適切な関係

 海の写真一枚。
 久しぶりに荒北から新開に送られてきたのはそれだけだった。
「これどこの海だ……?」
 どんなに拡大してみても建物は見えず、スマートフォンの画面いっぱいに見える水面とそのきらめきと、空。
『海にいんの?』
 教授が板書してるのをちらりと顔をあげて確認してからそう送ると、すぐさま既読がついた。
『うん』
『伊豆?』
 すぐにあらわれる既読の二文字。あらわれない次の白い吹き出し。
 画面を見つめていても、次の返信はなかなかあらわれなかった。荒北は携帯を見ているときはそれなりのテンポで返事をくれるが、一度見なくなると次に見るまではぱったりと反応がなくなる。それがわかっているから、自分が反応できるときに彼から連絡があったらできるだけはやく反応するように新開は心がけていた。べつになにか理由があるわけじゃない。単純に、すこしでも多く、長く、荒北とやりとりをしていたいからだった。
 返ってこないということは、既読だけつけて彼はラインを閉じてしまったのだろう。まあいいや、と思いながら一度画面の電気を落として黒板に書かれた内容を手元のプリントに書き写す。そのうち、気が向いたら返事をくれるはずだ。
 眠気を誘う教授の声とざわざわした話し声、ななめうしろの席にいる男子生徒の静かで気持ちよさそうな寝息。これならバイブ鳴ってもばれないかな、と新開はサイレントモードからマナーモードへと切り替えた。
 十一月ももういつの間にか半ばを過ぎ、日によってはもうかなり寒くて、新開は暖かい室内ですこしまくっていた袖を伸ばしてからまたシャープペンシルを握った。寒がりにはつらい季節はもうとっくに始まっている。窓の外に視線を移すと銀杏は色づいていたり、いなかったり、中途半端である。黄色くなった銀杏はそれなりに好きだけど、それより、落ちてつぶれたぎんなんがいまだにくさい。天気がよくて、日向はそれなりにぽかぽかした陽気だった。そのかわり日陰は風が吹くとけっこう寒い。寒がりのくせに日々のせわしなさに追われていまだに冬服に移行しきらず、重ね着でどうにかしのいでいるが、そろそろ限界だろうなと思う。寒がりなのである。
 そんなことを考えていると、手元に伏せておいていたスマートフォンが震えた。そっと左手でひっくり返すと、あらわれたポップアップには『ナイショ』とだけ書いてあった。
 ナイショ、ってなんだろう。なんか靖友かわいいな、と思う。荒北はときおりこういうことをする。そうして学科のグループラインを開いて午後ひとつだけある授業の休講を確認して、今日は部活もなくて、そうやって新開の午後の予定は決まった。

 本当は手持ちの荷物、財布、というか現金以外のすべて、スマートフォンだとかパスモだとかを駅のロッカーかどこかにしまってきてしまいたかったのだが、そういうわけにもいかず、新開はやはりすべての荷物を持ったまま電車に揺られていた。
 そういうわけにはいかないというのはあくまでもしものことがあったら困るという仮定の話で、もしももなにもないだろうとばからしく思っているのに、なんとなくそういう予防線を取っ払うほどの勢いまでは持ち合わせていなかったらしい。そのくせ逃避行らしく、ちまちまとトーク画面を開いては閉じ、開いては閉じ、ラインの通知をひとつずつ切っていく。そんな自分を滑稽だなとすこし情けなく、すこしおかしく思い、笑うかわりにゆっくりと長く息を吐いて窓の外を見た。
 各駅停車はのんびりと町の間を縫うように進んでいて、平日の午後というへんな時間というだけあってそれなりにすいている。急行とは大違いだ。遠くの場所にしっかり長い時間をかけないと着かない、という、そういうのがなんかいいなと思ってわざわざ各駅停車を選んだ。しかし、本当になかなか着かない。夕方までにはたどり着くんだろうか、と若干不安になり、かばんの奥底に沈めたスマートフォンに手を伸ばしかけて、止まった。
 わざわざ外部接触しうるツールを自分の手ですべて遮断したのに、そうしたさきからなぜまた手を伸ばしてしまうのだろう。ああもうこんなの依存じゃないか、とまたやるせない気持ちになって、だったら本当に駅のロッカーにすべてすべて、こういうもやもやしたものもみんな、押し込んできてしまえばよかった。と、後悔しかけるけれども、電車の速度は変わらないまま、がたんごとんと使い古された擬音語であらわされる音を立てて進んでいく。
 けっきょくのところ、三百円を代価に完全に身ひとつになるよりも、いつくるか、そもそもくるかどうかもわからない荒北からのコンタクトを受け取れる道だけを残すという、そちらを優先したわけである。ラインのトーク一覧の、ひとつだけ通知が切られていない荒北靖友の行、それをまぶたの裏に思い出して、新開は目を閉じた。

