いつのまにかブルー

 なかなか授業終了時刻を指してくれない時計から視線を外し、眺めた窓の外は一足先に真夏がきたかのように晴れていた。いま走りにいったら日射しが白い車体に反射して眩しいだろうな、とそんなことを考えながら真波はあくびをする。それをタイミングよく(真波にとっては運悪く、であるが)見てしまった幼なじみが顔をしかめた。苦笑いでごまかし、再び青い空にぼうっと目を向ける。夏がくる、いや、もうすぐそこまできている。手持ちぶさたの右手で机の上に放られた鉛筆を握り直しながら、一年とすこし前に東堂に言われた言葉を思い出していた。

 七月、そろそろ梅雨が終わるかというよく晴れた日。授業中に駆け足で通りすぎていった雨に濡れ、緑が色濃くつやつやと光っていた。
「人は結局自分のためにしか生きられないのだよ、真波」
 そう呟いた東堂を見上げ、真波ははあ、と間抜けな声をもらした。
「なんだ、変な顔をして」
「いやあ、東堂さんがそういうこと言うと思わなくって」
 へらりと笑って、アスファルトの上に放り投げられた自分の爪先をぼんやりと見つめる。浅い呼吸を繰り返していた肺はおおかた落ち着きを取り戻していた。息切れがもたらしてくれた、自分のからだがまぎれもなく自分のものであるという実感はまたどこか遠くへ消え去ってしまった。なんでいつだってあの感覚はここにいてくれないんだろう、そう思いながらシューズの先端、いつのまにか削れてささくれだった靴底のゴムを見つめている。そんななかの、東堂の言葉である。
「東堂さんのことだから、なんか言うとしたらチームのためにーとかかなって思ってました」
「それはそうだろう、調和が取れているということは美しい。だが、それだけというわけでもない」
 なにが言いたいのかよくわからなかったが、とりあえずはあ、と曖昧に頷いた。重々しいわけではない、けれど軽口とも違う、そういうトーンで発せられる東堂の言葉はさらりと受け流すことも真正面から受け止めることもできないから困る。
「お前は初めての一年生レギュラーだ。その意味がわかるか」
「えーっと……オレが速いってことですか?」
 考えてもよくわからなかったのでとりあえずそう返す。てっきり呆れられるかと思っていたのだがそんなことはなく、東堂は真面目な顔を崩さないまま言葉を続けた。
「インターハイだけじゃない、これから先、いろいろなことがあるだろう。迷うことも悩むことも、どうしたらいいのかわからなくなって投げやりになってしまいたいこともきっとある。でも、これだけは覚えておけ。最後に決めるのはいつだって自分だ。だから、どんなときにも自分の心から逃げるなよ、真波」
 ぽん、と真波の頭に軽く手を置き、東堂はまたコースに戻っていってしまった。簡単な言葉しか使っていないのに、東堂さんの言うことはいつだってわかるようでよくわからない、とひとり取り残された真波は思った。呼吸はもうまったく苦しくないのに、なんだか胸のうちがもやもやとつかえるようだ。東堂さんが難しいことを言うから。勢いよく立ち上がってそのもやもやを振り落とそうとしたがそれは叶わず、うーんと首を捻りながらまたロードにまたがったのだった。

