赤井の指先が、痣をなでた。皮膚の表面にぎりぎり触れるか触れないかという、薄皮一枚隔てたところをそっとなぞるような、そういうなでかただった。痣。いつできたかもわからないような、二の腕の痣。もはや痛みはない。そのくせからだには確かに内出血の痕跡が色濃く残っており、紫と紅の中間のような色の斑点を、降谷は随分と物騒な色のサラミだな、と思っていた。
その痣をなでた赤井は、しかしなにも言うことはなかった。ただただ、労るようになで続けている。つい先刻まで降谷のなかで暴れまわっていたその指先で。
肌触りのいいシーツのうえ、情事のあとの気だるさをまといながら向かい合わせに横たわっている。ベッドのうえで赤井を甘やかすのが好きだから、その延長線上で痣をなでる赤井の指先のことも好きにさせていたのだが、さすがにそれが途切れることなく労りや慈しみに満ちているとなればさすがに居心地が悪い。先に口を開いたのは降谷だった。いい加減にしてくれませんか、と言いながら降谷はからだを起こしたのだが、自分の口から飛び出たその響きが自分で意図したよりもあまやかなことに衝撃を受けた。そうしてその衝撃に身を固めていると、降谷にむかって伸ばされた赤井の両腕に首を優しく絡めとられる。抵抗されるなどとは微塵も思っていない傲慢さを感じさせる手つきはいくらか気に食わなかったが、降谷を見上げる水飴のように甘い視線には気を良くしたので、降谷は赤井の腕に引き寄せられてやることにした。
「そんなに気に入りました?」
たくましい両腕の誘導に乗って仰向けの赤井のうえに被さり、唇が触れる直前にそう聞いてみる。ぴくり、と赤井がきれいな形の眉をつり上げた。それに降谷はさらに気を良くし、なにか言いたそうに開きかけた赤井の口に蓋をした。その気にさせるようなキスもその気にはならないが満たされるキスも、気分ひとつでもどうとでもできる。再びスイッチが入ったらしい赤井の視線にからだの奥がぞくりと震えた。獰猛な獣のようなそれに射抜かれて殺されそうで、ものすごく興奮する。
セックスは好きだ。女とするのも、男とするのも。恋愛対象がどうという話ではない、それ以前に、自分のことを曝け出せないうちにはたぶん他人と幸せな恋愛をする権利はたぶんないのだろうな、と思っている。男が好きなわけではないし、女相手でないとセックスできないわけでもない。それだけで今のところは十分である。
二人が初めて寝たのはもう遠い昔の話だった。ちょうどゆらゆらと揺れていた無人のシーソーが何かの拍子にかたんと片側に傾くように、危うく保たれていた均衡が崩れた瞬間だった。こいつとだけはと思っていたはずなのになんの因果かひどく具合がよく、加えて外面を取り繕う必要もなかった。ただ奔放に気持ちいいことだけを追いかけて、後腐れもない。最高というよりもむしろ、最適な相手であるといえた。セックスフレンド。友人なんて平和なものではないのに、友人以上に多くのことを知っていて、しかしもしかしたら赤の他人よりもなにも知らないのかもしれない。
「ずいぶん余裕そうだな?」
からかい交じりの赤井の声が、降谷の耳をくすぐる。余裕なんてあるかばか、腕を回してしがみついていた赤井の肩口から顔を上げ、息も絶え絶えに言うと赤井の目が柔らかく細められた。この目に弱い。甘やかしてやりたくなる。あの赤井が自分を抱く、ただの男になるということが降谷を満たす。もう随分赤井以外とは寝ていない。気持ちよければなんでもいいはずなのに、それとは別のところを一番埋めてくれるのは赤井だった。はあ、と息が漏れる。からだの奥が熱い。腰をつかむ大きな手が熱い。すこし下から降谷を見上げる視線が熱い。触れ合っている部分がどこもかしこも熱い。汗でうねった赤井の髪に指を差しいれて、抱え込むように抱き寄せる。大きく息を吸うと石鹸のにおいの向こうに赤井のにおいがした。
赤井が、ああ、とつぶやいた。
「心臓の音がよく聞こえる」
急いでからだを離す。深い緑の瞳が不思議そうに降谷を見つめている。胸の奥がぎゅうと苦しくなった。頬を両手で包んで、たまらずキスをした。
まどろみから目覚めたとき、赤井はいとおしげに降谷の髪をなでていた。ぼんやりしていた目の焦点が次第に合っていく。
「あかい……」
掠れる声で名前を呼ぶと、赤井は降谷の額にかかった髪を優しい手つきでかきあげ、そこにそっと口づけた。キザ、と文句を言うとどこか楽しそうに笑った。それからまた髪をさらさらとすいていく。寝る前はそうではなかったはずだが、いつの間にか降谷は赤井の右腕を枕にしていた。それがなんだか居心地が悪く、からだを動かして赤井の腕のなかから抜け出そうとしたのだが、降谷の髪をいじる手つきがあまりに優しいものだからどうすることもできなかった。
「きみが髪をなでるのが好きな理由がわかった。たまらない気分になるな」
「僕が?」
赤井の言葉が咄嗟に理解できず、すぐそこにある顔を覗きこむ。赤井はそんな降谷のしぐさに、気づいてなかったのか? と目をわずかに見張りながら質問を返した。
「よく俺の頭を抱え込んでるじゃないか」
「それはまあ……、そうですね」
まさか直接指摘されるとは思っていなかったから苦笑が漏れた。その点は降谷も自覚している。どちらかといえば顔が見える体位のほうが好きだし、なかでも対面座位が一番いい。女を抱くときは胸がすぐそこにあるし、男に抱かれるときは自分を抱く男を抱きしめやすい。
