クラウドナイン

 眠い目をこすりながら、ベッドから抜け出してひとつ伸びをする。カーテンを開ければ水彩絵の具で塗ったような青い空。気持ちのいい朝である。
 あ、明日の朝ならコーヒー淹れてあげてもいいですけど、飲みたくないですか。それが初めて赤井を家に呼んだときの誘い文句だった。赤井はしばらくなにも言わなかった。最後組織とやりあった際の負傷で入院した同僚を見舞った帰り、病院のエレベーターのなかだった。ゆっくりとランプで光る数字が小さくなっていく。安室は恥ずかしさのあまり顔を直視できず俯いていたのだが、返答がないのもそれはそれで困るのでおそるおそる顔を上げたところ、赤井は見たこともないような驚いた顔をしていた。
「……なに」
「いや、純粋に驚いた」
 口許に手をあてて視線を泳がせている。このひとのこんなところ初めて見た、そう思ってぼんやりと赤井を見つめていると、彼は目線だけを安室によこしていいのかと言った。
「……いいのかってなんですか」
「……」
「僕は飲みたいか飲みたくないかって聞いてんですよ」
 そう言うと赤井はさっきよりも目を丸くして、それからぽつりと、のみたい、と言った。
「……聞こえない」
「飲みたい。君の淹れたコーヒー」
「じゃあ、飲ませてあげます」
「本当にいいのか」
「あなたも大概しつこいですね」
 そう軽い調子で返したとき、もしかしたら今までで一番自然な笑顔だったのかもしれない。
 今となっては自分自身それはどうなんだと頭を抱えてしまうような、そんなひねくれっぷりだったと思うがあのときはそれが精一杯だったんだからしょうがない。開き直りつつ思い出し笑いをひとつ、湯気のたつコーヒーに口をつける。
 出国日和の、いい朝である。

 結論から言うと、安室透という存在がなくなることはなかった。それは仮の姿とはいえ彼がとても人々に愛されていたから、とか、そんな人物を書類上とはいえ死なせることを彼自身と周りの人間が躊躇したから、とか、そういう心温まる理由では全くなく、ただ単純に安室透が現存するほうが何かと都合がよかったからである。安室透はあまりに多くの人間に認知されすぎた。だったらそれを使えるだけ使っていこう、という、そういうとてもシンプルでとても効率的な理由だった。
 それを彼自身はどう思っていたかというと、まあ別段なにを思うでもなく、そうかと思った程度だった。使えるものはすべて使ったほうがいい。降谷零であり、安室透であり、きっとこの先また違う誰かになることもあり、それらをきっちりと使いこなしていくこと。それはもはや体などという表層部分ではなく、彼を彼たらしめる芯の部分に染みついている。魂、あるいは本質と言ってもいいのかもしれない。そこに染みつき、離れることはない。「それ」になりきり、物事の渦中に身を置いているときはのめりこんで身も心も全て懸けて、しかしその実本当はいつだって少し引いたところから冷めた視点で現実を俯瞰して見ている。それが彼という人間だった。
 あの夜。エレベーターを降りたあと、どこか困惑したように口を開いた赤井の姿を彼は今でもありありと思い出せる。
 さっさと駐車場への道を突き進む彼の数歩後ろを歩きながら、赤井は前を行く背中を呼び止めた。名前を呼べれば簡単だったのだがそういうわけにもいかず、だから赤井は「なあ」というなんのひねりもないような呼びかけをするほかなかった。
 なんです、と彼は振り返った。その手の中にはもうキーが握られていて、ちらりと覗いたキーホルダーはティファニーだった。
「これから俺は、きみをなんて呼べばいい」
「は? 好きに呼べばいいんじゃないですか」
 からからと笑い、彼は運転席に乗り込んだ。なにか言いたかったが言いたい相手はすでに車内だったので、釈然としない気分を抱えながら赤井もドアを引いてするりと体を滑り込ませた。自分の車よりも少し倒されている助手席にもたれて、そのなんともいえない違和感を頭の片隅に置きながら、慣れた手つきで発進した右側の横顔を見つめる。
「名前とか、気にするなんて」
「きみの機嫌を損ねたくないんでね」
「今更機嫌悪くもなりませんてば」
 そう愉快そうに笑いながら、彼はギアを変えてどこにでもいる帰宅途中のサラリーマンのように家へと続く道を走り抜けていく。
「いつか『安室透』はいなくなるんだろう」
「ああなんだ、そういうことですか? いなくなりませんよ。便利ですし」
 そう、こともなげに彼は言ってのけた。それにいささか面食らった赤井は言葉未満の息を吐き、それを受けてふっと笑った彼の横顔に再び視線をやった。
「最初は僕も上も処分するつもりだったんですけどね。人に関わりすぎたので、それならまあ使い倒していくかということに」
「……愛着かと思ったが」
「愛着? まあないわけでもないですけど、あってどうなるってものでもないでしょう、そんなの。というか、今日のあなた、気が緩んでるんじゃないですか?」
「そうかな」
「驚いた顔とか似合わないですね」
 まあ愉快だからいいですけど、とまた彼はからからと笑い、滑るようにギアを変えアクセルを踏み込んだ。
 それからずっと、赤井は彼のことを変わらず安室くんと呼んでいる。

 久しぶりにきみのコーヒーが飲みたい、と連絡を寄越してきた赤井は、安室が指定したとおりに地下の霞ヶ関駅構内にもぐる入り口から少し離れた交差点に立っていた。左手を軽くあげる、それだけの姿すらも様になっている。なんだかむかつくと思いながらも口角は自然と上がり、安室はハザードランプをつけ道路脇に車を停めた。
「ありがとう」
