食う寝るわらう、喪に服す

 愛車をうしなってしまったので、随分と久しぶりに電車に乗った。ゴールデンウィーク明けの車両は、型にはまった黒いスーツは脱ぎ捨てたものの相変わらず扉の付近に固まってしまう新入社員たちで混雑している。初夏。彼ら彼女らも今に通勤ラッシュに慣れて、扉付近で踏み止まることはせず、奥へ奥へと押し流す波に身を任せるようになるのだろう。あんなことがあっても、世界は何もなかったように日々を送っている。人間はしたたかだなあ、と思う。

 ちょうど一週間が経った。怒濤の一週間が過ぎれば肌を焼くような緊張感も、薄氷の上を駆け抜けるような興奮も欠片も残らない。どこかへといってしまう。もっともそれは生きていくためには非常に大切なことで、どんなときでも自分の立ち位置を見失わないことでうまくバランスを取っている。眠る前に毎日繰り返す習慣。その日にあった突出した出来事や突沸した感情の、鋭くとがった部分が風化して丸くなっていき、水平な一本の線に吸収されていく様子を思い浮かべる。あるいは、めちゃくちゃに振れていた振り子が、次第に左右に規則正しく揺れるようになり、そして静止に向かう様子を思い浮かべる。ニュートラルな場所を持つということ。ぴったり足幅しかない平均台のうえを歩くには必要なことだ。
 五月八日の目覚めは午前四時も半ばを過ぎたころだった。新聞配達のバイクが走り抜ける音が聞こえる。窓の外はかなり明るくなっていた。ベッドサイドに手を伸ばしてスマートフォンを取り、親指を十字に動かして検索してみれば日の出まで十分程度らしい。一昨日の日の出は四時四十四分だった。ついこの間までは日が出るのは遅く暮れるのは早かった気がするのに、毎年意識の外では規則正しく日の出の時間と日の入りの時間は変動している。律儀なことだ。小学生のときに使った、昼の長さと夜の長さを表したグラフをぼんやりと思い出す。もう一度目を閉じ、ベッドの上にスマートフォンを放り投げる。朝と夜が徐々に入れ替わるのは自転のおかげ、夏と冬が入れ替わるのは公転のおかげ。我々の意識の外で地球は回り続けている。ありきたりな言い方だけど。
 起き上がり、ベッドの上から身を乗り出してカーテンを開ける。東の空のうつくしいグラデーション。今日もまた、日がのぼる。

 からんからん、とドアベルが鳴る。いらっしゃいませ、とにこやかに微笑み振り返ると、店内に滑り込んできたのは予想外の人物だった。ピンクブラウンの髪が、強い風に吹かれてふわふわと揺れる。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 挨拶をすると、彼は面食らったのか少し間が空き、それから軽く会釈をした。沖矢を奥のテーブル席に通し、いつものように丁寧にグラスを置く。そんな動作のひとつひとつに彼は驚いているらしかった。なかなかこじれた関係にあることは自覚しているし、普段はもう少し棘を内包した態度をしていることも自覚している。確かにこんなふうに普通に接せられたら驚くのも無理ないかもしれない。ふっと空気が緩むように笑ってしまい、目の前の男はいっそう驚いた顔をした。
「……珍しいですね」
「そうですか? いや、そうですね、すみません」
「今日はずいぶん機嫌が良いようだ」
「はは、そうかもしれません」
 オーダーを取り、会釈をしてカウンターの内側に戻る。サイフォンの内側を細かい泡が立ち上る。斜陽が窓の外を橙に染めている。この店内では、外界よりも時間がゆっくりと流れているようだ。
 沖矢昴が赤井秀一であること。今となってはもはや自分の中で確定事項となっているそれについて、なぜだか今日は追究する気が起きなかった。彼はきっと赤井だし、彼が違うと言い通すのならそうなのだろう。そういうこともある。今は別にそれでいい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 右手でサーブしたコーヒーの水面がゆらゆらと揺れる。いつもと違う自分の態度に、彼の調子は幾分狂っているようだった。
「ゴールデンウィークの件、沖矢さんは大丈夫でしたか?」
「え?」
「ほら、電化製品が暴走したりしていたでしょう。院生さんだったらパソコンとか壊れていたら大変だったんじゃないかなと」
「ああ、すぐに保存をかけていたのでなんとか無事でした」
「よかったですね」
「あんなことがあったのに、もう何事もなかったかのように日常に戻っている。平和ですよね」
「ええ。でも、良いことです」
