なにげなく空を見上げると、もうそこそこの高さに半月がでていた。午後五時半。すぱんと真ん中で割ったような、上弦の月が出ている。
ついこの間まで夏でまだまだ明るかった気がするのに、もうとっくに日は暮れている。もっといえばついこの間金城と田所と巻島、つまり、手嶋の一つ上の代が引退したような気すらするのに、ふと我が身を振り返ってみれば既に部活を引退した受験生という身分である。
なんだかなあ、と溜め息をもらして手嶋は手元に広げていたノートと問題集を閉じた。家に帰って勉強をしようとしても、自転車関係のもので溢れかえった部屋には誘惑しかない。そう思い図書館にこもってはみたものの集中できたかというとそんなことはなく、ただ手を動かしさえすればいい数学の問題を延々と解いて今日の放課後は終わった。
不毛だ、と思う。
結局、夏が終わって数ヵ月経った今でもまだ、切り替えができていないのだ。ずるずると、夏のあの膨大な熱量を引きずっている。
不毛だ。なにをしているんだろう。したいこともよくわからないまま、しなければならないことだけが日々消化されていく。問題集は当初の計画通り進んでいるし、受験勉強はひどく順調だといえよう。この調子で十一月になり、十二月になり、問題集がセンター試験の過去問と赤本になっていく。だんだんセンター過去問を開いている時間のほうが長くなって、きっとそれなりのハプニングがありながらもセンターが終わって、結果もまあ予想の範疇で、そして二次試験の対策もきっと計画通りに進んでいくのだろう。
鞄のなかに寄せられた問題集とノートが直立せず、ばさりと倒れる。それを弁当箱とペットボトルで支えて、今度こそまっすぐに立った二冊になんともいえない気持ちになりながら、チャックを閉めて鞄を肩にかけた。
午後五時四十分。外に出ると、部活帰りの生徒がちらほらと見えた。固まりになりながらやいのやいのと笑い合い、坂を下り彼らは見えなくなっていく。
いまあいつらに会いたくないな。
ふっと浮かんだ考えに自分ですこしびっくりして、ばかみたいだオレ、そんなことも思って、けれどなぜか足は動かなかった。それでなんとなく昇降口の扉を再び開けてなかに入り、階段に腰をおろす。前に放り投げられた足をぼんやりと見つめる。
「はー……、ばかみてえ」
なにをしているんだろう。もう一度そんなことを思う。
なにかをぽっかりと失ってしまったようだった。まあ引退したわけだから失ってるんだけど、と手嶋は自嘲ぎみに息をこぼす。がむしゃらに目の前のことに一生懸命になれていた、その対象がなくなってしまった途端にこれだ。聞くところによると、運動部のやつらには多い現象らしい。燃え尽き症候群。そう、まさに燃え尽き症候群だ。
先のことに目を向けるということから逃げているだけだとわかっている。
わかりきっているのに、最近下がり始めてきた気温と、短くなった昼と、その他もろもろ、それらを言い訳に、あるいは免罪符にして、ただルーティンワークに身を投じている、そんな毎日を送っている。
このままじゃだめだよなあ。
字面だけを見れば自分を奮起させるような言葉も、実態はただの間延びしたぼやきだ。もう何度も思ったそれを今日も思って、しかしそろそろそういうわけにもいかないなと考え、はあ、と長い息をゆっくりと吐きだす。
午後五時五十分。ぼんやりしているうちにもう十分もたっていた。
立ち上がりぱんぱんと埃を払う。少し遠回りして歩いて帰ろう。いろんなことを考えながら。
そんなことを思いつつ、手嶋は再び昇降口の扉を押し開けた。
ふらりふらりと歩いているうちになんとなく寒くなって、自動販売機で二百八十ミリリットルのホットココアを買った。ごとんと出てきたときには手のひらにじんわりとあたたかかったそれもいつの間にかもうぬるくなってしまっている。一口しか飲んでいないそれを両手のなかで回したり、転がしたりしながら、手嶋は今日何度目かになるかわからないため息を吐き出した。
自転車に乗っているときにはさーっと通りすぎていた公園に足を踏み入れたのは偶然だった。なんとなく足が向いたのである。普段公園なんて親子連れぐらいしか使わねえだろと思っていたが、なるほど公園というのは確かになくてはならない場所らしい。自分一人しかいない、たった数本の街頭の明かりに支えられた場所のベンチというのは、たしかにまとまらない思考を好きなだけ分散させるのにはもってこいのようだった。