「どういたしまして。お久しぶりです」
「ああ。元気だったか?」
「相変わらずってところですかね」
 うちでいいですか、夕飯は? と聞くときみもまだ食べてないんだろうと返される。じゃあまあ適当に、と安室が言うと赤井はきみの適当は適当の範疇をこえているからなと笑った。
 二人が会うのは四年ぶりだった。
 四年なんてあっという間だった。現に記憶はかなり鮮明で、安室は昨日のことのようにはじめて自分の淹れたコーヒーを飲んだときの赤井の反応を思い出せる。一方で、ありありと思い出せるのに事実なのか記憶なのかどこか不安定なような、そういう曖昧さも含んでいる。つまり、確かにあれから四年が経っているのだった。
 昔だったら考えられないような穏やかさで会話が進んでいく。世間話やお互いに面識のある人の話、どうでもいいような話。今年の夏は暑いということ。禁煙の場所が増えて大変だという赤井の話。去年安室の下に配属された人の話。ほどなくして安室の家につき、残り物で作ったというには豪華な食事を二人で向かい合って食べる。
「うまいな」
「よかったです」
「本当に適当でよかったのに」
「これ、ドレッシングで和えるだけなんですよ」
 おいしいでしょう、と満足そうに言いながら安室はサーモンと海老のカルパッチョを自分の皿にも取り分けた。
 洗うくらいはやらせてくれ、と赤井が言うので、安室は素直に彼に任せることにした。降谷零の家で洗い物をする赤井秀一、という絵面の違和感がなんともおかしく、まくられてあらわになった腕と前に屈んで少し丸くなった背中を肴に安室はバーボンソーダをちびちびと飲んでいる。
 以前だったら考えられないような穏やかさだった。風がぶわりと吹き込んでカーテンがふくらむ。飛行機の飛ぶ轟音に紛れて名前を呼んでみる。あかい。彼は気づかない。水が流しを叩く音が相対的に小さくなり、ジェット音が遠くなってまた大きくなっていく。最近、夜に飛行機が多く飛んでいる。
「安室くん」
 パッパッと指先の水を飛ばしながら、赤井が振り返って言った。
「明日まで泊めてもらえないだろうか」
「……一泊?」
「いやすまない、可能なら明日の夜も。言葉が足りなかった」
「それは別にいいですけど。なんでまた」
「出張と休暇を兼ねてしばらくこっちにいることになってな、急だったから今日明日のぶんだけホテルがとれなかった。明後日からは確保してあるんだが」
 無理なら遠慮なく言ってくれ、まあ、なんとかする。そう続けた赤井はこの部屋にとって馴染みのないもののはずなのにどこか溶け込んでいて、安室は言葉を探す間を持たせようとぱちぱちと瞬きをした。さっき感じた違和感は単に「生活感のある赤井秀一」に対する違和感で、ここにいることに対する違和感というわけではなかったのだろうか。赤井がうちにきたことなんて五回もないのに、というか今日でまだ三回目なのに、なんで違和感がないんだろう。その答えを突き詰めたくなったけれどもそれは今するべきことではないか、と思い直し、いいですよ、と口を開く。
「しばらくっていつまでですか」
「おそらく八月いっぱいかな」
「そうですか。僕も仕事でいたりいなかったりなんで、まあ、今日明日なら確実に大丈夫です」
「ありがとう」
 赤井はどこかほっとしたように笑った。本当は明日は仕事が立て込んでいるのだけれど、その気になればホテルの手配くらいどうにでもできるだろう赤井が自分を頼ってきたのが意外だったからついオーケーしてしまった。頭の片隅では既に仕事を片付ける算段をつけ始めている自分がいたが、それより今はこいつにも酒をつくってやろうと安室は立ち上がりグラスを手に取った。

 当初の約束通り、赤井は二日後の昼に安室の家を去った。その日は土曜日で安室も休みだったのでせっかくだからとコーヒーを淹れてやり、赤井はそれをとてもおいしそうに飲んでいた。おいしそうに飲む、なんてことがわずかな表情の違いからわかるようになっていることに驚くが、やはり気分がいい。ありがとう、と頭を下げる赤井に「突然こられたら困りますけど、事前に連絡くれて僕が家にいるときだったら別にきてもいいですよ」と四年前と同じ言葉を言った。赤井は四年前と同じように「ではまた押し掛けさせてもらおうかな」と言い、去っていった。
 初めてコーヒーを飲ませてやったときが一回目、今回が三回目。その間にもう一度、四年前、赤井が安室の部屋にきたことがある。
 あのころはまだ、穏やかに会話をする術を知らなかった。会話するかわりにぎすぎすするか、穏やかでいるかわりに二人して黙るかのどちらかだった。だいたいは自分のせいだと安室は思っているが、だが決して自分だけのせいではないとも思っている。過失の割合はフィフティーフィフティーだという赤井の言葉のように、安室だけでなく、赤井もまた距離感のようなものをはかりかねていたのだろう。
 なんとか言葉を絞り出して家に呼んだはいいもののなにを話していいかわからず、たいして会話もないまま寝付いて、翌朝。どこか緊張した雰囲気のなか、安室は自分用のカフェオレを飲みながら赤井をじっと見つめていた。そんな安室の視線を別段気にすることもなく、赤井はカップに口をつける。
「……噂には聞いていたが、きみのコーヒーは本当にうまいな」
 簡単にできるはずの普通の会話がなぜだかうまくできない赤井とだから、他意のないようなそんなシンプルな言葉が嬉しかった。ふっと緊張がゆるむ。
「どうも。そんなですか?」
「ああ」
 よかった、と呟く。声には出さないが。赤井も赤井で安室のそんな様子を盗み見ていて、正しい言葉のキャッチボールができていることに安堵していた。
