スーツ、スーツ、コピーしてペーストしたように同じ姿の人の群れのなかに、新開が立っている。
ノートやパンフレットやスマートフォン、タブレットに視線を落としつつ足早に歩く学生のなか、ひとり立ち尽くしている、私服姿の新開。ひどく浮いて見えた。その姿を見つけてつい立ち止まる、後ろを歩いていた人は迷惑そうに眉をひそめながら自分を追い越して、せわしない人混みのなか、自分と新開の周囲一メートルだけ、時間が止まってしまったようだった。
その止まった時間をむりやり再び動かし始めて、足を一歩、新開のほうへと踏み出す。気づいた新開がぼうぜんとしながら名前を呼ぶ。なにしてんの、と言う。靖友がどんなことしてんのかなって思って、でも、オレ場違いだったな、と困ったように笑う。別にいいじゃん、と言う。え、と首をかしげて聞き返される。目をそらして革靴と運動靴の爪先を見つめ、また顔をあげる。正面から新開を見つめる。そのほうが見つけやすいからァ、と言う。新開はわずかに目を見開いて、それからくしゃりと笑った、そして塞がっていない自分の右手にその左手を伸ばして――
ゆるゆると目を開けると、もうあと一分もせずに最寄り駅だった。窓ガラスの向こう、見慣れた景色が左へと流れていき、ひどく疲れた顔をした自分がその合間に映っている。
ドアが開き、まばらな人波に押し出されるようにして電車を降りた。そのまま流れに乗って階段を降り、改札を抜け、駅の外へと出て、歩きだす。じゃあまたね、あんがとー! 楽しかった! またラインするわー。そんなふうに手を振りあいながらきらきらとした声を交わす大学生男女のグループの横を通りすぎ、油断すれば地面に落ちそうになる視線を意識してまっすぐ保ち、もう何度も何度も通った道を今日も歩いていく。
住んでいるアパートは駅から歩いて十五分ほど、車も人もいない街灯に照らされた道を、背筋をのばしてしゃんしゃんと突き進む。大きな歩幅で、少し息が上がるのも気にせずに。なにがあったわけではなかった。けれどひどく疲れていて、そんなときは意識して自分の姿、その輪郭を保っていなければすぐに崩れてぐずぐずになってしまう。だから、頭のてっぺんから糸で吊られているように背筋をのばして、正面を見つめて、大股で歩く。誰が見ているわけではなくとも。
ひどい夢だった。吊革につかまりながらうとうとして少しでも疲れをまぎらわせたかっただけなのに、あの夢のせいでかえって疲れが増してしまった気がする。あの夢を見るのははじめてではなかった。もう何度も繰り返し見ている夢で、特に理由もなく、しかしひどく疲れた日に限ってあの日の新開は荒北の夢のなかに現れるのだった。
ひどい夢だ。ひどい夢だった。今日もあいかわらず。
階段を上がり、鍵を差し込んで部屋に入る。普通の音量で発されたただいまが、一人暮らしの部屋に反響して、電気をつけた瞬間にはもうどこにもない。靴を脱いで傷がないか確認し、コートを脱いで玄関横のハンガーにかける。ネクタイをほどきスーツを脱いで隣のハンガーに同じようにかけ、洗面所で時計を外して手を洗う。冷蔵庫に入れられた缶ビールを取り出してプルタブを引き、ごくりごくりと二口流し込む。近くのスーパーで二日前に買っておいた一人用鍋うどんを電子レンジにいれる。ここまで、五分。流れるように一連の動作をこなし、あたたまった夕食と缶ビールを両手に、テレビの前に腰をおろした。
録画一覧の上のほうにたまったものは、日付はまちまちなもののすべて同じチャンネル。そのなかのどこかに必ず新開隼人がいる。新開が走るレースの中継があれば必ず録画して、見終わったあとにはすぐに消去ボタンを押すくせに、「消去しますか?」に対してはいが選べない。そうして埋まっていく録画一覧。最近ではもはや開き直って、気が向くたびに好きなレース、新開が勝つところを何度も見ていた。
