かたん、と小さな音を立てておかれたコーヒーカップと、真っ白なソーサーを、赤井はじいっと見つめていた。長い足を器用に組んでいるからか、降谷の体は少しだけ斜めになっていた。和やかな談笑、皿とナイフとフォークがふれあう軽やかな音、明るい太陽、くしゃりとたたまれたナプキン。だから、ね。降谷はもう一度優しい声を出した。
「ゴールなんてものは究極墓場なんですよ」
物騒なことを言っているわりにその声色がほんとうに穏やかで、赤井は降谷の顔を見ることができなかった。見たら、きっとみっともなくすがりついてしまうと思った。そういう無様は見せたくなかった。だから、できるだけ難しい顔を保ったまま赤井は降谷の手元にある真っ白なソーサーを見つめていた。
「わかるでしょう」
ああ、と重苦しい息が漏れた。それは肯定でも賛同でもなく、言葉にならなかった言葉の残骸のように吐き出された。
「……俺にはわからない」
その瞬間、降谷が小さく笑ったことだけが、その気配でわかった。
「そう。ぼくらはわかりあえない」
「だからなんだっていうんだ」
「だから、支障はないでしょ、って話」
わかるでしょう。もう一度降谷は静かに、穏やかに、そう言った。思い返せばもう一時間ちかく話しているのに、降谷も赤井も、ほとんど同じ言葉しか口に出していないのだった。いままでとなにが変わるわけではないのだから、これからも友人として良好な関係を築いていきましょう、と降谷は言った。いままでとなにが変わるわけではないのだから、その関係の名前が恋人だっていいじゃないか、と赤井は言った。たぶん、おそらくきっと、このテーブルで向かい合って座って話している限り、話はどこまでもいっても平行線のまま、交わることはないのだろうなと、二人とも、そう思っていた。
「支障のあるなしの話をしているんじゃないんだ、俺は」
「それもわかってます」
「じゃあ、じゃあきみはなにがわかっているっていうんだ」
そのとき、赤井は弾かれるように顔を上げた。随分と久しぶりに降谷の顔を見た気がした。
「赤井が、俺を好きだっていうこと。俺が、赤井のことを大切なひとだと思ってること」
「だったら、」
必死な声だった。降谷は笑っていたけれど、泣きそうにも見えた。それだけでもうなにも言えなかった。もう何年も、二人はよき友人であった。言葉にしなくても通じるような空気のようなものが二人の間にはあった。だから、この話が永遠に交わることはないということを、二人ともはっきりと理解していた。
気まずい沈黙を作りたくなくて、赤井はグラスの水に手を伸ばした。水のなかにふんわりとレモンのかおりがした。かたり、と音を立ててグラスが置かれたとき、降谷はこの話を始めたときと同じような穏やかな顔をしていた。赤井は、こんなことできみとの関係をうしないたくない、と言った。降谷はわかります、と言った。それから小さく、俺も同じだから、と付け加えた。
それだけだった。名前のない二人の関係になんの名前をつけるかという話は、そうして静かに終わった。
いうなれば窓から少し目を離したすきにあっという間に夜になっていたような、そういうスタートだった。二人はもう何年もよき友人だった。その友人という関係は、明確な区切りをもってして始まったわけではなかった。グラデーションのように、いつの間にか街灯がつきはじめるように、いつの間にか真っ暗になっていたように、そうして二人は友人になった。言葉にすることを、避けていた。無言のうちに察しているということに甘えた。雰囲気、横顔、そういう言語外コミュニケーションでよしとした。そうすれば平和でいられるからだ。二人とも、そういうずるさを身につけた大人だった。
家の鍵を開けて、降谷はゆっくりと深呼吸をした。いつもより長い時間をかけて吐き出すと、やっとざわざわと落ち着かなかった心が平静を取り戻していく気がした。やけに疲れていた。
なぜ、いまになって赤井があんなことを言いだしたのかわからなかった。
「なにがしたいというわけではないが。どうだろう、きみさえよければ、恋人にならないか」