 安室くん、仕事は、今日は午後に行けば大丈夫なので、そうか。あなたは? 俺もだ。そうですか。
 送っていきましょうか、と安室が言うと赤井は誰かに拾ってもらうから大丈夫だと答え、少し間が空いてから「きみの家の場所は誰にも言っていないし、特定されるようなこともしないから安心してくれ」と言った。それを聞いて安室は呆れたような困ったような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
「また飲みたいなんて我儘を言ったらきみは怒るのかな」
「そんな狭量じゃありませんから」
「そうか」
 ぼんやりとした沈黙が玄関先に流れる。二人とも言葉を探しているのだった。
「……まあ、あの」
 先に口を開いたのは安室だった。視線を泳がせながら口をわずかに開いてはまた閉じ、赤井は彼の言葉をじっと黙ったまま待っていた。
「突然こられたら困りますけど、事前に連絡くれて僕が家にいるときだったら別にきてもいいですよ」
 赤井は一瞬目を丸くしたのち、ふっと柔らかく笑って、ではまた押し掛けさせてもらおうかなと静かなトーンで言った。
 それが初めての来訪。二回目はそれから数日後のことだった。
 押し掛けるという言葉のとおり赤井は突然やってきた。といっても一応はちゃんと連絡を寄越していて、ただ安室がそれを確認するのが遅れたから結果的にメールを見るより先に家に帰ってきてしまったということだった。
 いきなりくるな、いるかどうかわからないだろう! と赤井の姿を認めるや否や噛みついた安室に赤井は不思議そうな顔でメールしたんだが届いてないか? と首をかしげた。えっ、とぎょっとした声をあげてスマートフォンを確認した安室は信じられないというような顔を一瞬浮かべ、すぐさまうわほんとだとでも言いたげに眉を顰め、それから気まずさを隠しもせずに目を伏せ、小さく「すみません、確認不足でした。どうぞ」と言って扉を開けた。安室の百面相を楽しげに見つめていた赤井だったが、なにか言ってはまた噛みつかれそうだなと思いなおしてただ素直に彼のあとに続いてお邪魔しますと言った。
「ずいぶん早かったですね」
 スーツを脱いでハンガーにかけ、時計を外して定位置に置く、そういった動作には一分の無駄もない。これが降谷零のルーチンワークなのだなと思いながら動き回る彼を見つめていた赤井に、安室が言葉を投げかける。どういう意味だろうと返す言葉を考えていると、答えかねていることを気配で察したのか安室は「こないだきたばっかりじゃないですか。そんなにおいしかったですか」と冗談めかして笑った。
「今日、きみに会いたかった」
「は、」
「十三日だから」
 月命日だった。スコッチの。きっと降谷は朝からそれをわかっていて、そのうえでいつもと同じ一日を過ごしたのだろう。だから言葉少なに赤井が言っただけで意味を理解する。
「ああ、……ああ、そういう、」
 そうですね、と目を伏せながら微笑んだ安室の横顔は、プラスもマイナスもない、どこまでもニュートラルなものだった。
 赤井が手に提げた紙袋からスコッチウイスキーを取り出すと、安室は目を丸くし、それから少し前かがみになりながら右手を顔に押し当てた。笑い声を漏らすまいとしているのだろうがたいして効果はなく、静かな夜の部屋に笑い声が反射している。
「はは、すみません、いや、考えること同じですね」
 そういって棚から別の銘柄を取り出してきた安室は、指先でわずかに濡れた目じりをぬぐい、いたずらっぽく笑った。
 安室が用意していたザ・マッカラン12年を赤井のグラスに、赤井が買ってきたザ・グレンリベット12年を安室のグラスに注ぐ。ソファに並んで座って、たいした会話もなく、ただ、しんみりとした雰囲気がゆったりと流れていた。赤井のほうが幾分ペースが速かったらしく、空になったグラスに気づいた安室が杯にスコッチを注ぎ足そうと体を赤井がいる左に乗り出した。そんな安室の瞳を、まっすぐ見つめてとらえる。安室もそれを正面から受け止め、なにも言わずに赤井の言葉を待った。
「安室くん」
「はい」
 赤井が口を開いたので、視線は逸らさないまま体を引く。手に持ったままのボトルのキャップを閉めてテーブルに置き、かわりに持ったグラスのなか、水面がゆらゆらと揺れてる。
「すまなかった」
「なにが?」
「俺の勝手な考えで、きみを傷つけた」
「……今さらですね」
「ちゃんと、謝らなければいけないと思っていた」
 そんなの、と安室は呟いた。そんなの。
 安室透はどう思っているのだろう。降谷零はどう思っているのだろう。そんなの、の先に続く言葉は? それを赤井秀一は知らず、きっとこの先も知ることはないのだった。
「この話に、終わりも終着点もないじゃないですか」
「……」
「彼は死んでしまったし、それを引き起こしたのは俺で、あなたはそれを隠そうとした。俺は本当は薄々気づいていながら、見ないふりをした。あなたへの怒りと許せないって気持ちがあったから、それをばねに生きてこられたのは確かで、でも、俺は、的外れな感情を押し付けてあなたに全部背負わせて……それより、俺は、自分勝手だけど、あなたの口から本当のことを聞きたかった」
 あのとき間に合っていれば。真実を直視していれば。もっと早くから向き合っていれば。そうしたら。そんな想像。そんな現実逃避。そんなイフ。
「たらればを言って、じゃあなにになるんだって話なのはわかってる、わかってるけど」
 不意に、赤井の脳裏に、女性の声が蘇る。
 ――言わなきゃわかんない?