手元のもう冷めたホットココアばかり見ているのもなんだか癪で、視線をあげるとひとつ、やたらと大きい星があった。金星? いや、木星か。そんなことを考えながらまた手のなかで小さなペットボトルを転がす。もう冷めているのに名前はホットココアなんて、ひどくいびつだ、と思った。
少し離れた大通りで、誰かの話し声が近づき、また遠のいていく。真夜中に素行不良をしているような気分ではいるけれど、実際はまだ午後七時前で、今日も手嶋は優秀で真面目で最近部活を引退したばかりの、志望校も固まりきっていない受験生のひよっこに変わりなかった。
そんな手嶋が、もっぱらいま頭を悩ませるべきこと、そして悩ませるべきなのになおもぼんやりと避けていることというのは、ここにきてもやはり自転車のことなのである。
べつに自分はプロになりたいなどとはつゆほども思わないし、大学進学というところまでは決まっている。志望校もだいたいは絞りきれている。いまのこの成績なら、ちゃんと勉強を続ければじゅうぶん手が届く二校だ。どちらにしろ実家から通うには遠すぎるということで、きっと下宿か寮住まいになる。というわけで場所もたいして問題ではない。センター試験に必要な科目数も、受験のときに必要な科目も、ほとんど同じだ。ではなにが違うのかというと、困ったことにそれが自転車競技部の有無なのであった。
なんとなく自分はこれから先も自転車に乗り続けるのだろうなという予感はしている。今更自転車から降りるなんてきっとできない。もう六年、人生の三分の一を占める長さをかけて、勝利の女神という存在に惚れ込みすぎてしまっていた。だからまあどうでもいいというか、どっちでもいいというか、そうといえばそうなのだけれど、なんとなく大学を調べているときに自転車競技部という六文字を検索ウィンドウに打ち込んでしまったので。まあ、それが運の尽きだった。
きっと、受験科目が違うとか、片方は超理系の大学でもう片方は超文系の大学だとか、そういう明確な違いがあればもっと早くに決めることができたんだろう。しかしなぜか人生はうまくいかなくて、決めなくてもまだ許されるというよくない余裕が、手嶋をどっちつかずの場所におきつづけていた。
「さみー……」
びゅうと吹いた風に身を震わせればついそんな声が漏れる。だったら帰ればいいのにと自分でも思うがまだあの部屋に帰りたくないのだからしょうがない。親にはもう少し図書館で勉強してから帰るから夕食はおいておいてほしいと連絡をいれてある。がんばってね、具だくさんお味噌汁つくっといてあるからね。そうやって返信をくれる母。きっと自分がいまも問題集を開いていると疑ってないのだろう。ごめん母さん、いまオレ、勉強してないし図書館にいるってうそ。公園でふらふらしてる。さみー。帰ったらあったかいお味噌汁あんのすげえうれしい。けどまだ帰りたくねーんだわ。大丈夫、そんな遅くにはならないでちゃんと帰るからさ。べつに道を踏み外すようなこととかしてねーし、するつもりもねえし。あー、やばい。指先ぴりぴりする。ひええ、ほんとさみい。去年の十一月ってオレなに着てたっけ。
いろんなことを考えながら帰ろう、なんて、それが一番の嘘だ。
こうしてやっぱりずるずると脱線していく思考を引き留めもせず、ただ無為に時間だけが過ぎ、しかし貴重な時間を無駄にするという最高の贅沢にすこしだけ胸が軽くなる。けれどそうずるずるといつまでもこうしているわけにもいかないし、一口しか飲んでいないペットボトルを再び開けて、おいしい時間を手のなかで無駄にされてしまったそれをごくり、ごくりと半分ちかくまで飲んだ。上澄み部分は妙に薄い味がした。
キャップをしめてゆっくりと逆さまにする。底にたまった茶色い粉みたいな、あの沈んだものを溶かすために、何度かゆっくりと上下を逆転させる。三回向きを変えたらもうそこに沈殿はなく、もう一度キャップを開けて口にしたがしかし、やっぱり妙に薄い味だというのは変わりなかった。