 店内は適度に賑わっていた。中年の男性がひとり、大学生カップル、小さな女の子を連れた母親。いつもの風景。いつの間にか、この小さな喫茶店はよく知るものとよく知る人で溢れている。
 平穏な春の終わりに起きた文明の利器たちの反乱は、いまや人々のなかでは遠い記憶の彼方だった。日下部誠の名がワイドショーを賑わすことはなく、はくちょう帰還にまつわる様々な人たちの様々なドラマの特番が組まれ、各国要人はサミット後のスケジュールを淡々とこなし、その影で何人かが激務に倒れ、少なくない家庭で車の修理費が家計を圧迫しているだろう。
「一週間前のことなのに、もっと前のことみたいだ」
「ええ、本当に」
 毎日いろいろなことが起き、終わり、迎えた端から過去になっていく。たった一週間前の事件も、二年前の出来事も、どちらも記憶に紛れていつの間にか同じだけ曖昧になっている。そうして誰もがばらばらの方向を見ながら、同じ社会で生きている。それは遥か昔から変わらず、きっとこれからも変わらないことだった。カウンターの奥では、いつもの手順で、榎本梓がナポリタンをつくっている。

 日の落ちる時間が、随分と遅くなった。冬の間は午後六時といえばもう夜のとばりが降りきっていたのに、いまや夏至に向けて日は延びる一方だ。薄い三日月からすこし視線を動かせば宵の明星が瞬いている。
「降谷さん」
 缶コーヒーを片手にぼんやりと暮れゆく空を見ていたところ、名前を呼ばれる。いつもよりも幾分緩慢な動きで顔を向けると、当然のようにそこにいたのは風見だった。
「お待たせしました」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
 数日前に会ったときよりも風見の顔色はよくなっていた。その様子に少なからず安堵しつつ、腰かけていたソファから立ち上がってずいっと紙袋を差し出す。
「差し入れだ」
「いいんですか?」
「いいよ。風見はいつもうまそうに食べてくれるしな」
「ではお言葉に甘えていただきます」
 風見は会釈をしてから両手で紙袋を受けとり、中に積み重ねられたタッパーをのぞいた。
「なんですか?」
「今日は中華」
「いつもいつもすごいですね。ありがとうございます」
 タッパーはもう何回も二人の間を往復している。はじめて風見に差し入れをやったとき、彼は降谷さんも分量見誤ったりするんですねなんて言ったが、一人分だけの料理を作るのは大変なんだよと返して以来そういうことは言わなくなった。最初のうちは申し訳ないですとよく繰り返していたが、あるときからはありがとうございますと感想だけをしきりに口にするようになった。
「おいしくいただかせていただきます」
 物分かりのいい、利口で、それでいて人に好かれやすい男だ。同僚や部下からすれば分かりにくいところもあるのだろうが、上に気に入られやすいタイプだと思う。なつかれればなつかれた分だけかわいがりたくなる。風見はそういう、器用で、それでいてその器用さが鼻につかない男だった。落ち着かない様子で紙袋を抱えていた、予想外だと書かれた顔は、今となっては少しだけ懐かしくもあるけれど。
 きっと彼は、良い恋人になり、良い夫になり、良い父親になるだろう。こんな仕事をしていても結局最後は人柄だということだ。
「……恋人ができそうになったら早めに教えてくれ」
 何の気なしに言うと怪訝な顔をされた。脈絡なんてないのだから当然だ。おかしくて少し笑ってしまい、風見は一層不思議そうな顔をした。
「はあ、はい、それはまたなぜでしょうか」
「誤解させたり、されたりしたら困るだろう」
「……もうながらく、そのような相手はいませんが」
「だからできそうになったらと言っただろう」
「降谷さんにお伝えしたら数時間でどこの誰か知られそうですね」
 そう言って笑う。かわいい部下。
 はじめて風見に差し入れと称してタッパーを押し付けたのはもう随分と前のことのように思えた。人と食卓を囲む機会がめっきり減って、一人の部屋に響くいただきますとごちそうさまの空虚さをうっかり直視してしまって、そうしてその足で百円ショップにタッパーを買いに出掛けたのだった。「感情がなくなることはないのだから、それを制御する術を身に付けるべきだ」、いまや生きるための鉄則とも信条とも言えるその言葉を脳内で反復し、いつものように上下左右にめちゃくちゃに揺れる振り子を思い浮かべた、午後九時。赤信号。ウインカーの音。収束していく感情の波。
 衝動を理性的に飼い慣らす方法を、いつしか息をするように扱えるようになっている。