 間延びした、終点、終点、というアナウンスに意識を呼び戻される。まばらにホームに押し出されていく人の波にまぎれてのそり、のそりと、大またでゆっくりと歩いていく。ポケットに入れた小さな切符を改札に通し、切符はもう、戻ってこない。日はだいぶ落ちていて、風が吹くと寒く、しかしまだ夕方にはなっていないようだった。時間は、と思ったけれどわからない。ホームの電光掲示板を見ればわかったのになと思わないでもないが、振り返ることすらおっくうだった。時計もしていないし。
 海のにおいに誘われるようにてきとうに歩く。もしかしたら遠回りをしているのかもしれないが、最短距離を調べるのも、聞くのも、見るのも、面倒で、それなのになぜかこんなところまでひとりでふらふらときてしまって、いまはただ、ひたすらに海が見たかった。
 海のにおいってなんなんだろう、と思う。このしょっぱいような、髪にからんでぎしぎしなるような、そういうにおいをすんと感じながら歩く。道にぱらぱらと散った灰色の砂は、風でこんなところまで追いやられてしまって、そのまま砂浜に戻ることもなく、ずっとアスファルトの上を右往左往しているのだろうか。ひとりになるとだめだな、と思い、ポケットに突っ込んだ指先をこすりあわせる。ひとりになるとだめだ。くずれて、いきなりもろくなって、誰かといれば外壁をちゃんと適切に保っていられるのに、だけどひとりになりたくて、本当に声がききたい、そこにいて適当に笑ってほしい、そういう相手はなぜか近くにはおらず、だけど、だけど、だけど。
 めちゃくちゃだ。
 ばかみたいだ、と、今日いちにちでもう何度目かになる自嘲を自分に対して吐き出して、そうして前をむくと海だった。
 冬の海なんて、酔狂で、風が吹くと寒いし、色は薄いし、明度だか彩度だか、そういうものが低いとか、そういうかんじなのに、なにか胸が軽くなるようだった。寒くて、ぶるりとからだを震わせる。すこし海沿いの道を歩いて、そうだ、次に風が吹いて寒いと思ったらそこで止まって、一枚、一発だけ、構図もピントもなにも気にしないで写真を撮って、靖友に送ろう。なにがしたいわけでもなかった。ただふらふらと、思いつきのようにこんなところまできてしまって、誰かに自分の外側の殻をもういちどただしく成形してほしくて、その相手として思い浮かぶのは、ひとりしかいなかったという、ただそれだけの話である。
 撮った写真は、一発、カメラを起動して二秒だったくせに完璧なピントのあいかたで、文明の利器さまさまだなと思ったけれども同時にとんでもない皮肉のようにも思えて、しかし消すこともできず、やはりなにかの衝動じみたものに突き動かされて、しかしあくまで緩慢な手つきで、送信した。目の前の景色を落とし込んで切り取って遠くの彼につたえることはできるのに、そこにあるはずのリアルタイムさはなく、じゃあ、じゃあなんのために? 距離のおきかたがへたくそという、そういうことなのかもしれない。靖友のほうがちゃんと、ただしい距離をとれてるんだきっと、そう思うとすこしかなしく、すこしおかしく、いま自分がこうしているように、彼もどこかの海をさみいなんてつぶやいて身を震わせながら見ていたらいいな、と思って、それで、そんなときにまさか彼から電話がかかってくるなんて思わなかったから、驚いてスマートフォンを落としてしまって、でも、繊細で意外と脆いそれは傷ひとつつかなかった。
「……もしもし」
「あ、つながった」
 久しぶりに聞いた声は一ミリの隔たりもなく荒北のものなのに、電話の独特のエフェクトがかかっていて、変なかんじがした。
「電話、めずらしいな」
「ん」
 右耳から、ノイズ。左耳から、波の音。
「そこ、どこ」
「海」
「知ってんよ」
「さみい」
「寒がりだもんなァ、おまえ」
 ふふっと笑ったのがわかった。最後に会ったのがいつかももう思い出せないのに、こういう笑い方をしたときの荒北がどんな顔をしているのか、ありありと思い出せる。
「サボリ?」
「午後、講義も部活もなし」
「オレは全休」
「いいな」
「っていうのはうそで、」
「え、」
「風邪でねこんでることになってる」
「まじか、」
「っていうのもうそで、」
「おい、」
「ほんとうは、ねこんでるのは研究室の先輩で、こなくていいよって言われたから、行かなかったって、そんだけ」
 そう言ったきり、荒北は黙ってしまった。
 ふらっとどこかに出かけるにしても予定を考えないといけないというのはひどく不便で、そして窮屈だ。自分をがんじがらめにするしがらみから本当の意味で抜け出すことなどできず、連絡がとれないようにしたところで一時的に逃げているだけにすぎない。そういう意味では正しく逃避行である。
