9時間と、それからたぶん40分ほど前、付き合ってもない子にフラれた。正直わけがわからない。事態がまったく飲み込めずばかみたいに「え?」「は?」を繰り返す黒田に、その子は自分の言いたいことだけをほぼ一方的に言って、それで台風の次の日のように晴れやかな笑顔で言い放った。
「一方的にごめんね。でもなんていうか、えっと、そう、けじめ? いまでも黒田のこと好きだよ。もう付き合いたいとかその気になってほしいとか、全然まったく思わないけど」
じゃあなんで言ったんだ!
そしてやけくそになりつつペダルをぶん回してたら明らかに水分補給が足りなかったらしく死にそうになりつつも部活が終わり、やけくそ気分のまま同期とともに大学近くの安いチェーンの居酒屋になだれ込んで昼間の出来事を話し爆笑され、そして悪質な酔いの対価に2980円を店に落としたのが1時間と3分前。電車の時間を調べたのが59分前。案内表示に従って東京駅を駆け抜けたのが21分前。
いま、時刻は22時21分。黒田は静岡行きの終電、N700系こだま705号に揺られている。
どうしてこうなったんだろう、と流れていく街明かりを焦点の合わない目で後ろに見送りながら思った。ため息を吐きながらヴォルビックのキャップを捻る。さすがに何も持ってないのはやばいと思って慌てて自販機で買ったそれの、キャップの外れるカチッという音がどこか遠い。若干怪しい足取りだったのなんて最初だけで、大股で全力で走っているうちに酔いなんて飛んでしまったと思っていた。でもまだしっかりとアルコールが残っている。電車に飛び乗って正しく乗り換えて、入り組んだ東京駅構内を人波に揉まれながらも全力疾走して、冷静に正しい新幹線を選んで自由席を買って。おつりがいい感じになるように計算して支払って。本当はしらふの頭がまだ少しだけ残ってた、それなのになんでこんなこと、そう思うけれど本当にしらふならこんなことしない。やっぱり酔っているのだ。現在進行形で。
頭のなかはゆるふわな部分と寝たらしぬぞと警告するしっかりした部分がいりまじっていて、なにがなんだかという感じだった。気を抜けば眠ってしまいそうで、いやさすがに乗り過ごしたらヤバイだろオレ、いやでもさすがに起きるんじゃないか? いやいやでも。ていうか、考えてもしょーがねーか。今更だ。
なんでこんなことになったんだろう、もう一度改めてそう思った。いい感じだと思ってたはずの女の子に突然フラれたから? 財布にたまたま9231円も入っていたのが運の尽きだった? それとも20分かからないで東京駅に行けてしまったから? いますぐ東西線に飛び乗れば、静岡行きの最終に間に合ってしまうことに気付いてしまったから? どれでもない。どれでもなく、そしてすべてのせいだ、と思いながら黒田はあっさりと眠気に負けて瞳を閉じた。
夢の中で、黒田は高校3年生だった。
年末の浮き足だった雰囲気と風邪やらノロやらインフルエンザやらを拾ってきたらかなわんという雰囲気とどこかピリピリした雰囲気が混ざりあって独特の空気になっていた寮に、いまにも雪が降りそうだった。そういう空だった。
ああそうだ、これは3年前の年末だ、どんよりした空を見ながら黒田は思った。3年と、3ヶ月前だ。それがわかっているくせに、いまの黒田は17歳だった。
フリースを着込んで赤本を開き、数式をノートに書き連ねていく。もうすぐ拓斗がドアを思いっきり開けて、ユキちゃん! と叫ぶ。展開を知っているドラマの2周めのようにそう思った瞬間、バンッ! と背中から扉の開く音がした。
「ユキちゃん!」
ほら。
「なんだよノックしろノック!」
「そんなことより、荒北さんがきてるよ! ユキちゃん会いに行かなくていいの」
「うわマジかよ」