「降谷さん」
 先程よりも幾分固い声で名を呼ばれた。七日。まだ、たったの七日だ。
「新しい車はどうなさるんですか」
 会話の糸口としてはまあまあだなと思う。窓の外、空の色はわずかに夜を濃くしている。
「数日中にどうにかする。いつまでもないわけにはいかないから」
「違う車種ですか」
「さあ……どうだろう。でもまあ、また同じのを選ぶような気がする」
「……降谷さんでも決めないままでいることがあるんですね」
「いったい君は僕をなんだと思っているんだ」
 笑いながら言うと、やっと風見の表情がほんの少しだけ和らいだ。だからそれ以上は言葉を重ねず、もう行くよ、とだけ言った。
「お気をつけて」
「風見もな」
 夜がきて、夜が明けて、世界は何事もなかったように続く。それだってひとつの幸福なのだと、気づいたのはいつのことだっただろう。

 なぜだか無性に歩きたい気分だった。地下鉄を降りて改札を抜け、立ち並ぶビルの明かりを視界の端に捉えながら、いつもよりもゆっくりと歩く。働く人々の明かり。東京の街はいまやどこもかしこも不夜城だ。
 初夏。まだそれほどの湿気はない。夜になれば風が涼しくて、薄い布団にくるまって眠るのが気持ちいい。存在をすっかり忘れていた紫陽花の葉が緑の色濃く繁っているのに気づく。毎年の繰り返し。梅雨の時期には独壇場とでもいうように景色を彩るのに、それ以外の季節の紫陽花のこの存在感のなさはなんなのだろう。
 本人の知らぬところで番号で呼び分けられている協力者たちにも、カジノタワーで九死に一生を得た多くの人にも、あの爆発で亡くなった者たちにも、家族や友人がいて、大切な人がいて、警察官という生きものはそういう人たちの命を背負い、同時にうしなわれた同胞の命の上に立っている。人は誰しも業を背負っているのだ。その業のかたちが、人によって違うだけで。
 天気予報では春の嵐が列島を襲うと言っていたけれど、今年のゴールデンウィークがそれほどの大荒れの天気にはならなくてよかった。炎のなかで息絶えた彼らの煙が立ち上る先が豪雨だったらあんまりだ。せめて少しだけでも、雲の合間から青い空がのぞいていてほしいと思う。
 風見なら――、今でもああした表情を見せる風見なら、きっと正しく喪に服すことができるだろう。いや、本当は正しさなんて尺度はどこにもない。彼がちゃんと同胞を悼むことができることを、ただそれだけを祈る。
 何かに直面したとき、往々にしてやるべきことがあるほうが楽なのは自分達に限ったことではない。考えなくて済む。途方もない感情にうちひしがれるよりも、何かに追われているほうが平静を保っていられる。やるべきことのために動いているとき、主観的な感覚というのは、薄い硝子の向こう側に追いやられているようなものだ。その傍らで、醒めきった頭が事態の分析と展開の予測ばかりを淡々と処理していく。そうして、その処理の合間にふと、感覚を隔てる硝子なんて初めからどこにもないことを思い出してしまうのだ。
 胸が潰れそうなほどの悲しみも、叫びだしたいほどの苦しみも、かつて自身も経験したことだった。夜だったからか、血の色が思ったよりも黒く見えたことは今でもはっきりと覚えているのに、もう触れた肌の冷たささえも思い出せない。もう二度と夜明けなんてこないような気さえしたのに、変わらず東の空の朝焼けはうつくしかった。喪失感のなかでも、毎日食事をし、眠り体を休めて、そうしているうちに規則正しく時間は過ぎ去っていく。
 ふと、足が止まった。止まったら、久しぶりに孤独が背中に追い付いた。
 あ、良くない。頭をよぎる予感を捕まえて目を閉じ、たっぷり五秒かけて息を吐き出してから胸の奥まで吸い込み、ゆっくりと深呼吸をする。そういうものだ。孤独なんて誰にだってある。そういうもの。大切なのはバランス感覚。一本の白線の上をまっすぐに歩いていくような。自分に言い聞かせるように考えながら、息を吐く。振り子の振れ幅が次第に小さくなり、やがて静止する、そういうイメージ。
 目を開ける。もう大丈夫。トラックとバスが続いて通りすぎ、ライトの残像がちかちかと光った。また、先程までと同じテンポで歩き出す。
 時折、ふとした瞬間に、延々と続く壁の前にぽつんと一人立ち尽くしているような気持ちになる。勿論そんなものはただの幻想で、相手取るものがどんなものであっても自分の実感のある生活と地続きであることには変わりないし、そういう感情がむくむくと鎌首をもたげたときでさえもそんなことはわかりきっているのだ。かえって総体を捉えるべきだという認識でいるから、自分のしていることがすっぱりと世界から切り離されているように思うのかもしれない。