「諸星大。ライ。赤井秀一。いくつ名前を持ったって、あなたはあなただ。本当は優しくて、そのくせ自分勝手で、その自分勝手な優しさが人を傷つけるのに、だからあなたを嫌いになれない」
 僕は、いくつ名前を持ったって。……僕は、誰にでもなれて、誰にもなれない。
 ゆっくりと、長く吐き出した安室の息が空気に溶けていく。安室も、赤井も、いまだ過去にとらわれている。心を置き去りにしてでもやらなければいけないことがあった。それをやり遂げた。そうして向かう先を失った今、その手に残ったものはなんだったのだろう。過去とあの日に置いてきたものと向き合わなければいけないその時が、まさに今なのだった。
 ねえ、と安室は先ほどの笑顔のようなニュートラルなトーンで言った。
「ゆるす、って、なんなんだろう」
 ゆるして、ゆるされて、はいお終い。そうできたら誰もこんなに苦しまないのに。赤井はなにも言わなかった。いや、言えなかった、彼に言える言葉はなにもなかった。
「……スコッチの本名を、あなたは知らないし、僕はあなたの身に起きたことを知らない。公安だ、FBIだ、って言ったって、なにができるっていうんでしょうね」
 答えを求めているわけではない問いが空中にふわふわと浮いて消えていく。なにができるというのだろう。なにができたというのだろう。その答えを言葉にするには、あまりに多くを失いすぎてしまった。
「安室くん」
「なまえ、」
 呼び捨てにでもしてみますか? そう、赤井の言葉を遮って冗談めかして微笑みかけて。その喪失感を、心に開いた穴を、負った傷をどうにかできるのは本人だけだと、誰よりも自分自身が、痛いほど理解している。だから赤井は、ここぞというときにでもとっておこうと冗談に冗談で返した。過去にとらわれているのに、過去はあくまで過ぎたことでしかなく、その手の中には未来しかないのだ。

 昼頃にふと思い立って勢いで送ったメールへの返信はいつの間にか届いていた。夕方ごろになると思う、という文面にそれは好都合かもしれないなと安室は小さく笑う。数日前に四年ぶりに会ったから連絡のハードルはだいぶ低くなっていたとはいえ、随分距離が近くなったものだなと思うと感慨深い。一日家にいるからいつでもいい、と返したメールには返信はなく、赤井らしいなと思った。
 真夏日だ。じりじりと日射しがアスファルトを焼いて、蝉の声と飛行機の音がぐわんぐわんとうるさく反響している。
 適当につけたテレビでは甲子園の二回戦が行われていた。歓声とブラスバンドの応援、始まりと終わりのブザー音。毎年の夏のお決まりの音があふれている。クーラーでゆるやかに冷やされた部屋と空気をかき回す扇風機、ごろりとソファに寝転べばいい感じに眠気がやってきた。うとうとと誘われるままに瞼を閉じ、意識があるような、ないような、そんな曖昧な波間を泳いで。声が聞こえる。懐かしい声だった。入道雲って、英語でなんていうか知ってるか? I’m on cloud nine. どんなに苦しくても自分を失わないで、こうありたいと思う自分でいられたら、それはきっととても幸せなことだ。
 はっと体を起こし、時計を見ると十七時だった。スマートフォンを確認しても新着のメッセージはない。安心しつつおまけのように大きなあくびをして、立ち上がって伸びをした。テーブルの上には数日前にスーパーで買った迎え火セットがおいてある。
 まだ明るかったので、冷やしておいたバカルディを冷蔵庫から取りだしベランダへと出た。ぬるい温度とぬるい風、体のなかを滑り落ちていくラム・ハイボール。きゅーっと冷たく染み渡っていくアルコールが気持ちいい。Tシャツの裾がはためき、前髪が風でぐしゃぐしゃになる。ほぼ真上、飛行機雲が尾を引いたのでそれをぼうっと見つめていた。塗り込めたような昼の、鮮やかで目に刺さるようだった青空は、今はわずかに夜の予感を感じさせる色になっている。
 じわりと汗ばむような暑さも手伝い、一本を飲み干すのは早かった。台所に戻って茄子を賽の目に切り始めてから数分後、インターホンが鳴った。晴れた日の終わりに向かう時間帯にふさわしく、夕空はきれいなグラデーションになっている。
「遅くなった、すまない」
「いえ、ちょうどいい時間ですよ」
 そう言って赤井を部屋に招き入れた。ちゃんと買ってきました? と台所に戻りつつ聞くと、ああ、と声が返ってきた。
「あ、赤井、新聞くるくるまとめて松明みたいにしといてください」
「おい、どこでやるんだ」
「え? マンションの前でやるつもりですけど」
「なんだそうか……ベランダでやるのかと」
「ベランダだったら火焚けないでしょ」
 あと馬と牛作っといて、と脇に置いたきゅうりと茄子を指差しつつ言うと赤井は無言で寄ってきて、そのままじっと手の中の茄子を見つめた。
「……立てばいいですよ」
「正直、きみのことだから無茶ぶりをしてくるかと思った」
「あ、きゅうりでハーレーとか作れるタイプですか? 見たい」
「いや無理だ」
 なんだ、と安室が笑う。おとなしく赤井はきゅうりと茄子におがらを突き刺す。できた精霊馬は完璧なバランスで立っていた。