なぜ? そう返した声はみっともなく揺れていなかっただろうか。今更、そんなことを言われると思わなかった。嫌悪感のようなものはまったくなかった。実際、赤井のことを降谷は好ましく思っている。手を繋ぐことも、抱き合うことも、特定の意図をもって触れることも、一緒に暮らすことも、きっとできる。でもしたいかというと話は別だった。だから、降谷の胸のうちを占めたのは困惑だった。自分のなかのやわらかく傷だらけの部分を赤井にはすべてさらした。たぶん一生理解はできないけれど、それでもこいつのことを知ってみたいと思っている。まめではないが、自分にしてはこまめに連絡を取ったりもする。それでも赤井の生活に、人生に、介入しようとはしなかった。一度たりとも。良好な関係を築いてきた。理性的で、穏やかで、平和で、面倒でない関係。いったいこれ以上なにを望むというのだ。
だから、降谷は行き先を塞ぐように言った。
「いまのままで、なにがいけないんですか?」
赤井は、言葉に詰まって黙った。そして言いよどむのをごまかすように視線を落とした。そうさせたのは降谷だった。そうさせるような言い方をした。それなのに、ひどい裏切りをはたらいたような気になった。心のなかでだけごめんとつぶやいた。赤井のことはすきです、それじゃだめなんですか、と言った。赤井はそういうことじゃないんだ、と首を振りながらつぶやいた。
「降谷くんをもっと深く知りたい」
「聞けばいいのに。全部答えるから」
「そうじゃない」
じゃあなんだっていうんですか、とのどのあたりまで出かかった言葉を、降谷の理性が体の奥に押し戻した。別の言葉を探した。それを言ったら、話が進んでしまうと思ったから。
「友人という関係に、支障がありますか?」
それは、ないが。赤井が言うのを聞いて、降谷はここに赤井も誰もいなかったら泣きたかったと思った。誠実でない物言いをしているのは、最初からずっと降谷だった。ずるい自分をゆるしてほしい、そう思うのに、赤井にそういう一面を見せることだけは絶対にしたくなかった。赤井はもう一度、もっといろんなことを知りたいと思ったんだ、と言った。降谷はもう一度、今のままでも大丈夫でしょう、と言った。
「ゴールイン、って言葉があるじゃないですか」
唐突に降谷がつぶやくと、赤井はじっと目を見て続きをうながした。でも結局のところ、その先の人生の方がよっぽど長くて、どちらかというとスタートにしかならないじゃないですか。ゆっくりと言葉を選びながらそう言うと、赤井は考え込むようにしながら、そうかもしれない、とうなずいた。沈黙を埋めるように手にした紅茶はいつもと同じ優しい味がした。評判を聞いたとき、赤井と行ってみたいなと思って降谷が連れてきた店だった。カップをおろしたとき、かたん、と小さい音がした。赤井は難しい顔をしていた。
「だから、ね」
うまくいけば終わりはこない。うまくいかなければあっさり終わりがきてしまう。別れても良好な関係というのは降谷にはまったく理解できない。だったら、終わりがこない関係のほうがいいではないか。
そういう行間をすべて丁寧に折りたたんだ。汲み取ってほしいからではなく、そういう思考回路を知られたくなかったから。そして、ゴールなんてものは究極墓場なんですよ、わかるでしょう、と言った。
今日あった出来事をたどってみれば、最初から平行線をたどっていた。同じだったのは、この関係をうしないたくないという気持ちだけだった。明日も仕事だ。明後日も、しあさっても、その先も。赤井に会いたい、と思った。今日会ってきたばかりだったのに、もう遠い昔のことのように思った。できるはずがない、とも思った。そういうふうに思ってしまう弱い自分が情けなかった。
いつの間にか八か月近くが経っていた。柔らかい春の陽気はもう彼方で、秋と冬の中間地点の、冷たい空気とぬるま湯のような心地よさの陽だまりがあたりにあふれていた。結局、二人はそれまでどおりの関係を続けている。あの日を境に、二人ともその話にはまったく触れなかった。そうすれば平和でいられた。ややこしい問題から目をそむけ、面倒な事態から逃げ出して、それをよしとするならば、平穏で、良好な関係でいられた。