 耳元でくぐもった音がする。それはたぶん荒北が動いたり息をしたりしたことによってたてられたノイズだ。それだけで、新開はここへくるまでの間にこれ以上ないほどぐちゃぐちゃになっていた自分が嘘のように整理整頓されていくような気がした。いますぐ、声だけでなく、荒北に会いたかった。
「靖友」
「ん」
 けれど、会いたい、と言うのも違う気がして、結局名前を呼ぶだけに留まり次の言葉は電波の合間をさまよっている。なにかを言いかけては口を閉じる、そんな新開の様子をおそらく荒北もわかっていて、だから何も言わず、彼もまたきっと新開が動いたり息をしたりしたことでたてられたノイズに耳を傾けているのだろう。
「光に当たらないと、人間ってどんどんだめになってくんだな」
 そう、ぽつりぽつりと荒北が話しはじめたとき、日はまだ落ちてはおらず、新開の頭上では鳶が悠々と円を描きながら飛んでいた。
 朝から夜、ほんと遅くまで、ラボこもってさ。何週間か前から。すげえ忙しくて、話すけど話す内容なんて業務的っていうか、まあ、会話じゃなかったんだよ。ほんとに、ただの、業務連絡。で、部活行く暇なんてあるわけなくて。行きと帰りだけ乗って。ほんとに、それだけ。帰ったら飯食って寝て、また朝起きたらラボ行ってさ。ラボある建物のなかに、全部、あんだよな。だから外出なくていーの。出るときは帰るときで、だからもう暗くてさ。日光浴びてんの、たぶん、一時間ないくらいだった。
「で、どんどんさあ。だめになってくのがわかるんだよな」
 うん、と、ただそれだけ新開がうなずくと、電話のむこうの荒北は息をこぼしてゆるく笑った。
 新開には、日の光を浴びるのが一時間を切るような生活をしたことはない。けれどずるずるとだめになっていく感覚、「だめになっていく」という言葉がとってもしっくりくるような、そういう感覚には身に覚えがある。六月の、妙に湿度が高くて妙に温度が低いような雨の日だとか。十一月の、秋とも冬ともつかないくせにとても寒い曇りの日だとか。そうなったとき、聞きたいと思う声はいつだって荒北だった。そう思って電話をできるときも、そうは思ってもどうしてもあと一押しができないときもあったけれど。
「今日、ひまになったから。財布と携帯だけ持って、気づいたら電車乗ってた」
「うん」
「んでさ、寒くて、なんとなく……、なんとなく、新開の声が……聞きたくなった」
「オレも」
「ん?」
「ふらふら、海が見たくて、ただそれだけでこんなとこまで、わざわざ各駅使ってきちまった」
「……いま、さみい?」
「うん。……うん、さむい。ラインの通知全部切っても、靖友のだけは残しておきたかったんだ」
 声が聞きたくて、と吐き出すようにつけ加える。今度は荒北が、うん、とだけうなずいた。
 なんなのだろう。ときおり、突然、漠然とした不安のようなものに襲われて、身動きがとれなくなる。それは誰かに会えば、誰かと話せばすっかりいなくなってしまうのに、人に会うのに必要なだけのエネルギーを根こそぎ奪っていってしまうのが厄介だ。そして、そうなったうえで漠然と、会いたいだとか声が聞きたいだとか思う相手はひとりくらいしかいない。それが新開にとっては荒北で、荒北にとっては新開なのだった。
「なんでかな。靖友には、オレのカッコ悪いところ、もう全部見られてるからかな」
「そっかァ」
 回線越しの声が、耳元で聞こえている。右耳にひらっぺたいそれ、電話のしやすさでいえばあまりしやすい形ではないそれを押し当てて、名前を呼んだ。
「やすとも」
「なに、しんかい」
 自分を呼ぶ声がやわらかい。電話越しだから、顔を見てはいないから、なにも構えることなくさらけ出せる。いまだけ、いまだけだ。顔を合わせたときには、ちゃんと自分らしく笑える。さっきは会いたいと思ったけれど、やっぱり会わなくていい、と新開は思う。声だけでいい。声だけが、いい。こういう、一時的な休憩場所。自分らしくない部分を、こうありたいと思う自分でない部分をさらせる場所。受け止めてくれる唯一の場所でいてくれて、そして相手も自分をその唯一の場所だと思ってくれる以上の贅沢があるだろうか。ささくれだっていた心が、だんだんと凪いでいく。指先は冷え、でもまだ、もうすこしこうしていたかった。
「……ううん、やっぱ、なんでもない」
 目を閉じて首を振ると、すぐそばで、なんだそれ、と笑う荒北の声が聞こえた。

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