 あらかじめ引き出しから出しておいたチャッカマンをポケットに突っ込み、蓮の葉の上にサイコロ状になった茄子を乗せてうまくバランスを取りながら持ち上げた。安室がなにか言う前に赤井が精霊馬とまるめた新聞紙とおがらをちゃんと両手に持っていたのを認め、満足げに頷く。じゃあ行きましょうかと声をかけサンダルをつっかけた。
 エレベーターのなか、二人とも口を開かなかった。一度も止まることなく、ドアの横に表示されるアナログ数字は小さくなっていく。
 一階につくと安室は赤井に一瞥もくれずにすたすたと歩き出した。ただその背中についていく。中庭へと向かっているらしい。ふと後ろを振り返り空を見上げると、低いところに金星が出ていた。
「ここに新聞さしてください」
 しゃがんで蓮の葉を地面に置いた安室のもとへと近寄り、まずはすぐそばに精霊馬を立たせる。それから言われた通り、雨水が下水に流れるようにとついている格子状の溝蓋の、その格子のうちのひとつにまるめた新聞の根本をねじ込んだ。赤井がおがらをそのなかに入れると安室がポケットから取り出したチャッカマンで火をつける。風が強く、うまく火がつかなかったので赤井が風上に回り込んで風避けになると安室は新聞に目線を落としたままありがとうと言った。
「よし」
 火がつく。ほどなくして燃え上がり、煙が天に立ち上っていく。
 安室は立ち上がって、ちらりと一瞬だけ赤井に視線をやった。それからなんでもないことのように呟く。煙草。吸わなくていいんですか。
「なぜ?」
「なぜって」
 はあ? と呆れ顔を隠しもせずに安室は言う。
「僕が焚いた迎え火なんだから僕の知ってる人たちに対してしか目印になりませんよ」
「? うん」
 わけがわからないと思いながらも頷くと安室はそれをまじまじと見つめ。やってられないとでも言いたげにはあ、と重々しいため息を吐いた。
「そうか。あなただいたいアメリカ人ですもんね」
「盂蘭盆くらい知ってる」
「そういうことじゃない。ヘビースモーカーらしく煙草でも吸って宮野さんへの目印にすればって思ったんですよ……なんで言わないとわかんないんですか? 情緒の欠片もない人ですね」
 なんでわかんないの? 安室の声に、耳の奥で宮野の声が重なる。心底呆れた声で言ってそれからしょうがないなあと笑った、彼女の笑顔が自然と呼び起こされる。宮野はよくそう言って呆れたように笑った。今でも覚えている。なんでわかんないの? しょうがないなあ。それから決まって彼女は、仕方なくといった雰囲気を出しつつ自分の希望、食べたいものや行きたいところを口に出すのだ。あれが食べたい。この間テレビでやってたあそこに行きたい。大くん気付かなかった? ほんとに? わかりやすくサイン出してるつもりだったんだけどなあ。
 ゆらゆらと揺らめく煙草の細い煙が上っていく。
 ポケットに手を突っ込み、二つの火元から上がる煙を見つめている安室の少し伸びた髪が、風でかき混ぜられる。横顔が見えなくなる。彼は今、誰のことを思い出しているのだろうか。
「明美にもよく同じことを言われたよ」
 空を見上げながらそう呟くと、安室が赤井のほうを向いた。視線がぶつかる。それ、付き合ってる女性に言われるって致命的ですね。それからまたふいと目線を空に戻し、ほんとにしょうがないやつだな、と続けたのできっと安室は同じことというのは「情緒の欠片も」のほうだと思ったのだろう。別にそれでよかった。
 ほろほろと灰になった新聞紙が風で飛ばされそうになる。安室はそれを足で留めて格子の隙間から下に落とした。
「煙草捨てたら拾わせますからね」
「携帯灰皿くらい持ってるさ」
「ならいいけど」
 短くなった煙草の火を靴裏で消し、ポケットのなかから出した携帯灰皿に捨てる。もう一本いいか、と聞くとどうぞと言葉すくなに応じた。じゃあ先戻ってますねとさっさと一人先に戻ってしまうのでは、という赤井は考えたのだが、予想に反し安室はなにも言わずそのまま隣にいた。
「……きみは案外ロマンチストなんだな」
「はい?」
「神様とか霊とか信じるタイプじゃないだろう」
「信じてませんよ。でもこういうのは気持ちなんで」
「……気持ち」
「葬式も法事もお盆も生きてる人間のためにやるもんでしょ」
 なるほど、と頷く。もうとっくに新聞紙の火は消えている。細い煙だけが濃い色の空に吸い込まれていく。
「これ、グレーチングって言うんですよ」
 先ほど灰を格子の下に落としたのと同じ右足の爪先で、安室が溝蓋をさした。
「この蓋?」
「ええ」
「よく知ってるな」
「そういう雑学みたいなの、よく知ってるやつがいたんですよ」
 咄嗟にスコッチの姿が頭を掠めたが、すぐさま違うかもしれないなと思い直した。安室がこれまで親しい人間を何人も亡くしているというのは知っていたし、先ほど彼自身「僕の知ってる人たち」と言っていたことからもきっと複数人のことを思い出しているのだろうことは伺い知れる。瞬時に思考回路が巡るゆえにスコッチかとも誰とも聞くことはなく、また会話が途切れる。考える前に聞けばいいじゃない! と明美なら言うのかな、とそんなことを思った。言う前にわかれと言ったり考える前に聞けと言ったり、宮野も安室も随分と難しいことを言う。きっとスコッチは、そんな自分をめんどくさいやつだなあと言って笑うだろう。

