くした。
「結婚……?」
「は?」
「結婚、そうだ、赤井、結婚しましょう! 事実婚! どうですか!?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ最初から説明してくれ」
 これしかない、これだ! 降谷は興奮していた。グラスに残ったワインをごくりごくりと勢いよく飲み干し、皿を脇にすこしずつどかしてスペースをつくる。立ち上がり持ってきたのは昨日の朝刊に挟まれていたスーパーのチラシだ。整理しましょう、と言って降谷はそれを広げる。
「まずはメリットとデメリットの整理から」
「メリット?」
「巻き込んでごめんなさい。でも、赤井のことだから力になりたいとかって思ってくれてるんでしょ?」
「いや、うん、そうだが」
「本当にありがとうございます。だったら、お互いにメリットがある計画がいいじゃないですか」
 そう言いながら降谷は横置きのチラシに、フリーハンドとは思えないまっすぐな線を引いて表をつくっていく。赤井、降谷と書いた下にそれぞれメリット、デメリットの二つの項目を書き、計画を書く欄と合わせて計五つの縦欄ができあがった。
「まず、最初の振られる計画ではあなたにメリットがないので却下です。好きな人が赤井計画と付き合ってる計画も赤井にメリットなし」
「別にメリットはどうでもいいんだが、」
「まあ最後まで聞けよ」
 赤井メリット欄に「なし」、赤井デメリット欄に「みんなからのちょっかい」と書かれたのを見て、赤井はくすりと笑った。ちょっかいとはなんとも慎ましやかな表現である。降谷は赤井をちらりと見たものの特になにも言うことはせず、降谷メリット欄に「お見合い話がなくなる」と書き、降谷デメリット欄に「赤井にわるい」と書く。それから振られる計画、好きな人計画、付き合っている計画を大きくバツ印で消した。
「ここで、事実婚計画」
 一番下に書かれた事実婚という三文字が赤井にはひどく浮いて見えた。降谷メリット欄に「お見合い話がなくなる、深くは突っ込まれない」と書き、赤井メリット欄に「日本にいる間の住居と食事」と書いた降谷はきらきらした笑顔で赤井を見る。
「協力してもらう以上、やっぱり報酬……っていったらあれだけど、リターンがないとだめだよなって思って。ここでよければ一緒に住んでもらっていいんですけど、どうですか? もうお互い遠慮もなにもいらないでしょ。お互い仕事が仕事だから、そこはいままで通り配慮しあうかんじで。男同士っていうのも事実婚の説得力が増すと思うんです。婚姻はできないけど同じ国にいる間は同棲して、みたいな。相手が赤井だってばれても、それなら仕事はそのまま普通に続けるんだなってわかるし。食事も可能な範囲で作り置きしときます!」
 なんて名案なのだろうと目を輝かせる降谷と対照的に、赤井の眉間には深々とした皺が刻まれていた。それを見て、ぶんぶんと左右に振れていた降谷の見えない尻尾の振れ幅が少しずつ小さくなり、終いにはしゅんと元気なく下がった。
「すみません、あはは、さっきの一気のみで酔っぱらっちゃったかな。悪のりでした」
 重くなりそうな雰囲気を払拭するかのように明るく笑いながら、降谷がチラシを片付けようとてを伸ばす。その手をぱしりと掴んだのはほかでもない、赤井だった。
「住まわせてくれるのは本当にありがたい。けれど、食事まで君の負担になるのは不均衡だろう。料理は担当制にするべきでは?」
 まあ、きみのほうが断然料理は上手いが……、と照れたように笑う赤井に、降谷は思わず自分の手を握る左手を空いたほうの手で握りしめてしまった。
「あ、赤井……!!」
「本当にいいのか? 正直俺にメリットがありすぎるだろう」
「いいんです、いいんです、むしろありがとうございます! こっちこそ本当にいいんですか?」
「もう滞在先の予約をしなくていいと思うと晴れ晴れとした気分だ」
「赤井、あかい、本当にありがとう……! これでもうみんなに手間をかけず俺もお断りに煩わされず、赤井にもメリットのある関係なんて最高じゃないか!?」
「きみの力になれてうれしいよ。そうだ、他の家事分担もあるしそこも勘案しつつ担当を決めるのがいいと思うんだがどうかな」
「細かいことはまた明日決めましょう! 今日は泊まっていってください、たくさん飲もう、ほら!」
 にこにこにこと満面の笑顔でワインを注ぐ降谷に、赤井は指先がぽかぽかとあたたかくなるような気持ちがした。最初の降谷のかたい表情を思い返し、自分の選択は間違ってなかったと思う。本当によかったな、とあたたかい気持ちになりながら塩漬けに手を伸ばす。対面の降谷もオリーブをつまみ、おいしい、とうっとりした声で呟いた。
 赤井には知る由もないが、その頃、内なる降谷はあまりにうまくいきすぎて両手を突き上げて叫びだしたい気持ちを必死にこらえていた。計画通り。事実婚というアイデアが浮かんだ時点で、もうこれしかないと思った。となればなんとしてでも赤井の首を縦に振らせなければならない。もし断られそうになっても、しゅんとしてしおらしくして見せればきっとなんか妥協点を見いだしてくれるはずだ、という降谷の目論見は的中していた。なんせ赤井は長男気質なのだ。
 まあ、どう思っていたとしても本当にありがたいと思っているのは本心に変わりないので、降谷はふーっと肩の力を抜いて背もたれに全体重を預けた。
「でも本当によかったー、これできっとなんとかなります」
「きみの頼みだからな、できる限り力になりたいと最初から思っていたから」
「赤井ってなんだかんだ面倒見いいですよね。お兄ちゃんだから?」
「そうかな……そうだ、家族へはどうする? すぐにではなくとも話を通しておいたほうがいいだろうか」
「そうですね……、そこは明日しっかり詰めていきましょう。ともかく、これからもよろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
「この局面、俺は絶対に乗り越えます!」
 立ち上がりがっちりと握手をした。二人は、明日から事実婚を始める。

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