赤井がまた日本にくるという連絡を受け取った午後、降谷はうれしくていつもよりも高いコーヒーを買った。その日に向けて、仕事と身の回りと心の整理をしなければいけないと思った。友人、という範疇から逸脱してはいけないと思った。親しき仲にも礼儀あり。帰宅が日付をまたいだあとでも、数日にわけて、降谷は家を少しずつ片づけた。きれいになった部屋を見渡せば満足感と達成感が湧きあがった。幸運なことに仕事も山を越えたところだった。厳密には山もなにもないのだが、とりあえず、なにごともなければ常識的な範囲で赤井と会うことができそうだった。安堵した。数日前までキャパシティの限界を目前に綱渡りをするような生活をしていたから、そこから抜け出して落ち着きを取り戻したあとに会えることに安心し、やっと素直に喜んだ。
降谷は、根本的に面倒を嫌う人間だった。面倒が嫌だったから人間関係のトラブルに巻き込まれないように生きてきたし、面倒が嫌だったから他人にどうにかしてもらわないといけないという状況に陥らないようになるべく自力でなんとかしてきた。気づいたときには、赤井はこれ以上ないほど最高の友人だった。共有した過去と境遇、同じような忙しさの仕事と同じような速さでくるくると回る頭、物事に対する似たようなスタンス。二人は決して似ているわけではなかったが、面倒を嫌い、他人になにかを求めるのが面倒で自分でなんとかするほうが楽だという、そういう考え方をするところは、ひどく似ていた。
赤井が日本に降り立つ日にも、降谷は仕事だった。出迎え行けなくてすみません、と降谷はメールを送った。何時間もたったあとに、気にしないでくれ、と返信があった。一日くらいならきっとなんとかなると、夕食の約束をした。用件だけのメールをできるときにするという、そういうゆるいペースのやり取りだった。昔から、雑談めいた連絡を際限なく続けるのが面倒で苦手だった。赤井も必要最低限のことでしか連絡を取らない類であることを本当にありがたいと思っていた。
約束の前日、突発的な仕事が発生した。次の日を逃したら、赤井と会う時間を作れそうなのはもう赤井が帰る日の前日だけだった。それは赤井の帰り支度に迷惑だろうし、彼のプランを乱したくはなかったから、なんとしてでも終わらせなければいけなかった。だから無理を押そう、そう思ったのだが、そうすれば二日後に体にがたがくるのは明らかだった。それだけは避けなければいけなかった。プライベートに振り回されてするべきことを疎かにする人間というのは、降谷がもっともなりたくない人間の一つだった。だから、降谷にできることはいますぐに赤井に連絡をとり、赤井に相談をすることだけだった。できれば電話がいい。複雑なやり取りをするのにメールは向かない。直接話したほうが、ややこしくならない。
コール音。四回。途切れて、聞こえる赤井の声。
「こんばんは」
赤井はこんばんは、と返した。挨拶が一致するのはずいぶんと久しぶりのことだった。夜遅くにすみません、いま大丈夫ですか、と降谷は言った。赤井は律儀だなと笑った。それから、大丈夫だよと付け加えた。
「ごめんなさい、明日なんですけど、どうしても行けそうになくなってしまって」
「イレギュラーか?」
「まあ、そんなところです。ごめんなさい」
「謝らないでくれ。しょうがないさ」
電話の向こうの赤井に気づかれないように、降谷はほっと息をついた。赤井ならわかってくれるのではという、そういう甘えをうしろめたく思いながらも、予想通りの返答に安堵した。もし逆の立場でも、赤井が急に仕事が入っても、自分も同じように言うだろう。邪魔にならず、干渉しすぎず、適切な距離感を持って、自分の生活を自分で完璧に制御できるような関係。理性的で、平和で、穏やかな関係。駆り立てるような激情も今更の変化も必要なかった。そんなもの、ほしくはない。
もう一度、本当にごめんなさい、と降谷は言った。赤井は小さく笑った。
「ほかの日も無理そうか? せっかくだから別の日に」
「えっと、もう帰る日の前の日しか無理そうで……。すみません、今回は厳しそうですね」
なぜ、と赤井の驚いた声がした。なぜって、と降谷は困惑しながら返した。
「俺は前日だろうが当日だろうが構わないよ。きみがいいのなら」
「僕は大丈夫ですけど、でも、支度とか」
「そんなのはどうにでもなるさ」
言い募ろうとして、やめた。これではまるで会いたくないようで、そういうわけではないからやめた。念押しのように、迷惑じゃないですか、と降谷は聞いた。念押しのように、なんなら離陸直前でもいい、と赤井は笑った。