3年と3ヶ月前と同じことを考えて、同じ行動をとって、同じことを言う。
「キリわりいから、よくなったら行くよ」
「ユキちゃん……」
「わざわざ教えてくれてサンキュ。じゃあとで行くからさ」
本当にいいの、と言いたげな葦木場は、やはり記憶の通りにわかったと言って今度は静かにドアを閉めた。
このあと、寮の共用のママチャリにまたがってコンビニまでふらふらと肉まんを買いに行く。それではふはふと湯気と白い息を吐き出しながら肉まんを食べて、また寮に帰り、そこで彼に出くわしてしまうのだ。
そう思ったからか、次はもう寮の前で荒北の姿を見つけてしまった瞬間だった。心の準備くらいさせてほしかった。あと肉まん食いたかった。
「あ、黒田ァ」
間延びした声で久しぶりに名前を呼ばれてぐっと言葉に詰まる。これはいつぶりだ、えっと、ちょうど3年、いや、このときにはまだ9ヶ月か。
あのときはただ顔をしかめるだけですんだのに、いまはなぜか鼻がツンと痛んだ。夢のなかだから、寒さが何割増しかにはなっているのかもしれない。
「……お久しぶりです」
「ウワーかわいくねえ。葦木場と泉田見習えよ」
薄手のダウンのポケットに両手を突っ込んで荒北は顔をしかめ、しかしそれからへへっと笑った。鼻の痛みが酷くなる。風邪引きやすいくせにウルトラライトダウンかよ。もっと厚着してくれよ頼むから。
「帰省っすか」
「そ。もう実家帰るけどな」
あのときどうやって会話を続けたんだっけ。そもそもあのときは続けてたんだっけ。今みたいになに言おうか考えて、それで言葉を見つけられないんじゃなかったか。
さきに口を開いたのは荒北だった。
「最近どーよ」
「……どうってなにがっすか」
「そりゃあれだよ、ベンキョーとかロードとか、んなの、いろいろあんだろ」
「まあまあうまくやってます」
「あっそ」
……会話が終わってしまった。
濡れる気配のないアスファルトに視線を落とし、ぐっと体の中央に力を込める。あのときはなんとも思わなかったことが眼前にまざまざと突きつけられて苦しい。最近どうなんてそんな雑なネタフリをする人じゃなかった、受験生だからって気遣いをするような人じゃなかった。
「オメーのことだから大丈夫だとは思うけどォ、風邪とかノロとか拾ってくんなよ」
「んなことわかってますよ! 母親かアンタ!」
「ハハッ、やっとフツーの顔になった」
そんなこと言う人じゃなかった。
「まぁオレがなんか言うこともねーか。なんつーか、えっとォ、……」
19歳の彼はずずっと鼻をすすりながら、がんばれ以外の言葉を探している。17歳の自分はただなんだか気まずくて、言葉を探していただけだったのに、20歳の自分は零れそうな涙を必死に押さえ込んでいる。
「あの、荒北さん、オレ、洋南は受けません」
荒北はゆっくりと顔をあげ、それからとても静かな目で黒田を見つめた。
「オレはーー」
その先に言いたかった言葉は確かにそこにあって、しかしあのときもいまも形になることはなく、荒北は言葉の続きをじっと待ってくれていた。けれどなにも言えないまま口を閉じる。ゆっくりと荒北が吐き出した息が白く空に立ち上っていく。
「……自分で決めたことなら最後までやり通せよ」
「はい」
「んじゃ、オレ帰るわァ」
「……またきてください」
「気が向いたらネ」
あっさりと踵を返し歩き去っていった荒北を、やはり黒田は追いかけることはできなかった。そもそも追いかけたかったのかどうかもわからない。けれど、あのときみたいにさっさと部屋に戻ることもできず、ただ、白い息が吐き出されては消えていっていた。
ハッと目を開け、おぼつかない指先で慌ててスマートフォンの画面の明かりをつけると23時09分だった。静岡駅着の13分前。どうやら寝過ごしたらヤバイの危機感のほうが勝ったらしい。
