幕間

 じんわりと服の下に汗をかく、そんな夜だった。
 アルコール摂取という事故によってふにゃふにゃになって意識が怪しくなった燐は、ゆすったところでまったく起きやしない。さっきまでけたけたと楽しそうに笑っては酔っ払い特有の甘ったるい声と怪しい呂律で脈絡なくいろんなことを話していたのに、ことり、と子供のように寝てしまった。ぐでんと体を横にしているが折れ曲がり方がほぼ直角だ、脇腹あたりは苦しくはないのだろうか。そんなふうに思っているかたわら、燐はなにかうにゃうにゃ言ってはいるもののそれは要領を得ない言葉未満のものだから、なに言ってるか全然わからん、と思わず志摩は笑ってしまう。
「ほらー起きて、せめて部屋までは自力で行ってや」
 かなり乱暴に肩を揺さぶりつつそう言ったところで、帰ってくるのはすやすやと気持ちよさそうな寝息のみ。典型的な酔っ払いであった。たいして酒に強くもないくせに、楽しくなって調子に乗ってあるときぷつりと糸が切れるタイプ。まあ、気持ちよさそうに眠っているだけだから無害と言えば無害である。
 酔っ払いの相手は慣れている。家族、親戚、血縁はないが血縁じみたほぼ身内、高校に入って家を出るまでずっと大勢のなかで囲まれて生きてきた。年末や正月、法事、誰かの結婚や出産、ほかにもいろいろな折に。なにかにかこつけて大人は酒を飲み、そして一部は潰れる。お屠蘇と甘酒しか飲んだことはない、などという優等生ではなかった。治外法権や、なんて酔っ払いの誰かの戯言にかこつけていつだったか口にした瓶ビールのぬるさと苦さを、漠然と志摩は覚えている。すぐに父に見つかって取り上げられ、自分のコップにビールを注いでくれたその人は父にやめてくれやまだ中学生やぞ、と文句を言われていた。そのときテーブルに散らばっていた蓋が、栓抜きに加えられた力で微妙に歪んでいたのをやけにはっきりと覚えている。

 中学生。大人でも子供でもない中途半端な年頃。こうあるべしと目の前に続いているレール。堅苦しくて息苦しいなにか。
 ぬるいビールは決してうまいものではなかったが、口にしたその一口はどこか現実逃避じみていた。

「なー、ほんと起きて、一瞬でいいからー」
 さすがにこんなとこに放置してくわけにもいかん、と思う自分の変わり身の早さに苦笑いしか出てこない。ついさっきまで適度に距離を取ってつかず離れず、そう思っていたはずなのに、まったく吹けば飛ぶような意思の強さだ。五男という気楽な立場がそうさせるのだろうか? 身軽で奔放で、しかししがらみというものから自由になりきることもなく。
 この双子のまわりにはたくさんしがらみがあるように志摩には思えた。今のところ、弟のほうにとっては足枷に、兄のほうにとっては命綱になっているらしいが。しがらみなんてないほうがいいに決まっている。しかし、うざったくて面倒で仕方がないはずなのにどうしたって湧いてきてしまう情というものを、志摩は嫌っているわけではないのだ。
 じりじりと蝉が鳴いている。肩をゆする腕が汗をかいている。夜風が吹いて、燐の前髪を揺らしていく。はあ、と吐き出したため息には呆れと笑いが混じっていた。いつになったら起きるんだほんとうに、そう思いながらひとまず先に空になった弁当を捨ててこようと立ち上がり、のんきな酔っ払いに背を向けた。あれだけゆすって声をかけてもまったくぴくりともしなかったくせに、二つの容器と割り箸を拾い上げたときのわずかな音に、燐がんん、と眉間に皺を寄せながら微妙な声を上げる。
「奥村くん? なあ起きてー、部屋行こ、俺もう風呂入って寝たい暑い」
 これ幸いと再び弁当箱を地面に置いて近寄り声をかけるが、燐はそれには答えない。なにがおかしいのか、へへ、と笑った。
「なに笑ってんの」
「へへ」
「へへじゃないよもうー」
「しまぁ」
「はいはい志摩くんですよ。奥村くんもう明日朝風呂入り」
 適当にいなしつつ燐を引き起こし、だらんと力の抜けた腕の下に自分の体をくぐらせる。するとさすがに協力する気はあるのか、燐の体がいくらかしゃんとのびる。あくまでいくらか、であり、自分の足で立って歩こうとする意思は感じられる程度ではあったが完全に脱力されるよりはましだ。ほぼ引きずっているようなもんだが仕方あるまい。そんなことをつらつらと考えている志摩のすぐ真横で、燐が嬉しそうにしま、と声に出す。
「しまはいいやつだなあ」
 その瞬間、驚いて燐の右手がすっぽ抜けてしまったが、それは仕方ないことであっただろう。危うく地面に落とすところだった。いいやつ! たかが酔っ払いの寝言だ、しかし無意識のもとで発せられたその言葉は、確かに志摩にとって衝撃だった。
「はやとちりやなあ」
 燐の鼻を空いた左手でつまんでみると、ぎゅうと眉間に皺が寄っていく。それがおもしろくてつい笑ってしまい、ぱっと手を離して解放してやった。もう一度燐の手を掴みなおして担ぐのに収まりのいい場所を探すが、そのうちにもう面倒になってよいしょと声を出しつつ背負いあげた。さすが男子高校生、それなりに重い。燐のやわい髪が首筋をくすぐる。左肩の重みに笑みをこぼし、志摩は歩き出す。面倒やなあ。そう言いつつも、志摩にはこの背中のお荷物を放り出すことはできなかった。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!