降谷が銀座線の改札に着いたのは約束の十分前だったのに、赤井はもうそこにいた。驚きながら、赤井、と声をかけると赤井はゆっくりと顔をあげて、口許を綻ばせた。
「ごめんなさい、待ったでしょう」
「遠足前の子供みたいになっただけだよ」
「赤井が? なんで」
「最後に会ったのは春だったろう」
そんなことで、と降谷は言いかけたけれど、言うことはできなかった。あまりに赤井の横顔が明るいので、言えなかった。
改札を抜け、八割方吊革の埋まった電車に揺られながら、当たり障りのない近況報告と帰る頃には忘れてしまうような話をした。赤井はよく笑うようになった。それが嬉しかった。赤井は離陸直前でもだなんて言ったけれど、そうはいってもと早い時間に解散するつもりだった。選んだ店は赤井のホテルまで帰りやすい場所を選んだ。そのためだけに遠出をするのもそれはそれで面倒だったので、降谷もそれなりに帰りやすい場所ではあったけれども。
値段に見合う料理を食べながら日本酒を丁寧に飲んで、降谷の体温がすこしあがってきたころ、赤井が降谷くん、と丁寧に名前を呼んだ。なんですか、と顔をあげると、いつかのような表情をしていた。この状況をどうにかしなければ、そう反射で思ってすみませんちょっと、と目をそらしながら腰を浮かせて素早く通路に出ようとした。赤井の大きな手が降谷の手首を掴んだ。その左手には振りほどけるくらいの力しか入っていなかった。それなのに降谷は動きを止めることしかできなかった。どうすることもできなかった。ただただ、泣きたい気分だった。
「聞いてくれ」
「やだ」
「頼むよ」
「聞きたくない」
「降谷くん」
あまりに痛切な声だった。どうすることもできなかった。離して、そう言うと素直に赤井の左手は降谷を解放した。だから、もう一度赤井の正面に戻った。熱燗がぬるくなっていた。お冷のグラスは汗をかいて、氷は溶けきっていた。赤井は驚いた顔で降谷を見ていた。それから、ありがとう、と言った。
「この間の話、もう一度考えてくれないか」
「……」
「恋人になってほしいんだ」
腕を動かしたら箸にあたって、ころりと転がった。それだけのことなのに、ひどく動揺していた。
「この間も言ったけど、」
「別に問題があるわけじゃない。でも、」
「だったら別にいいじゃないですか!」
どうしたらいいんだ、と思った。赤井のことはすきです、それだけじゃだめなんですか、と言った。声は震えていなかったけれど、テーブルの下に押し隠した右手は震えていた。
「なにが変わるわけじゃないだろう」
そんなわけない、と思った。恋人になったら友人ではなくなってしまう。墓場に行く前に終わりがきてしまう。二人とも面倒を嫌う人間だ。他人に合わせることが壊滅的に向いていない。いままではうまくいってきたのに、すれ違って不満がたまってやっていけなくなるのがオチだ。だったら、駆り立てるような激情も、今更の変化も必要ない。手に入るかもわからない不確定なもののためにいまある小さな喜びをうしないたくない。なにかを望めばなにかをうしなう。自分でコントロールできないものに身を投じて、それをなくしたら悲惨だ。なにかをうしないなにかを犠牲にするかわりに得るかもしれない大きな幸福なんていらない。必要ない。そんなもの、ほしくない。ほしくないんだ。
「いまとなにか違うことがしたいんじゃない。ただ、きみと会ったり、きみに連絡をするのに理由を探すのはもう面倒なんだ」
「恋人じゃなくたっていいじゃないか」
「きみは、いつだって予防線を張っているだろう」
そんなふうにしなくていい関係になりたい、と赤井は言った。
「降谷くん」
「なんで、なんでいまさら……」
泣きたかった。誠実でない物言いをしているのは、あの日も、今日も、いつだって降谷だけだった。赤井はいつでも真摯だった。いっそキスやらセックスやらがしたいと言ってくれればまだどうにかできた。断われた。そうではなくて、いままでとなにも変わるわけではないと言われて、実際問題きっとキスもセックスもできるくらいには赤井のことがすきで、そうなってしまえばもう断る理由はなかった。いたちごっこみたいな押し問答をいつまで続けるんだ、と面倒くさがりな自分がささやく。甘えてさっさと受け入れてしまえとささやく。降谷は、根本的に面倒を嫌う人間だった。でも、それ以上に、うしなうことばかりに慣れた人生だった。