そんな録画一覧の一番下、昨夜録画した番組を選択して再生する。早送りでCMを飛ばし、うどんをすする。人に言うと意外だと驚かれるが、けっこう、カラオケ王決定戦だとかアカペラだとか、そういう類いの歌番組は好きだ。高校時代、寮でみんなが見ていたからかもしれない。進んでみんなと見ていたわけではなかった、いつの間にか新開や東堂に引きずられて一緒に見るようになっていた。それだけ、と言い訳しながらもそれが本当は楽しみだった。
新開のことがすきだった。いつからかわからないくらい、気づいたときにはもうすきだった。
廊下を通ると、テレビを見ていたはずの新開がなぜか急に振り返り、「靖友!」と笑う。一緒に見ようぜ。オレ別にいいからァ。そんなこと言わずにさ、ほら、もう始まるぜ。そんな会話を一応は繰り返して、しぶしぶといった体を装うくせにおとなしく新開に腕を引かれ、隣に座る。そして真剣に画面を見つめる横顔をちらりと盗み見ていた。あの頃、新開の隣にいるのが当たり前だった。横顔、背中、いつだって新開はすぐ近くにいた。すこし手を伸ばせば触れられた。気を抜けばすぐに溢れだしそうになる、すき、という気持ちをごまかすように背中を叩いたり足を蹴ったりすれば、なんだよと人懐っこい笑みを浮かべながら仕返しのように小突いてきた。すきだった、ずっと新開の隣にいられると信じて疑わなかった、信じる信じないそれ以前に、息をするくらい当然だった。
一人の部屋に、鍋うどんを食べる音とアルミ缶が机にあたる音、テレビから流れる声と、スゲエとかおおーとか当たり障りのない感想の呟きが充満している。
画面のなかでは一回戦の四組目の対戦が始まろうとしている。これが終われば準決勝、前回優勝した女性はやはり最後に歌うらしい。ちょうど空になったうどんの容器を手に持ち、テレビの前から立ち上がる。番組は再びCMに入ったのでそのままにして、ゴミを捨て、放置していたスマートフォンを充電器につなぎ、テレビの前へと戻って体育座りで缶ビールをあおる。ほどなくして対戦相手の男性が対戦曲を歌いはじめる、そこでスマートフォンが震えたので確認すると仕事についてのメールだった。簡単に返事を打ち、再び放ってテレビへと視線を戻す。男性はもう歌い終わったあとだった。出された点数はなかなかに高得点だったが、巻き戻すほど真剣に見てるわけでもないしいいかと思いつつまたビールに口をつける。
画面のなかで、MCと話していたときとはがらりと雰囲気の変わった女性が、目を伏せてゆっくりと口を開く、歌いはじめる。I Dreamed A Dream――邦題はたしか、「夢やぶれて」。
新開のことがすきだった。
気がついたときにはもうすきだった、それからいまにいたるまで、ずっと。
隣にいるのが当たり前だった。大学で会えなくなってもなにかが変わるなんて思いもしなかった、ずっと、なにも変わらないまま、隣にいられると思っていた。自分はいつだって呼びたいときにその名前を呼べると思っていた。いつだって、自分の姿をみとめればあの声で名前を呼んでくれると思っていた。
鼻の奥がいたみ、視界が水で揺れる。瞬きをしたら溜まった涙が流れおちて、そこからはもう止まらない。
涙があふれた。
テレビからわきあがる拍手と称賛の音を一時停止で止めてそのまま手をティッシュに伸ばし、ずび、と鳴った鼻をかむ。端で涙をぬぐう。歌を聞いて泣いたのははじめてだった。いろんなものをすっとばして心の一番柔らかい部分を揺さぶられた、そんなふうに感じた。
手の中の濡れたティッシュ、もう数口しか残っていない缶ビール、埋まっていく録画一覧、時停止されたテレビの画面、かけられたスーツ、部屋の隅のアイロン台、夢のなかにいた、あの日の新開。それらでごちゃごちゃになった部屋の真ん中で、体育座りの自分が膝に額を押し付けて泣いている。
なぜ今日に限ってあの夢を見たのだろう。本当にひどい夢だ。悪夢といってもいい。特に理由もなく、しかしひどく疲れた日に限って新開は夢に現れ、あり得たかもしれないあの日の続きを何度も何度も繰り返す。あの日、大学三年生の冬、足を運んだ合同説明会の会場になぜか私服姿の新開が現れたあの日。スーツを着ていた、紺のネクタイを締めて、右手には就活用の鞄、左手にはついさっき訪れた企業ブースで手渡されたパンフレットを持っていた。なぜだかわからないけれど、なにかが気になってふと視線を上げる。あたりを見回し、足を止める。見つめる先にいたのが新開だった。