「それで?」
続きを促すと、赤井は本当に自覚なかったのか……と驚きに満ちた表情でちいさくつぶやく。だからなんだ、と思っていると、ふいに赤井にぎゅうと抱き寄せられた。さっきまで遊ぶように降谷の髪をいじっていた右手は、いまはがっちりと後頭部をおさえている。赤井の腕と胸元に耳を押し付けるかたちになり、とくん、とくん、と血管が脈打つ音がよく聞こえた。
「こうして、頭を抱え込んで、髪をなでて。ちょうど母親が子供にするように……、セックスの最中なのにそれがあんまり穏やかなものだから、正直興奮するより安心する。きみを抱いていると」
ゆっくりと紡がれる赤井の言葉をひとつも聞き逃したくなくて、降谷は目を閉じた。心臓の音が聞こえる。じんわりとあたたかさが伝わってくる。
降谷には母の記憶がほとんどない。はじめてセックスしたのは二つ年上の先輩だった。大人っぽくてよく声をあげて笑う、それなのに最中はほとんど声を出さない人だった。セックスよりもそういう温度のない触れ合いのほうをしたがる人だった。胸は大きいほうではなかったけれど、抱き締めるとやわらかくてあたたかかったことをよく覚えている。付き合って、片手で足りる程度の回数ではあったがセックスもしたものの、女というよりも姉や母というような人だった。降谷にとっては。
母、あるいは母性、そういった類いのものを相手に求めているのかもしれない、と気づいたのはいつのことだっただろうか。最初の頃は相手のなかに見出だそうとしていたそれを、次第に自分のなかに見つけるようになったのはいつのことだっただろうか。男に抱かれるとき、相手が自分のなかに少しでもそういうやわらかいものの存在を見いだせたらいいと思うようになってから、降谷にとってのセックスはただの気持ちいい行為から精神的に満たされる行為へと変化したのだった。背負うものの大きい自分たちだ。だからなにも取り繕う必要のないセックスのときくらい、自分が身軽になれるように赤井も楽になってくれればいいのに、とそう思った。自分のなかに、彼だけの母を見出だして少しでも安らいでくれればいい、と。
赤井が、痣をなでた。降谷のなかを暴きも引き金を引きもするその指で、そっと、やさしさそのものというような触れかたをした。そっとまぶたを開けると、赤井と目が合う。変わらず心臓の音は聞こえていて、変わらず右手は降谷の髪をなでている。
「この痣、はやく治ればいいのに」
「もう痛くありませんよ」
「そういうことじゃない」
ゆっくりと、消えかけた痣の縁をなぞる。くすぐったくて身をよじるとぎゅうと抱く腕に力がこもる。鼓動と同じリズムで頭をなでられて、ふいに涙腺がゆるんだ。もう随分女とは寝ていなくて、もう随分赤井としか寝ていなかったから、こんなふうに優しくされると傷つかないように張っておいた防御壁があっさりと壊れてしまいそうだった。赤井はなんのために男を抱くのだろう。自分を。セックスフレンド。セックスをやめたら、赤井と友達になれるのだろうか。それとも、セックスをしたからもう友達にはなれないのだろうか。
「仕事に口出しするつもりは微塵もないさ。でも、痣ができていたらはやくきれいになればいいと思うくらい、当然のことだろう」
当然。それって当然のことなのかな。そう思った拍子に、じわりと涙が浮かんだ。まぶたを閉じてごまかす。降谷個人に、こんなに優しくしてくれる個人はいなかった。もうながらく、いなかったのだ。
ぎゅう、と強く目をつぶったら、目尻を涙が伝ったのがわかった。
「零?」
「……ほんとうだ、心臓の音、よく聞こえる」
赤井の胸に耳を押し付けながら言う降谷を、赤井はぎゅうぎゅうと抱きしめる。労るように痣をなで、慈しむように髪をすく。ああ、と息を漏らす。その手つきがあまりに優しいものだから、いままではうやむやにすませてきたものを直視しなければいけなくなる。この男がどこにもいない母を求めて自分を抱いたことなんて一度もなかった。赤井は、いままでも、これからも、自分を求めてこのからだを抱くのだろう。
「赤井と友達になりたい」
背中に手を回してしがみつくように頭をその胸にすりつける。友達でもなんでもよかった。赤井が降谷その人を求めるように、降谷が赤井個人を求めることを許してくれるなら、なんでもよかった。髪をなでていた赤井の右手はゆっくりと降谷の背中に落ち、ぽん、ぽん、と優しく心臓のちょうど裏側を叩く。それは困る、とちっとも困っていないような声が降谷の耳元におとされる。
「大勢のなかの一人にはなりたくないな。零にとっての、特別なひとりになりたい」
そんなこと、と呟いて、降谷はしがみつく両腕に力を込めた。もはやなにも取り繕わなくていい関係がもうずっと心地よくて、最高のというよりは最適の相手だと思っていた、けれど。予防線を踏み越えて、その内側に踏みこませて、それでたとえ傷ついたとしても。それでも、赤井のことを知りたい。
「……赤井のこと、産めればよかったのに」
「うーん、近親相姦はな……」
眉をひそめながらの言葉に、降谷は小さくふきだした。赤井の指先はまた、痣をいとおしげになでている。
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