 夕飯には安室が買っておいたという、プラスチックのパックに入った焼きそばを食べた。用意しておくと聞かされていたからてっきりなにか作ってくれるということかと思っていて、それを赤井は毎回毎回申し訳ないなとも思っていたからかえってよかったが、やはりなんだか違和感のようなものはある。彼がそれを電子レンジで温めている様子を不思議なものを見るような目で見つめていた。安室は指先でパックの端をつまんで取り出し、赤井を振り返って夏ってかんじがするでしょと笑った。
 降谷零しかいないのが普通の部屋で、二人が向かい合って焼きそばを食べ、冷やしてあった缶ビールをそのまま飲む。それはとてもイレギュラーなことのようで、いろいろあったとはいえ数年来の付き合いであることを思えばなんら不思議なことではないのだった。
 不意に、遠くで花火の音が聞こえた。安室と赤井は同時に気付いて、窓のほうを見た。鏡に映ったように対称の動きをしたことに赤井がふっと笑う。安室は誤魔化すようにアルミ缶のなかに数滴残ったビールをあおった。
「ここ、見えないけど音は聞こえるんですよね」
「懐かしいな」
「はは、そうですね」
 緩慢な動きで立ち上がり、窓のほうへ歩いていってがらがらと右手で押し開ける。ぶわり、夜のじんわりとした空気が部屋に流れ込んでくる。
「夏のにおいがする」
 ぽつりと呟いた。
 それから安室がくるりと踵を返して玄関のほうに歩いていくから何事かと思いながらも口を開かないまま見つめていると、彼は先ほどもつっかけていたサンダルを人差し指と中指の先に引っかけて戻ってきた。ぼとん、とそれをベランダに落とす。グラスに氷いれて、スコッチ入れて持ってきてください。赤井にそう言うと、安室は両足をサンダルに滑り込ませ、外に投げ出し床にぺたりと座り込んだ。どうやらあそこで飲むつもりらしい。
 ぼんやりと風に吹かれている安室が赤井のほうを見る気配は一切なく、勝手にしていいということだろうなとひとり納得して台所に入った。冷蔵庫を開けると冷やされたグラスが二つ。一人暮らしのくせによくちゃんと二つもグラスがあるなと思いつつ腰をかがめて冷凍庫を開け、ロックアイスの袋を取り出す。四年前ならいざ知らず、今は彼にもこの部屋によくくるような相手がいるのかもしれない。それが感慨深いような、つまらないような、寂しいような。そんなことを考えながら大きめの氷をグラスの中に落とした。
 ごとり、と音を立ててスコッチがゆらゆら揺れるグラスを床に置く。電気、と言われたので明かりを落としてから再び安室の近くに戻った。ありがとうございます、と言って、安室はもともとベランダに置いてある紺色のクロックスを指さした。それ、履いていいですよ。
 安室が壁のほうにずれたので赤井は彼の右側に同じように座り込む。安室は右利きで赤井は左利きだから、基本的にいつだって赤井は安室の左側にいる。それが今日はなぜだか逆だった。いつもとは逆の、利き手側に安室がいる。ほとんど明かりのない、暗い部屋と夜の外のちょうど真ん中で、それでも次第に目が慣れれば表情がよく見える。安室が前に放り出した足を少し体のほうに引き寄せた。長い足が邪魔そうだなと思った。
 また、花火が弾ける音が遠くで聞こえる。
「今日、昼間にきれいな入道雲が出てましたね」
 見ました? 安室が少し首を傾けながら言った。いや、と返してグラスを口に運ぶ。今日お盆の迎え火の日だから、こられそうだったらきてください。夕食は準備しておきます。十三日なので、おいしいスコッチウイスキーも買ってくること。昼過ぎに赤井に届いたのは用件だけの、簡潔で安室らしいメールだった。送信ボタンを押しながら、安室は入道雲を見ていたのだろうか。
 問いかけておいて赤井の返事は別にどうでもよかったらしく、安室も右手を後ろに伸ばしてグラスを掴み、なめるように一口飲んだ。それからまた床に置き、壁に頭をもたれかける。あらわになった首筋にはうっすらと汗が滲んでいる。
「入道雲って英語でなんていうか知ってますか」
 cumulonimbus と答えるとあははさすがと無邪気に笑った。
「いつだったかな。まだ全然公安の新人だった頃、スコッチが急に、入道雲って英語でなんていうか知ってるか? って。知らないし、本当は知ってて当然なこととかなんかの隠語かと思って完全に焦ってたら、cloud nine って言うんだぞってちょっとどや顔で言ってきたんですよ」
 アメリカ気象局の専門用語では積乱雲は九番目の区分にあたることから入道雲は cloud nine という。英語には I’m on cloud nine. という言い回しもあるが、これはもともとは be on cloud seven だった。この seven は seventh heaven からきたと推測されている。もともとの言い回しと専門用語の cloud nine が混ざり、七より九のほうが上という言葉遊びからパイロットたちの間で流行り始めて今に至るのだという。