あと13分、いやもうあと12分か。目を閉じたらまた夢の世界に逆戻りだななんて考えて、黒田はまたペットボトルに口をつけた。そしてはたと夢を見ていたことを思い出す。すぐそこにあったはずの夢の内容が、頭が冴えるにつれて思い出せなくなっていく。高3の年末だった、荒北さんが突然やってきたあの日、それで、えっと、えっと。たったの数十秒、経ってしまったらもう思い出せない。
それをやるせなく思うと同時に、黒田は恐ろしいことに気付いてしまった。新幹線に飛び乗って、静岡駅に着いて、そのあとは? 衝動的にここまできてしまったけれど、あの声が聞きたくてあの顔が見たくてここまできてしまったけれど、今夜のことをなにも考えていなかった。今から押し掛けてしまおうか、でも住所知らない、じゃあ最寄りまで行って、いやでも最寄りも知らねえ。そもそも行こうにも電車あんのかな。あと37分で日付も変わってしまう。じゃあどっかに泊まって帰るのか? ここまできておいて? いま静岡にいることを誰も知らないまま?
嘘だろ、酔っ払いの行動力こええ、とくらくらした。
酔いは確実にさめはじめていた。非常識な時間だ、こんな時間に連絡なんてできるはずない。でも、まだ確かに残っているアルコールが耳元で囁く。いいじゃないか。酔っ払いの無茶らしく、普段できないことをしてしまったって。それでここまできたんだろう。
所持金はとっくに3桁だが、本当はあともう一人諭吉がいる。本当の緊急事態のときに使う用としてずっと前から財布に忍ばされたままのそれを、黒田はもうしばらく目にしていなかった。財布からそれを取り出せば、四つ折りに畳まれたそれを広げれば今夜ネカフェなりカラオケなりで夜を越せる。そうするのが正解だとまともな部分ではしっかりとわかっているのに、けれどまだどこか怪しい指先はそれをポケットから抜き出せない。
車内のアナウンスが、到着地が近いことを告げる。心の中の天秤はもうとっくに片方に傾いていて、それなのにこの期に及んでまだ往生際悪く防御壁を築こうとしていた。3コール、それなら明日の朝間違えましたあははで済ませられる。3コールで出なかったらカラオケに行く。出たら最寄りを聞く。電車があれば行く。なければ行かない。全部で4通り、簡単な場合の数の問題だ。
数えるほどしか人のいないホームに降り立つと、自分の異質さが際立つような気がした。
思えば誕生日と実家の住所、3年前のメールアドレスと電話番号くらいしか知らない。静岡のどこに住んでいるのかもどう暮らしているのかも知らないのだった。
4年前を最後に一度もかけたことのない11文字を親指でなぞって、おそるおそる耳元にあてる。まず、そもそもとして、電話番号変わってるかもしれないし。お掛けになった電話番号はっていう、お決まりのアレを聞くことになるのかもしれないし。
1回。2回。3回目……が鳴り終わろうとしたとき。プツッ、と音がした。思わずビクッと体が震え背筋が伸びる。
「……黒田?」
「は、はい」
どうしよう、どうしよう、荒北さんだ。そう思ったらなんだかとてつもなく緊張してしまい、こんばんはだなんてなんの捻りもない言葉しか出てこない。
「夜分遅くにすみません……」
「そーだよボケナス」
「すみません……」
「……や、いーけどォ」
会話が終わってしまった。
ざざっ、と聞こえてくるごわごわしたノイズはなんなんだろう、とまったく関係のないことを考えて、それからはたと違う違う電車、と思い直して口を開いた。
「荒北さんっていまどこに住んでるんですか」
「ハ? 静岡だけど」
「それは知ってますから。最寄りですよ最寄り」
「ハ? え? オイオメーなんで笑ってんだよ!」
「いや、荒北さんオレみたいになってたんでつい……っ、いやすみません」