俺は、と震える声が漏れた。赤井はなにも言わなかった。
「俺は、ひとりで生きていきたい」
面倒が嫌だったから人間関係のトラブルに巻き込まれないように生きてきたし、面倒が嫌だったから他人にどうにかしてもらわないといけないという状況に陥らないようになるべく自力でなんとかしてきた。自分でなんとかすれば、なにも面倒なことはなかった。他人に振り回されることも、それで悲しい思いをすることも、傷つくこともなくてすんだ。他人に求めれば振り回される。自分の中で完結していれば完璧に制御できる。そうやって、穏やかで平和で理性的で、邪魔も干渉も介入もしない、そういう関係をずっと続けていきたかった。だって、そうすればなにも変わらない。変わらないで、ずっとうまくやっていける。
「ひとりで、生きていきたいんです。ひとりでもなんとかなるような人生を生きていきたい。これまでそうしてきたみたいに、これからも」
人はひとりでは生きられない、と赤井は言った。優しい声だった。知ってる、そういうことじゃない、と降谷は答えた。心の整理をするように、ゆっくりと息を吐き出した。わかっていた。ひとりで生きていきたい、と心からの一言を零した時点で、降谷はもう赤井にすべてをさらけ出すしかなかった。もう、煙に巻くような物言いやうわべだけの理屈でどうにかできる域を越えてしまっていた。もっと、大事な話をしている。
「自分だけでなんでもできるなんてさらさら思ってない。いろんな人にお世話になって、いろんな人のおかげで生きてる。それはわかってる。でも、誰かと付き合って、その人のために自分の生き方を変えることをたぶん絶対にできない。他人に合わせようと自分を曲げられない」
「それはきっと俺も一緒だ」
「ちがう、最初は一緒でも、すれ違って不満が溜まって、そのうちにもうやってけないっていつか決定的な溝ができる。……そう、なりたく、ない」
赤井はなにも言わなかった。降谷はゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。赤井は降谷に寄りかからない。降谷も赤井には寄りかからない。自分の問題を解決できるのは、自分だけしかいない。ひとりでも生きていけるようになりたいと思った。いまのところ、それは達成できているといってよいと思う。たぶんもう、今更変えられない。他人と生きていく、ということ。もしかしたらそこには今まで知らなかったような幸せや喜びがあるのかもしれないけれど、やっと得た友人をうしないたくない。面倒くさがりで頑固で自分勝手だと失望されたくない。天秤の皿はそちらに傾く。
「赤井のことはすきです」
三回目だな、と思った。
「それじゃ、だめなんですか」
赤井はふう、と息をゆっくりと吐いた。それを感じ取って、ああ、こんなことならぐちゃぐちゃめんどくさいことを言わないでさっさと付き合ってしまえばよかった、と悲しくなった。鼻の奥がつんと痛んだ。沈黙を埋めたくて、不揃いに置かれていた箸を丁寧に並べた。
「降谷くん、思うんだが、友人のまま恋人になることはそんなに難しいことだろうか」
顔をあげた。どういう、と疑問の声が自然と口から出た。赤井は言葉を探すようにすこしうつむきながら、ええと、と言った。そういう赤井を見たことはほとんどなかったから、なんだか新鮮だなと場違いなことを考えた。
「いままで、なんとかうまくやってきただろう。そのままでいいんだ。なにも変わらなくていいし、変えなくていい。自分を曲げたりなんかしなくていい。俺は、これまで付き合ってきたきみと、恋人になりたいと思ったんだから」
確かめるように、ぽつり、ぽつりと、赤井はそう言った。浮かべていた笑顔が不器用で、なぜだか、じんわりと涙がにじんだ。
「これまで通り、そのままでいいんだ。というか正直、今すぐじゃなくてもいい。きみが恋人になってもいいと思ってくれたときからでいい」
「……あなたほんとに僕のことすきなんですか?」
「失礼だな……」