「まあそのへんの経緯はあとで自分で調べて知ったんですけど。彼は、神様に近いから幸福だっていう意味なんだろうなって言ってました、ほんと、彼らしいでしょう」
 I’m on cloud nine. 幸せで地に足がつかないって意味。センスいいよな。なあ、零。これからいろんなことがあるし、こんなはずじゃなかったって思うことばかりかもしれない。でもな、どんなに苦しくても自分を失わないで、こうありたいと思う自分でいられたら、それはきっととても幸せなことだ。
 昼間うたた寝したときにふわふわと彼の言葉を思い出したからなのか、迎え火なんてしたからなのか、するすると彼についての思い出が蘇ってくる。もともとはそんな、なんでもないような思い出のほうがずっと多かったはずなのに、それを穏やかに話せるようになるまでに随分長くかかってしまった。四年前、この部屋で赤井と彼の話をした。そのときは辛くて苦しいだけだった。今でも胸に開いた穴が綺麗に塞がったわけではないし、完全になくなることはきっとずっとない。けれど、時間が経てば良くも悪くも風化する。一生忘れるはずがないとそのときには思っても、遠くなって曖昧になっていく。それは当たり前のことだ。生きているのだから。
 目を細めて柔らかく微笑みながら彼のことを話す安室の、四年前よりもずっと穏やかな横顔を赤井はぼんやりと見つめていた。安室は楽しそうにスコッチや赤井は知らない人の話をする。それに赤井は頷いたり一言二言返したりして続きを促す。ずっとどこかでしていた花火の音は、いつの間にか止んでいる。
「花火、終わりましたね」
「そうだな」
「線香花火でも買ってきとけばよかったな」
「行ってくるか?」
「いや、いい」
「そうか」
 空を見上げたまま、なんとなく途切れた会話の隙間を埋めるように左手を背中側に伸ばしてグラスを探る。ひんやりと濡れたガラスの代わりにじんわりと熱いなにかに触れて、反射のように指先を引っ込めた。なにかなんて言うまでもなく、安室の手だった。
 何事もなかったようにグラスを口に運ぶ。随分氷が溶けて薄くなっていた。安室はそんな赤井をつまらなそうに見つめていて、赤井がその視線に呼ばれて横目で安室を見ると今度はふいと目を逸らすのだった。
「……今日呼んでくれて嬉しかったよ」
「そう、ですか」
「そっけないな」
「冗談へたくそですね」
 そう言って、安室はプラスもマイナスもなく、どこまでもニュートラルに笑った。
 目を伏せ、ほう、と息を吐く。飛行機が飛んでいく。安室がなにか呟く。それを聞き取れず、聞き返す。困ったな、とでも言いたげに斜め下を見ながら笑う。それから赤井の目を正面からまっすぐ見つめる。
「九月からオーストラリアに行くことになりました」
「……は、」
 オーストラリア。九月から。あんまり急な話だったので情けないほど間抜けな声しか出なかった。安室はすこし気をよくしたようにふふんと笑い、また口を開いた。
 もうすぐ向こうに飛びます。テロ対策の関係で、向こうの大使館へ。二年は確実に向こうかも。どうなるかはまあ、よくわかりませんが、いつものことなので。……せっかくだから、あなたには言っておこうかと。そう、思って。
「……きみが、日本からいなくなるのか」
「期間限定ですけどね」
「断るのかと、」
「前の僕だったら間違いなく断ったでしょうね。ただ、日本でしないといけないことの他にもやるべきことはたくさんあるし、日本にいないと日本のために仕事ができないわけじゃない」
 今日、あなたがきてくれてよかった。きたらちゃんと言おうと思ってました。こられなかったら何も言わずに向こうへ行って、急にエアメール送ってびっくりさせてやろうと思ってました。
「きみらしいな」
「ええ」
 Tシャツの裾をはためかせ、髪を風に揺らしながら笑う降谷零はとてもうつくしかった。観念した、とでも言いたげに赤井がゆるやかに頭を振る。完敗だ。左手は床についたまま上体を左にひねり体ごと安室のほうを向く。
「敵わないな」
「やっとわかったか」
「気を付けて」
「言われなくても。他には?」
「……季節が逆だからちゃんと冬服を持っていくんだぞ」
「母親か!」
 背中をうしろに反らしながら安室はけらけらと笑った。触れてもいないのに、空気づたいにその手の熱さが伝わってくるようだった。
「……すごい違和感」
「なにが?」
「すべてが。赤井に転勤のこと話すようになるなんて、思いもしなかった」
 床と手の間に、長く細いのにしっかりとした指先が潜り込んでくる。驚いて目を落とし、すぐさま安室の顔に視線を戻すと悪戯が成功した子供のようににやりと笑った。
「驚いた?」
「ああ」
「やっぱり、驚いた顔とか似合わないですね」
 自然と距離が近くなっていく。とそのとき、赤井はハッと先ほど見たものを思い出し、すぐそこにある安室の体を右手で制した。安室の雰囲気が一瞬で不機嫌になる。
「……意気地無し」
「違うそうじゃない。恋人か恋人一歩手前かは知らんがそういう人間がいるんじゃないのか」
「はああ?」