「ハ? わけわかんねーってかなんなんだよ、黒田いまなにしてんの」
「今ですか? えっと、券売機の前で路線図見てます」
「ア!? 何線の!?」
「東海道本線のですけど。ってかそこかよ」
「もしかして静岡きてんのォ!?」
「あ、はい。いまさっき着きました!」
「嬉しそうに言ってんじゃねえ!」
ハア!? 嘘だろ!? と電話口でほえる荒北の声にげらげらと笑いつつ、荒北さん最寄り! 電車なくなっちまうんで! と返事を急かすとかなりキレ気味に駅名を叫ばれた。まずは路線図、数駅先にその名前、次に時刻表。けれどぽつりぽつりと並ぶ数字を見つめても、いまはまだ間に合うのかもう間に合わないのかがわからない。この土地に詳しくないので。
「えっとー……?」
「まだ終電あっから! 41分の菊川行きにとりあえず飛び乗れ!」
「えっ?」
「いいからダッシュ!」
「は、はい!」
一回切ります! と叫ぶといいから走れ! とまた怒鳴られた。
息をきらしてほとんど跳ねるように走りながら、頭のなかをいろんな言葉がぐるぐると渦巻いている。どうしてこうなったんだろう。どうして荒北さんは電話に出てくれたんだろう。なんであのとき踏みとどまれなかったんだろう、めちゃくちゃ迷惑だって、迷惑以外のなにものでもないのわかってたのに、なんで家の場所とか聞いちゃったんだろう。なんでいま走ってるんだろう。
滑り込んだ終電のなかから、静岡の夜をぼんやりと見つめ続けていた。確かに黒田にとって荒北は特別で、それはとても悔しいことなのだがどうしたって特別で、しかしそこには高校の先輩後輩以上のものなどなにもない。だから高校を卒業してしまえばなにも残らない。毎年の年賀状くらいしか。
それだけのはずなのに、電車に揺られて十数分後、改札を出て黒田がおそるおそる目線を上げると見慣れたビアンキと眉間に深々と皺を刻んだ荒北がいた。
「こ……」
「……」
「こんばんは……」
荒北はチッと盛大な舌打ちをかまし、それからすたすたと自転車を引いて歩き始めた。ぽかんとその背中を見つめながら立ち尽くしていると荒北は勢いよく振り返り、さっさと歩けボケナス! と心なしか抑えた声量ながらも迫力のある声音で言った。それからまた早足で歩き出す彼を慌てて追いかける。
「あ、荒北さん、あの、」
「話は帰ってからァ」
「えっ、あの」
「んだよ」
夜分遅くにご迷惑おかけしてしまってごめんなさい、どっか適当なところで夜越すんで大丈夫です。なんて、言えるはずもない。そう思って、そう言っていいやつは、こんなところにこんな時間に押し掛けてきたりなんかしない。
迷惑なことをしてはいけないとわかっているのに、何も言えないまま、黒田はただ少し汚れた靴の爪先を見つめていた。迷子センターに一人では行けない子供のような姿をじっと見て、荒北が呆れたように困ったように、しかしどこかやわらかく小さく笑ったことを黒田は知らない。
「へえ、黒田にとってのオレはこんな夜中に後輩を外に放り出すようなヤサシクない先輩なんだァ」
予想外の言葉にハッと顔を上げると、荒北はいつものようににやりと意地悪げに口の端をつり上げていた。
「いや、だって!」
「言い訳も帰ったら聞いてやるよ」
この話は終わりだ、とでも言うように荒北はまた歩き出した。それ以上なにも言えず、置いていかれないように同じくらいの早足で歩きながら、黒田はカラカラと回る後輪を見つめている。
人の誰もいない大通りを抜けて、入り組んだ路地を右へ左へ行った先、荒北の住んでいるアパートはそこにあった。階段を上がった一番奥の部屋の扉を慣れた手つきで開けた荒北に先に入るように目線で言われ、渋々黒田は足を踏み出した。
「……お邪魔します」
ぺこりと頭を下げ、靴を揃えて端に寄せる。こうして黒田は荒北の部屋に初上陸した。日付が変わって27分たったあとのことだった。