赤井は小さく噴き出して、肩を揺らして笑った。今すぐ恋人になってくれないならそれで終わりなんてなると思うか、と笑いながら言った。それから、きみがその気になってくれるように努力するだけだし、待つのには慣れてる、と続けた。
「その気に、って?」
「恋人になってもいいかなあ、と」
「適当だなあ……」
「そんなことないぞ。一緒にいてもいいと思ってもらわなければいけないんだから大変だ」
「今までとなにが変わるんですか」
「恋人になったら?」
「ちがう、赤井が」
「うーん……、わるい、特段なにも変わらないかもしれん」
あはは、と降谷は笑った。赤井は安心したように肩の力を抜いた。付き合うとどんないいことがあるんですか、と降谷は言った。連絡を取ったり会うのに理由がいらなくなる、と赤井は答えた。
「ややこしい後付けの理由を用意しなくてもきみと会う約束ができるようになる」
魅力的じゃないか? と赤井は笑った。
うまくいけば終わりはこない。うまくいかなければあっさり終わりがきてしまう。別れても良好な関係なんてまったく理解できない。だったら、終わりがこない関係のほうがいいではないか。そうずっと思ってきたけれど、友人のまま恋人になることはそんなに難しいことなのだろうか。赤井は降谷に寄りかからない。降谷も赤井には寄りかからない。自分の問題を解決できるのは、自分だけしかいない。もう何年も付き合ってきた。そういうふうに、付き合ってきた。もう何年も二人はよき友人だった。気づいたときにはもうそうなっていた。言葉にしなくても通じるような空気のようなものが二人の間にはあった。共有した過去と境遇、似たような忙しさの仕事、金銭感覚、連絡をとる頻度、物事に対するスタンス。二人は決して似ているわけではなかったが、面倒を嫌い、他人になにかを求めるのが面倒で自分でなんとかするほうが楽だという、そういう考え方をするところは、ひどく似ていた。
もし、これまでとなにも変わらず、限りなく自然体のままで赤井と一緒に生きていくことができるのなら。それはとてつもなく楽なことなのかもしれない、と思った。
「本当に、なにも変えなくていいんだな」
「ああ。逆に、俺がいきなり態度やらなにやらを変えたら怒るだろう」
「たしかに」
僕、本当にめんどくさがりなんですよね、と降谷はため息をつきながら言った。知ってる、と赤井は笑いを含んだ声で言った。
「毎日連絡とかできないし、するなら電話のほうが楽。でも時差もなにも考えないで夜中に赤井から電話がかかってきたらたぶんキレると思う。人の生活には口出さないけど、その代わり自分の生活に介入されるのがめちゃくちゃ嫌いです。ペースが乱されるのが嫌、というか」
「これだけ長い付き合いなんだからわかるさ」
「いったいどこがすきなんですか?」
「……うーん……」
「おい。おいふざけるなよ」
「待ってくれそういうことじゃない。うまく言えないが、きみといると気が楽なんだ」
はあ、と漏れた声はとてつもなく呆れを含んでいた。でも、ふと自分はどうなんだろうと考えたときに同じように気が楽以外の理由が見つからなくて、思わず降谷は笑ってしまった。
「そんなに笑うなよ」
「ちがいます」
「じゃあなんだ」
「黙秘します」
今度は、赤井がため息をつく番だった。ああ、と重苦しい息が漏れた。それは天井を仰ぎながら、万感の思いをこめたように吐き出された。
「俺にはきみがわからないよ」
その瞬間、降谷が笑ったことが、続く言葉の調子からわかった。
「そう。ぼくらはわかりあえない」
「だから恋人にはなれないって?」
「でも、なんでだかすきなんだよなあ、って話」
赤井は目を見開いて降谷を見た。行儀が悪いのはわかっていたが、肘をついて赤井の顔を少し下からのぞき込んだ。
「いいですよ。いまから、恋人ってことで」
赤井は嬉しそうに笑って、それから慌てて真剣な顔になった。もしかしてもうめんどくさくなったのか、と赤井は深刻な声で言った。ばか違う、と言いながら降谷はぴんと背筋を伸ばした。すきだから! そう怒ろうとしたのに、赤井の口許が嬉しそうに緩んでいることに気づいたらもう我慢できなくて、降谷は言いながら声をあげて笑ってしまった。
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