 思いっきり顔をしかめつつ、地を這うような低音がぐんぐんと高くなっていく、最高に不機嫌なときの「はああ?」だった。 こんなに険しい顔を向けられる理由がまったくわからないが、しかし赤井とてここで引き下がるわけにはいかないのだ。場の雰囲気で安室に不貞を働かせるわけにはいかない。触れたままの左手を床から離そうとしたら、不機嫌な顔をしているくせに安室は強引に指先を赤井の左手の隙間に割り込ませて引き留めた。ますますわけがわからなかった。
「なにを言ってるんだ」
「それはこっちの台詞だと」
「うるさい! で? このタイミングでそんなことを言い出した訳は?」
「グラス、二つあっただろう」
「そうですね、それがなにか?」
「きみ一人暮らしだろう。よくここにくる人間がいるんじゃないのか」
 そう言うや否や先ほどの表情とは一転、安室がその大きな瞳をいっそう丸くした。
「……そんなことで?」
 そんなこととはなんだ、大事なことだろう……と言いかけたが、その言葉が赤井の口から飛び出ることはなかった。安室がわずかに頬を赤くしながら体を折って震えるように笑い始めたから。
「は? え、あれ、あれだけで、そんなこと」
「……笑ってるだけじゃわからん」
「本気で言ってます?」
 きみと話すときはいつだって本気だよ、と言いたかったけれど、余計ひどく笑われそうだったから口をつぐんだ。
「ちょっとねえ本気ですか? 信じられない! あれ、疲れて帰って飲んだ夜、洗うの億劫になって寝ちゃっても次の日もすぐ飲めるようにって、ただのストックですよ、なんだと思ったんですか?」
 目じりに浮いた涙を自由なままの右手で拭う。ひんひん笑いながら必死に息を整え肩を震わせている安室の姿に胸が詰まるようで、いびつに絡まった指先を一度ほどき、それから深く組み合わせる。
「……きみはほんとうに」
「え?」
 俯きそうこぼした赤井を覗きこむように、安室は離れていた距離を再び詰めてきた。ぎゅう、と指先に力がこもる。
「ばかなひとですね」
「そう言ってくれるな」
 零。
 赤井がそう呼ぶとぱちぱちと何回か瞬きをして、それから照れくさそうに目を細めた。
「……今かよ、きざなやつ」
 蝉の声がしている。風が吹き、カーテンがぶわりとふくらむ。汗をかいた二つのグラス、発火しそうな指先。雲の切れ間に覗いたアルタイル。その日、はじめてキスをした。

 泊まっていたホテルをチェックアウトしてすぐにトランクは預けたので、降谷は手荷物ひとつという身軽さで空港のラウンジにいた。ぼうっと外を眺めている間に何機飛んでいっただろうか。壁にかけられた時計に目を走らせるとそろそろいい時間だったので、カップのなかの残りのコーヒーをごくりと飲みきった。
 赤井にはあの夜以降会っていない。大切な話はあのあとにすべて済ませた。だからもう必要ない。
 搭乗まで時間を潰そうとのんびりとした歩調で歩けば、聞こえてくるのは当然日本語がほとんどだ。とはいえやはり英語や中国語、韓国語なんかもそれなりに聞こえてくる。八月だから特に、というのもあるのかもしれない。ここに戻ってくるのはいつになるだろう、なんて思いながら人の波を避けて窓際に立ち止まった。清々しいほどに晴れているから、窓から見える空と地上の景色はとてもきれいだろう。
「さっき、なんて言いかけたんですか?」
 はじめてした赤井とのキスは、ほとんど一瞬だった。味なんてものを感じる余地など一切なく、ただ自分以外のものでほんのすこしだけ湿った唇が風に吹かれてひんやりと冷たくなっていた。ゆっくりと体を離し、なんとなく目線を落としながら問う。赤井は一瞬はたと考え込んだあと、ああ、と頷いた。
「きみは本当に自由なんだな、と思ったんだ。なにものにも捕らわれない。俺の人生のなかでどこまでも特別な存在だ。友人とも恋人とも知り合いとも違う、どの枠にもはまってはくれないし、はまりきらない」
「……言葉選びがきざ」
「そうか?」
「ほんとに、そういうこと、よくさらっと言えますね」
 呆れたふうを装って言いながらもその通りだと思って、降谷は微笑んだ。
「でもまあ、同感です」
 それが、二人について大切なことのすべてだった。
 二人の間にあるものはなんなのだろう。羅列しようとして、時折抱く違和感の正体を突き詰めようとして、しかしそんなことはとても無理なのだった。あまりに多くのものが蓄積しすぎてもはやどうにもならない。その存在が自分に馴染んで人生の一部に組み込まれてしまって、キス一回程度じゃ何も変わらない。ただ、どこまでいっても相手がそこにいるだけにすぎなくて。
 指を絡めた理由も、唇を重ねた理由も、これからの約束も別に必要なかった。それはそれ。次は次。育った環境、出会った人、もらった思い出や負った傷、すべてを抱いて生きてゆく。どんなに風化しても消えることはなく、地層のように折り重なって自分を形成していく。自分の人生は自分だけのものだ。
 きれいに磨かれたガラスの向こう、飛び立っていった飛行機の白と空の青のコントラストが目に染みて、なにもつけていない左手を上にかざした。雑踏の向こう、時間を告げるアナウンスに呼ばれる。くるりと踵を返し、降谷は歩き出した。

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