「んで、なんでこんなとこまできてんのかなァ」
「すみません……」
「オメーが乗ったの最後の新幹線だろ」
「はい……」
「もともと今日押し掛けてくるつもりだったワケ? なに、サプライズ? オレ誕生日まだ先なんだけど」
「サプライズじゃないです……すみません」
「んじゃなんなんだよ」
「……」
あぐらの荒北とは対照的に、黒田はちょこんと小さく正座になったまま顔を上げもしない。埒があかねえとため息をつくと黒田はかわいそうなほどにビクリと体を震わせ、それを見てもう一度ため息をつく。ゆらりと立ち上がり、数歩先の冷蔵庫を開けて数日前から入れっぱなしになっていた缶ビールを取り出した。OBとの合同懇親会の余り物で、現役で分担して持って帰ることになったときに無理矢理引き取らされたものだったが、飲むならいましかないだろうみたいな気分だったのであってよかったと思う。プルトップに指をかけてぐっとあおった一口、視線を感じて黒田のほうを振り返ると彼はひどく傷ついたような顔で荒北を見つめていた。部屋の明かりのせいでなければ今にも泣きそうに見えてギョッとする。
「お、まえ、なんで泣きそうなの」
「は!? 泣いてませんけど!?」
そうキレ気味に黒田が返すもまさにその瞬間ぼろっと涙が落ちた。
「はあああ!?」
「ッセ静かにしろ!」
「すみません! うわなんでだよ止まんねー……マジか……」
うーだのあーだの呻きつつ、黒田はぐすぐすと鼻をすすり引き伸ばした袖で目元をこすった。赤くなる皮膚を痛そうだなあとどこか呑気な気分で眺めながら、荒北は特になにも言わず、というかなにも言えず、開けてしまったビールがぬるくなっていくのをどうすることもできずにいる。
そのうちに痺れてきたのか、黒田はもぞもぞと足を崩し、体育座りの膝に額を押しつけたまま黙ってしまった。ぼろぼろとこぼれるわけでは決してなく、けれど止まらずにじわじわ滲んでくる涙が憎い。いつだって追いかけ続けている人の前で泣きたくなどなかった。無様を晒したくなかった、それなのに、なにも言わずなにも聞かずそのままにしてくれている。こんなふうに優しくしてくれる人じゃなかった。自分たちの間には全く知らない三年間が横たわっているという、その事実を突きつけられている。わかりきっている、わかりきっていた。違う場所を選んだのは自分で、そこには断じて後悔などない。ないのに、どうしようもないことだけど、だけど、それが、なんていうか、うまく、うまく言えないけど。
それは、あの子も言ったことだった。
「なんていうか、あの、うまく言えないんだけど。きっと黒田はひとりで立っていられるタイプなのかなって、あの、違ったらごめん。でもなんか、そうなのかなって思って、そしたらなんかもう想像とかできなくなっちゃったんだよね。黒田はきっと、私をすきになることはないんだろうなって」
だから、そう、すきだったの。一方的にごめんね、と彼女は見たことのないような大人みたいな顔で、どこか吹っ切れたような晴れやかさとともに笑って言ったのだった。
ハイボールを流し込みながらその話をしたところ同期には「あー、なんかわからなくもないような……、あー」と言われてしまい、思い返せばそこからペースがおかしくなった。
そうやってひとりで生きていけたら誰も苦労しねーよ、追いつきたくても全然追いつけねえし、追い抜きたくて違う道を選んだはずなのに、そしたらもうなんもなくなっちまった、ふっと魔が差して連絡取りたくなることがある、けど絶対に取るわけにはいかない、そんなことできない。オレはあの人に無様を晒したくない。机に突っ伏しながらそんなことをぼやいていた気がする。前だけ見てまっすぐ迷いなく進んでいきたいんだ。それなのに、どうしてそれだけのことが、こんな難しいんだろう。
