夜風が渡る。かきまぜられた前髪をおざなりに直した。濡れ縁から投げ出した足をぶらぶらさせていると虫の涼やかな音が聞こえてくる。あまり熱気のない、過ごしやすい夜である。襖が取り払われて繋がった大広間では今もなお宴会が繰り広げられている。もう何時間もそうしているというのに、勢いは収まる気配を一向に見せない。大勢に囲まれ時には絡まれ、それが嫌という訳では決してなかったが燐は隙を見てその場を抜け出した。そして今、こうして一人座っている。馴れない状況における人疲れとでもいうのか、覚えた疲労感はどこか心地よい。
「燐くん」
「あ……柔造さん」
「柔兄でええよって言うとるに」
突然掛けられた声に少し肩を震わせながらも振り返ると、柔造が明かりを背にして立っていた。ちょっとええかなと聞かれたから、頷き少し横にずれる。彼の大きくて節だった手の中にあるとお猪口はとてもちんまりして見えた。
「三回目か、京都に来るの」
「はい」
「毎度毎度廉造が無理矢理連れてきてもうて勘忍な」
「いえ、帰省とか、したことなかったから」
「そか」
ほうと息を吐くと、それから夏のにおいが流れ込んでくる。柔造は杯に口をつけた。
「あの」
「ん?」
「ずっと思ってたんですけど、毎年来ちゃって、俺……迷惑じゃないんですか」
「去年は来とらんやんか」
「そういうことじゃなくて」
初めて京都を訪れてから、燐は夏になると毎年廉造たちの帰省についていくようになった。正しくは廉造に引きずられて。昨年初めてそれが途絶えた。この前の夏は高校三年生ということもあり何かと忙しかったのだ。三人だけで帰省した彼らはどこか淋しそうだった。死者の魂が里帰りするこの時期に自分が京都にいることを燐は肯定しきれない。年月が少年にもたらす変化は残酷さを併せ持つ。彼は少年と呼べる年齢を越えた。時間はある他者の心の平穏を乱すのは自身だということを明確に理解させてしまった。
「……そないなこと、燐くんは気にせんでええ」
「でも」
「みんな、ちゃあんと自分の中で折り合いつけとる。せやし燐くんがどうこうゆう話やない。誰でもどこかで向き合わなあかんのや」
燐は俯いた。静かな、しかし強い語気が、彼がもうその過程を経たことを暗に示している。黙ったままの燐を横目で見て、それから柔造は片膝を立てると小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「なんちゅう顔しとんねん! 辛気臭いとしあわせ逃げてまうぞ」
「柔造さん、」
「あいつらも悪気はないんや、仲良くしたいんが行き過ぎとるだけやて。酔っ払いの相手は疲れるやろうが、嫌わんといてやってな」
そう言うとくしゃりと笑った。なんだわかっていたのか。照れくさくて、でも訂正しなければと小さく、嫌いではないです、本当にと呟いた。そして先刻とは違う理由で黙った燐を、柔造は本物の弟のように思っている。
「おくむらくーん!!」
「志摩」
かけられた声に振り返るとぱたぱたと足音を立てながら廉造が近寄ってくるところだった。
「柔兄なんの話しとったん」
「廉造が迷惑かけてって」
「ひっど!」
「なー燐くん」
「そこは違うって言うとこやで奥村くん!」
いつまでも変わらない兄弟の掛け合いに思わず吹き出す。それを見て廉造も口を尖らせつつへらりと笑った。
「で」
「ん?」
「どないしたん廉造」
「あー、せや! 奥村くん疲れはった?」
「いや、別に」
「気付いたらおらんしうっとおしくなったんかなって、ほら酔っ払いばっかやから」
「ううん、ちょっと風当たってただけ」
足をぶらぶらさせる燐はさっきまでよりもほんの少しわかりやすく楽しそうだ。柔造にしてみれば廉造も。この一番下の弟は燐に対するときだけ嘘みたいにわかりやすくなる。何かを隠していてもそのことすら透けて見えるような。
「廉造」
「んー」
「燐くん案内してき」
「え?」
思いがけない言葉に燐も廉造も首を傾げた。ほら、夜の京都。免許取ったんやろが。柔造が言葉を継ぐと廉造の表情がぱあっと輝いた。
「ええんか柔兄!?」
「おう」
「えっと……免許、って」
「バイクの免許取ったんよ、奥村くん驚かせたろって内緒で」
「廉造酒飲んでへんやろな」
「飲んでへん飲んでへん!」
「志摩……飲酒運転は法律で駄目なんだぞ」