型でくりぬいたようにリクルートスーツの学生で溢れかえったすきま風の寒い会場の隅、新開は入り口のすぐそばで立ち尽くしていた。その私服は見たことのない組み合わせで、服装自由といいつつも、とでも考えたのだろうか。きれいめの、今まで見たことのないような系統の服で居心地悪そうに立つ新開はひどく浮いて見えた。
こんなところにいるはずのない新開の姿に頭のなかでは疑問符が飛び交っていた。なんで、どうして、誰に聞いて、オレがいることを知って、いやそんなわけないだろなんでだ、なんできたんだ、なんで、なんでここに新開がいるんだ。
時間が止まってしまったように足が動かない。新開、といつものように呼んですぐそばに行きたいのに、足も、口も、腕も動かない。金縛りにあってしまったように。そしてそうしている間に新開はゆっくりときびすを返し、会場からあっという間にいなくなってしまった。なにかを諦めたような、それを微笑みでごまかしているような顔で。自分はといえばなにもできず、言えず、ただその背中を見送るばかり。
しんかい。
小さな呟きが、ばらばらの足音のなかにぽつりと落ちて、すぐさま空気にまぎれて消えていく。金縛りはもう解けていたのに、追いかけること、いやそれ以前に、追いかけようと足を踏み出すことすらできなかった。
思えばそれが二人の関係のすべてだったようで。新開に気づいていたのに声をかけられなかった自分と、なにかを悟ったような表情で背中を向け、しっかりした足取りでまた自転車にまたがり去っていった新開。忙しさを理由に次第に連絡をとる回数は減っていった。新開は着実と外国行きの準備を進めていて、自分は就活と卒論の存在を盾にしていた。それから大学を卒業して社会人になってもう何年もたつ、新開とは一切連絡を取らない日々がいつの間にか数年にまで膨れ上がっていた。
もしあの日、新開を追いかけて、新開と話していたら。そうしたら、なにか変わっていたのだろうか。いまも新開の隣にいられたのだろうか。気軽に連絡できる間柄だったのだろうか。そんなありえもしないifを、あの夢は繰り返し見せつける。選べたかもしれなかった幸福なルートを。
ひどい夢だ。悪夢といってもいい。夢から覚めるたびに、現実が首を締め上げる。選んだのは自分だ。あの日止まった時間を動かしはじめたのは新開だった。自分ではなかった。あの日、あの数分だけがきっかけとなって変わってしまうような関係ではなかった。そんな浅い関係ではなかったのに、なにも行動を起こさない、自分がそれを選んだのだ。ただの社会人と、海外で華々しく活躍するプロロードレーサー。生きる世界の違いを埋めるためになにかすることをしなかった。
けれど、けれどなにができたというのだろう。あの頃は恐いものなんてなかった。息をするくらい当然のように新開が隣にいて、これから先、進路が違ってもずっと変わらず新開がそこにいる人生が続くと思っていた。物理的な距離はあっても、心理的な距離が生まれるなんて思いもしなかった。大学へ行って、何倍もハードになった部活と勉強、一人で完結させないといけない生活、隙間を埋めるように入れたバイト、それらの歯車はいっこうに噛み合うことなくバラバラに動いていて、思うようにいかなくて、それを見ないふりしてペダルを回し続けた。けれど大学も三年目の終わり以降は次第にジャージのかわりにスーツを着る日のほうが多くなって、自分と向き合い自問自答する日々、その合間で新開は海外でプロになると聞いた。本人から聞いた。スゲェじゃん、おめでとう、がんばれよ! そう笑って言いながら、心のなかで思ってしまった。ああ、もう生きる世界は完全に違ってしまうんだな、と。
どんなに強く思っても、叶わないこともある。