「なあ黒田さ、もう飲むのやめとけって。そんで、えーっと、その人? に会ってきたら案外すっきりするかもしんねーよ、ごちゃごちゃ考える前に連絡してみろよ、な」
水を差し出し背をゆすりながらそう言った同期の言葉にぐらりときてしまった。昼間の出来事とアルコールとで防御壁が正常に働かなくなっていたのか、本当は自分でも気づかない間にそれくらい弱っていたのか。静岡に行こう、荒北さんに会いに行こう、そう思ってからは早かった。
え、おま、今から!? そう叫ぶ同期の声を背中で聞きながら走りだした。青信号の点滅する交差点を駆け抜けて、なにも考えずに電車に飛び乗って。もう、いま行くしかないと思った。
「……荒北さん、すみません」
「ン」
顔をあげるとぐす、と鼻が鳴った。ああかっこ悪い。片膝を立ててスチール缶の上の縁を右手の指先だけでつかんでいる21歳の先輩に、数字の上でだけでも追いつくことはできない。自分はこのあいだやっと20になって、あと少ししたら荒北さんはもう22になってしまう。追いつきたくて、追い抜きたくて、だけど他人に寄りかかるようなことはしたくなくて違う大学を選んだ。それで、なんだったんだろう。だから、なんだったんだろう。
結局いまになっても答えなんてなにもなく、ただ、やっぱり、意味もなく連絡を取れるような気軽さも後輩としてのかわいさも自分にはなかったのだなあとぼんやりと思った。
翌朝、アルコールが抜けきって、ダイナマイトを体に巻きつけて高層ビルの最上階からガラスを突き破りたいような死にたい気持ちになりながら、荒北にめちゃくちゃに謝った。
黒田としては意地の悪い言葉を二つ三つ、いや四つほどは少なくともいただくかと思っていたのだがそんなことはなく、ただ
「不器用になったなァ」
とどこか感動したような調子で言われただけだった。おそらく酒に飲まれていたことは最初の電話の時点でわかっていたのだろう。それかもしかしたら、黒田の知らないところで荒北も似たようなことをやらかしたことがあったのかもしれない。
駅までは連れてってやるよ、とスニーカーを履きながら荒北は言い、慌てて黒田は玄関の外に転がりでた。駅まで、というのはてっきり最寄りまでのことだと思っていたのだが、黒田の予想とは裏腹に荒北はポケットのなかから定期券を取りだし静岡駅行きの電車に一緒に乗り込んだ。改札を入ったところで黒田は「え、ここまでで十分ですよ、申し訳ないですし、」と慌てて言ったものの、荒北はおまえはなにを言っているんだとでも言いたげな顔を一瞬だけ向け、それで終わりだった。思い返せば自転車を引いてはこなかったし最初からそのつもりだったのだろう。
昨晩はどこまでも全く知らない土地のように思えた窓の外は、朝になってしまえば普通にどこにでもあるような町だった。大事なことは夜に決めてはいけない、って言うけど実際そうだな、と思いながら黒田は外を眺め、荒北はぼんやりと後ろに流れていくよく晴れた朝の空を見上げている。
静岡駅はちらほらとスーツ姿の人々で埋まっていて、しかし新幹線のホームに降りるとやはり人はまだまばらだった。
「……オメー怪我でもしたァ?」
「え?」
道中ほとんど無言だったのに、いまになって荒北が唐突に口を開く。目を見張りながら荒北を振り返り、黒田は思わず聞き返した。
「怪我っすか」
「それかスランプとかァ」
「いや、してないですけど。どっちも」
なんでそんなことを、と思いながら返すと荒北はうげえと顔を思いっきりしかめた。ひどい顔だ。心外である。
「クソッ心配して損した」
しかし、吐き捨てるように言った言葉は黒田にとっては聞き捨てならないもので。ん、と頭のなかが固まる。心配? 荒北さんが? オレを!?