「あれ信じられてない! 坊に聞いてみたらええやんほんまやもん」
わかりやすく拗ねるとけらけらと燐が笑い声をたてた。重ねるように廉造も笑う。
「あ、でもメット」
「金造の借りればええやんか」
「せやね! 借りパクしたろごめん柔兄冗談」
「そらそうや廉造はええ子やからなー」
「そうやでー」
棒読みに棒読みで返すと、打って変わって喜色の滲み出した声で廉造がじゃあ先行っとるから玄関で! と言い、またぱたぱたと走り去って行った。
「勘忍え、無理矢理」
ぽかんと後ろ姿を見送る燐に謝る柔造はまさしく兄の表情をしている。そんな全然、と燐が慌てると笑ってまた杯を傾けた。
「……ありがとうございます」
「おん」
「なんで俺によくしてくれるんですか」
「廉造と仲良うしてくれとるし」
「……」
「いや、違うな。蝮と結婚できたん、俺は燐くんのおかげやと思ってる」
「俺なにも──」
してない、と言う前に柔造がそれを遮った。
「廉造があんなに楽しそうなん、燐くんが初めてなんや」
そうだろうか。自問する。それは自分のほうだけではないのか。
「気をつけて行きよし」
ぐいっと残りを一気に煽る。
「──はい」
それは少しこそばゆくて、その一方でどうしたらいいのかわからない、そんな感情がないまぜになった声だった。へらりと表情を緩めた柔造が頷き、それから立ち上がる。彼が席につくのを見てから燐も立ち上がる。勝呂に酒を飲ませようとした金造が八百造に怒鳴られていた。他にもたくさん、楽しげな喧噪。部屋の隅で蝮が柔造のお酌をしていた。彼が何か言うと彼女が少し顔を赤らめ、そして膨らみが目立つようになってきた腹を撫でる。広間をあとにして、ぱたりと襖を閉めた。慈しみに満ちた視線。しあわせを形にしたような表情。音を立てないようにそろりと足を進める。いいなあと思う。そういう感情を向けられることを、純粋に。ほどけた靴紐を結び直す。中型のバイクに寄り掛かった廉造に手を振った。ただ、それを羨ましいと思わない、わけではない、けれど。
燐が廉造の後ろに乗るのはこれが二回目になる。秋の入り口、十七の晩夏に一度だけ自転車に二人乗りをした。偶然会った廉造は見慣れない自転車に乗っていて、燐の姿を認めると派手なブレーキ音をたてて止まった。ぽかんと口を開けつつそれおまえの、と首を傾げる燐に、友達から半ば強引に借りてきたのだと笑ってみせた。夕刻まではまだ少し時間を残し、陽射しはじりじりと脳天を焼く。アイス買いに行くところだったんだと笑う燐を後ろに乗せて、コンビニだったら同じ行き先だからと走りだす。漕ぎ始めたらふっと軽くなったペダルを踏むのをやめて、緩い坂道をブレーキかけずに滑り落ちていく。通り過ぎる冷たい風に歓声をあげる。確かに夏は終わろうとしていた。他のなにかも。帰り道は半分ずつわけたアイスを片手に自転車を押して歩いた。アイスは早々に切らした。
「はい、メット」
待たせていた手前小走りで近付くと、ぽんとヘルメットを手渡された。初めて持ったそれは予想以上に大きい。もうひとつがくるくると廉造の両手の間で回る。ふと思い至って疑問を口にした。
「あれ、金造さんふたつ持ってんの?」
「ちゃうよ、金兄のはこっち」
「……じゃこれは?」
「そっちは俺の」
疑問符を浮かべたままの燐にへらりと笑う。
「メットだけ買ったん。バイクはまだ買えへんから」
「あ……そっか」
なるほどと頷く。廉造が慣れた動作でバイクに跨がった。一度手の中のヘルメットを廉造に渡してから、燐も後ろに跨がる。
「いつかはバイク買うの」
「んー欲しいなー」
お金貯まるといいな、そう言いながらベルトをいじる。なんでもないことのように奥村くんのメットも買おうか、なんて言うから思わず顔を上げた。
「また乗せたるよ」
「……楽しみにしてる」
そう言ったら満足げに頷いた。視界が制限される。エンジンを吹かした。広くなった背中と、もう覚えていないけれど多分あのころよりがっしりした腰。廉造がヘルメットをかぶる直前、左から覗き込んだ横顔はあのときと同じように小さく口角を上げていた。今も本当の意味は知らない。
「ちゃんと捕まっとってな」
躊躇いがちに回した手にきゅっと力を込める。ヘルメット同士がぶつかって、こつんと鳴った。
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