就職先は志望業界とはまったく違うところで、けれどそれを不満に思っているわけではない。やってみればどこにでもやりがいはあるし、忙しいがそんなの当たり前のことだ。だから、別に不満があるわけではないのだ。
大人になるにつれて自分の力ではどうしようもできないことがどんどん増えていった。小学校、中学、高校、大学、あの頃思い描いていた二十四はもっと輝いていた。こんなはずではなかった。ただがむしゃらに脇目もふらずにまっすぐ進んでいた高校時代のような情熱を今ではもう失ってしまった。大学時代、ちゃらちゃらと適当に遊んでいたやつらが要領よく大手に就職し、いまの自分とは比べ物にならないようないい生活をしている。
努力を怠ったつもりはない。後悔しているわげもない。自分ではどうしようもできないこともある、利口にならなければいけないこともある。だから、不満に思っているわけではない。
ただ、ひとつだけ。どうしてこうなってしまったのだろう、という、それだけが涙とともにあふれでてくる。
大人になった、しょうがないことがあると知った、身の程というのを知ってしまった。できないこともあると知ってしまった。叶わないこともあると知ってしまった。こんなはずではなかった。あの頃、あの頃はなんでもできると思っていた。手をのばして努力すればきっと望むものが手に入ると信じていた。信じて疑わなかった。どうしてこうなってしまったのだろう。明確な理由がないこともわかっている。いろいろなものが複雑に絡み合って、その結果、そう、もう自分にはどうしようもないのだ。
新開がすきだった。
一番多く、繰り返し見ているレースの録画。スタート前からなぜか新開がよく映っていた。走り出してからはまっすぐ前だけを見すえる新開が風のように加速してゴールを一番に割る。最後、新開は優勝を競っていた選手を左から抜いた。
スタート前にハンドルに上半身をのせてパワーバーを食べている姿も、左は右よりもわずかに強く踏み込む癖も、風呂上がりにはさらにひどくなるうねった髪も、変わらないまま。あの夏と同じ青空の下をあの頃よりも速い速度で走り抜けていく新開は、人懐っこい笑みを浮かべて知らない言葉でインタビューに答えている。
新開。おまえやっぱりさあ、見つけやすいよ。めちゃくちゃ目立つよ。だってこんだけ選手がいるのに、毎回、ほぼ一発でおまえがどこにいるか見つけてるんだぜ。
新開がすきだった。気づいたときにはもうすきだった。それを告げるつもりはなかった、いままでどおり、それがただの友達としてであっても、隣で笑いあえればそれだけでいいと思っていた。
一時停止したままのテレビの画面、震えるスマートフォンに届いたメールを返し、久しぶりに二人ぶんの食事をつくり、久しぶりに日本の空気を吸う新開を家で待つ。インターホンが鳴って扉を開ける、日に焼けた新開がそこに立っている、靖友また痩せたんじゃない? と表情を曇らせる新開に、おまえのガタイが前よりよくなったんだろ、と笑う。おかえり、と言うとただいま、と笑う。食事の支度をしてテレビに向かって停止ボタンを押す。表示される録画一覧を見て、新開が目を見開く。靖友、これ。あー、と照れ隠しのように頭をかく。もしかして、全部見てくれてるのか? うわ、どうしよ、すげえ嬉しい。オレもっとがんばらねえとなあ。新開がにやにやとゆるむ口を右手で押さえながら言う。そうだよ、応援してんだからさ、と言ってローテーブルに食事を運ぶ。おまえがこの部屋にいんのすげえ違和感、と吹き出すと、ひど、じゃあもっと日本にいねーとな、とへらりと言う、ちゃんと向こう帰って練習しろよ、とがっしりしたからだを小突く、新開はうん、と嬉しそうに笑う。ふたりで、いただきます、と手を合わせる。新開がすきだった。もう何年も。友達としてでいい、物理的な距離なんて会えば吹き飛ぶようなそんな関係で、あの頃と同じように隣でふざけあい笑いあう。そんな未来が当然あると思っていた。そんな未来を、そんな夢をみていた。
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