「オレのこと心配してくれたんスか!?」
「だーっウッセ! さっさと帰っちまえ! もうくんな!」
「は!? 言い出したのアンタでしょ!」
そこは詳しく話してもらわないと困ると、荒北さん! と叫ぶとうるせえ! と頭をはたかれた。
「いってえ!」
「部活ちゃんとやれてんのかよ!」
「やれてるもなにも、オレめちゃくちゃ先輩にかわいがられるタイプですよ」
「世も末だなァ!?」
「ハァ!?」
ぎゃんぎゃんと噛みつきながら、ああ昔と変わらないな、と思った。ただの先輩と後輩で、なかなか追いつけなくて、年賀状くらいしかもうやりとりは残ってなくて、お酒を飲むようになっていまなにをしてるかとかどんな暮らしをしているかとか何も知らないし知る理由もないけれど。違う場所で違う時間が流れて、知らないことばかりが増えていくけれど。それは偶然重なった箱根での2年間の延長線上に成り立っている。これからも延長線上に続いていく。ずっと続いていく。
ブォン、と音を立ててどこかのホームに電車が滑り込んでいった。声がかき消されて、なんとなく会話が途切れる。
「荒北さん、オレが受験のときの年末、荒北さんがきてくれたときのこと覚えてますか」
「アー雪降りそうだった日? あの日結局降ったんだっけ」
「どうでしたっけね」
あの日、言いたくて言葉にならなかった言葉は、いまでも黒田のなかにある。受験を控えて、卒業式が目の前にチラつくようになっていたあのとき。どうやってこの先進んでいくのか、進んでいきたいのか、考えるようになり始めたあのとき。
「じゃあ、オレがあの日、なんか言いかけて言えなかったのは覚えてますか」
荒北はじっと黒田の目を見て、それからふっと笑い、忘れたァと妙に柔らかい声で言った。
ふっ切らないといけないと思っていた。ふっ切れないと思い知らされる日々だった。他人に寄りかからず、自分の責任で自分で選んで、一人で立って前を向いて進んでいきたい。それは揺らがないことだけど、少し回り道をしたり休憩をしたり遠回りをするのは悪いことじゃないのかもな。そう思えるようになったのは、昨日、そして今朝、電車の中から見つめていた自分の知らない土地のおかげだった。どうしようもなく思うようなことがあっても、時間が経ってしまえばたいしたことない、とか。朝になれば気分も変わる、とか。先輩も丸くなるとか。まあ、若干は。
「怪我もスランプもしてないです、ちゃんと試合に向けてあげてってるんで。当然でしょ。だから心配しないで大丈夫ですよ」
「んじゃほんとなんできたワケ……? 夜中だぞ。なにかと思ったんだけど」
「それは、まあ、久しぶりに荒北さんの顔を拝みに行こうかと」
「へー」
「……優しくなった荒北さんが拝みたかったなあ」
「アァ!? どの口が言うんだよ十分優しくしてやっただろ! 叩き出してやればよかったなァ!?」
「あっすみませんすみませんいたい」
ぐりぐりと容赦なく頭の両サイドにねじこまれる拳が痛い。ちょっと返しミスったかなあと思ったけれど、予想に反してあっさりと離してくれた。
「んっとにかわいくねー後輩だなァ」
「すみませんね」
「引退して暇になったらぜってーオメーの家に押し掛けて家捜ししてやるからな」
「うわ大人げない。ていうかその前に、引退までにぜってー負かして、荒北さんにメシおごってもらいますからね!」
覚悟しとけよ! と言い放つ。不敵に、自信たっぷりに笑いながら。荒北の弾けるような笑い声が響く駅のホーム、6時38分。もうすぐ今日2本目の新幹線がくる。
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