 飲食店の喧騒が、やさしく夜に溶け出している。
 普段は車に乗ってしまうから、たまに歩くと景色がいつもとは違ったように見える。生まれ育ったのとは違う町。似たような町。いま、生活を送っている町。あたたかい人も道を踏み外した人もいっしょくたに生きている町。仮住まいくらいにしか思っていなかったはずなのに、いまや想定の何倍もこの町に馴染んでしまった。「こんなはずじゃなかった」と「これも悪くない」が天秤の両皿に乗って共存している。いつかこの場所を後にするとき、きっと自分のことを安室と呼ぶ人々は別れの重荷になる。そうして別れたあとになって、ともすれば見失いそうな生身の生活へと自分を繋ぎ止める重石になるのだろう。
 人間の差異なんて微々たるものだと教えてくれたのは初恋の人だった。感情をなくすなんてできもしないことを足掻くより、うまく折り合いをつける方法のほうが役に立つだと教えてくれたのは友人たちだった。経験も助言も、故人も生者も、ひとつひとつ挙げることはもうできないくらい自分の一部になっている。切り離せないものたちによって形づくられ、彩られる日々のなか、その一方でいつまでも異物であり続ける存在もいる。自分のなかに溶け込んでくれない存在――赤井秀一。
 自分のペースを乱す唯一の存在ともいえる男が、今や回帰するべき基準の一つになっているのはとんだ皮肉だった。どんな状況にも冷静に理性的に対処するべきだという行動指針を一切無視した、降谷零個人としての因縁。いや、もはや執着といったほうがいいのかもしれない。そしてその、理性を度外視した執着こそが、どんなときにも揺るがぬ定礎の一つになっているのだった。
 自分がしていることは、その実本当は何も世界を変えてなどいないのではないか。そんな考えが脳裏をよぎるたび、たとえそうだとしても、それでも誰しも自分の人生を生きているし、後から振り返った誰かが日々の消費に過ぎないと評価したとしてもそんな批評は主観には何ら関係ないのだと思い直す。人ひとりが何をしたところで世界は変わらず同じペースで回り続ける、個人と社会は断絶しているようでいてその実いかなるときにも地続きだ、死んだら何も残らない、残らないが、きっと誰かに引き継がれるものがある。あるはずだ。
 極端な生き方をしていた結果、最低な男ひとりだけが自分の人生に残されてしまった。いつまでたっても理解できない相手。理解されてくれない存在。あの男のことを何も知らない、全部を知りたい、そんなことは不可能だ。螺旋階段のようにどこまでもぐるぐると回り続け終わることのない思考展開の上で踊り続けながら、いつかくるその日を思う。本当は早く、親友の笑顔を思い出せるようになりたいのだ。あんな、一度だけ見せた死に顔より。
 ぴたりと足を止め、門扉の向こう、明かりのついた窓を見つめた。その向こうにいるであろう男。沖矢昴だろうが赤井秀一だろうが、いつまでも逃げられてたまるかと思う。小さな町でニアミスし続けるなんて、らしくないじゃないか。
 喪失感がいつしか生活感に埋没して過去になっていく、そんな穏やかな生活、ありふれた日々。人が生きていくとき、瞬間の感情の鮮烈さを切り取って置いておくことはできない。記憶が色褪せるからこそ前を向けることだってある。それらだって確かにひとつの幸福なのだ。わかったうえで、そんな幸福ではもう、満ち足りることはできなくなってしまった。向き合って突き詰めて、至れるところまで至らなければ気が済まない。そうして至るのが焼け野原だとしても、赴かずにはいられない。いつもは正体の漠然とした大きなものを相手取っているからこそ、内面から沸き上がる衝動が抗いがたいほどの引力で自分を呼ぶ。なあ、そうだろう。温かな寝床で微睡んでいることだってできるのに、過酷な方へと駆り立てる声を無視できない。お前だって同じじゃないのか。
 夜空を爆発が明るく照らしたあの日から、一週間。肩の傷は概ね癒えた。情報というカードは既に手元に揃い、それらを最も効果的に繰り出す準備はとうにできている。息を吐き出し、またゆっくりと歩き出す。絶対に暴かれることのない秘密は秘密ですらない。秘密というものはいつだって、いずれ暴かれることが約束されている。彼の秘密。それに銃口を突き付けるのは、もう、時間の問題だった。

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