 喉の奥にひっかかった魚の骨のように、東堂の言葉が再び真波のなかで存在を主張しはじめたのはインターハイが終わったあとだった。自由に走れと言われた、自由に走っていいんだと思った。自由に走った。重いペダルを踏み込むたびにさらさらと流れ落ちる水みたいな汗がアスファルトに染みては瞬く間に乾いていくのをスローモーションのように見ていた。――その結果がいま、自分の両肩に、からだの奥に重石のようにのしかかっている。
 自分の思うように走ったし、走れた。坂道君と走るのは楽しかった。自分からどんどん余分なものが削ぎ落とされていく、あの感覚、楽しかったのは事実なのに。どうしていま、こんなに後悔してるんだろう?
 自分の思う通りに走ったら、負けた。走っている最中汗が流れて止まらないように涙が出てきて止まらなくて、ぼやける景色を呆然と見ていた、あの午後。日付が変わってからは嘘のように涙がぱったりと出なくなった。かわりに、自分で自分がわからなくなってしまった。
 真波山岳は器用な子供だった。しかしその器用はあくまで局所的なもので、そういう内面の苦しみを表に出さず他人が気づかないという器用さはあれど自分で自分をごまかしていく器用さは持ち合わせていなかったのである。他人の前ではにこにこと笑っていられる。ひとりになるとうまく笑えない。会いたくないはずの相手ともにこにこと会話できる。それなのにその相手と走り出せば楽しい。怖いもの知らずでいられたときのように、変わらず。
 チームのために走れなかったからいけなかったんだろうか。でも東堂さんは自由に走れって言った。今度はちゃんとチームのために走ろうと思った。なのに熊本で、また東堂さんは自由に走れって言った。リザルトをとったら嬉しかった、でも坂道君と一緒に走った二日目のほうが楽しかった。来年、オレは走れるのかな。走っていいって誰かが言ってくれるのかな。でも、自分のいていい居場所を自分以外の誰がつくってくれるんだろう。じゃあ、オレはどうしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。どうしなきゃいけないんだろう。
 肌寒い日が続いた週の木曜日、燃えないごみを出そうとする母親が持った大きいごみ袋にボトルをねじ込んだのは悪あがきだったのかもしれない。
「それ、捨てちゃっていいの?」
「うん……、それ、もう使えないから。壊れちゃったんだ」
 不思議そうにたずねた母は、息子の返事を聞くとそう、とだけ言ってあっさりとごみ袋を玄関先に出した。三分後、回収車のエンジン音を真波は自分の部屋のなかで聞いていた。

 先輩たち、みんな自分のためっていうのとは別にちゃんとチームのために走ってた。オレもチームで勝つためにって思ってたつもりだったけど、それはつもりなだけだったのかもしれない。チームのためにって走れなかったから負けたのかもしれない。そう思ったところで、動かす足と裏腹にタイムはあまりよくなかった。そうして真波がオーバーワーク気味になりはじめた数週間後、追い出し壮行会があった。先輩たちにいろんな言葉をもらった。少しだけからだの奥の重石が軽くなった気がした。いつも見ないようにしていた坂道からのメールを、気づいてすぐに返信したのは久しぶりだった。ずっと鎮座していた重石はすぐには消えてはくれず、着信にはまだなかなか出ることができない。けれど少しずつ、それが溶けて自分の体になじんでいくのかな、といまは漠然と思う。小さくなった石鹸を新しい石鹸になんとかくっつけようとすると最初はずれてうまくくっつかないけれどだんだん端が溶けて混ざって固まって、そうしてひとつになっていくように。
 桜が咲く前に、ふわふわと漂っていた自分を繋ぎ止め、いていい場所をくれた人たちはここからいなくなってしまった。
 そうしていつのまにか桜の木はピンクから緑になり、いま真波は、ぼんやりと夏になる直前の空を見ている。石鹸が溶けてくっつくように、水彩絵の具が滲んでいつのまにか色が変わるように、その場所と自分がグラデーションのようにしっかりと繋がるまでには時間がかかる。本当は他の人はもっと早く、半年とか数ヵ月とか数週間とかでもそうなれるのかもしれないが、これまでの人生でそういう大きなものの一部になった経験など一度もなかったのだから仕様がない。
 夏がくる。今年の夏のことを頭に思い描く。坂道君はまた笑いながら追いついてくるのかな。東堂さん、今ならなんとなくわかるよ、東堂さんが去年言ってたこと。自分のためにしか生きられない、自分のためにしか走れない、自分が思ったことしかできない。きっとそういうことだ。
 思い返せば、あの七月の雨上がりの日を境に東堂が真波に言う信託めいた言葉はどれも真波のなかにぼんやりと、しかしはっきりと残り続けることになったように思う。わかるようでよくわからない、ふわふわと曖昧だが消えることなく残り続けるいくつもの言葉。時間差でひらめいて、ぐちゃぐちゃだった糸がなに食わぬ顔でまっすぐになっている、そうやってすとんと胸からおなかのほうに落ちていく言葉。今年は東堂さんはいないんだ。と、今更すぎることを改めて思う。自分は二年になり、後輩ができ、手持ちのボトルはひとつ減り、去年よりも青いユニフォームが似合うようになった。真波は今年も、自分のために走るだろう。ひとりで駆け抜けていくだろう。そうしてすべてが終わったら、ゆっくり話がしてみたい。君は去年よりも、黄色が似合うようになった? オレはちゃんと、あの青を着て走れるようになったよ。

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