しょうがねえ、飲んだら帰ろ、んで今日の残りやんねーとなあ。投げ出された足を見つめ、くるりくるりと足首を回していたときである。
「あれ……、もしかして、手嶋?」
「あ、……寒咲さん」
ぐるりと首を回して声の向きを向くと、二年半とてもお世話になった男がポケットに手を突っ込んでそこに立っていた。
「なに、おまえどうしたの」
「あー、えーっと、ちょっとたそがれてたとこっす」
「はは、もう夜だっつーの」
寒咲は紺のダウンを着ていて、しかし中は薄着らしくポケットにいれた手を前のほうにやってお腹まわりを寒さから守ろうとしていた。彼が鞄を持っているところを思えば手嶋は見たことがないのだが、今日も彼はとても身軽で、おそらくそのポケットのなかの鍵と携帯と財布しか持っていないようだった。
「寒咲さんは? なんか用事ですか」
「あー、煙草買ってきたとこ」
そう言って左のポケットが、手をつっこまれたままひょこっとわずかに動く。訂正、買いたての煙草もそのなかにあるらしい。
「自販機ですか」
「おう、あっちのほうにあんだよ」
「へえ、知らなかったです」
「煙草の自販機の場所把握してる学生とか不良かよ」
「把握してる学生に失礼ですよ」
「手嶋は把握してない学生だからいーの」
いつもはスティック状の菓子だったりチュッパチャップスだったりなにかしらを口にしている彼は、いまは煙草をくわえていた。あーさむ、もうちょい着てくりゃよかったわ、そう言いながらポケットから手を出した寒咲は両手をすりあわせて腕を組み、身をすこし縮める。そうして手嶋のほうへと近づいてきていたが、突然足を止め、あー、と気まずそうに頭をかいた。どうかしたのかと手嶋がわずかに首をかしげてその様子を見ていると、人さし指と中指で煙草をはさみ口から離す。ごそごそと左のポケットを探り、あれ、という顔を一瞬見せた寒咲は、何事もなかったように右のポケットを探り携帯用灰皿を取り出した。
「あ、いいですよ、べつに」
「いやだめだろ」
「オレ煙草のにおい気にしませんし」
「そういうことじゃねーよ」
手嶋のまわりには煙草を吸う人はほとんどいないが、寒咲の右手のなかにあるそれがまだ火をつけて数分もたっていないものだということはわかった。だからいいですよと言ったのは、もったいないとか申し訳ないとか、そういう気持ちから自然と転がり出たものだった。いつもなにかをくわえているところを目にしているくせに、煙草を吸っているのを見たことはほとんどなかったから、というのもすこしある。
「スポーツ少年の前では吸わねえことにしてんの」
「スポーツ少年って、オレもう引退しちゃってますよ」
「でもまた乗るだろ?」
当たり前のことのように言われた言葉に、なぜだか反応することができなかった。わずかに目を見開いた手嶋の様子は意外だったようで、寒咲はきょとんとしたまま、しかしなにも聞かなかった。
「うーん、どうすっかなあ」
「あのほんと、吸い始めですよねそれ。もったいないですし」
「んー」
そう言いつつも寒咲はあまり困ったふうではなく、右手で煙草をはさんだまま公園の木を見上げた。そして携帯用灰皿を持ったままの左手の人さし指でまず斜め右前、次に手首をかえして斜め左後ろをさし、手嶋の前をすたすたと通り過ぎる。どこに行くのかと手嶋が彼の背中を目でおえば、寒咲は近くにあったブランコの柵に腰かけた。腰かけるというか、棒におしりをひっかけるようにして、前に投げ出した足をつっかえ棒のようにしているというほうが正確ではある。さきほど彼がしていたように頭上の木を見上げる。手嶋のもとに煙が流れないよう、どうやら風下のほうへと動いてくれたらしかった。
「寒咲さんってなんていうか、すごいスマートですよね」
「なんだそれ」
はは、と笑った寒咲はやっとおろしていた煙草を所定の位置に戻し、また離してからゆっくりと息を吐き出した。
「煙こねえ?」
「大丈夫です」
「まあ外だしなあ。ありがたく吸わせてもらうわ」
スポーツ少年の前では吸わないことにしているという彼の基準から自分が外されたわけではなく、単に屋外で風がある日だし、捨てたら手嶋も気にするだろうから、じゃあ風下で吸わせてもらうか、ということらしい。こういう一連の動作を流れるようにできるという、彼のそういう部分はきっと寒咲が大人だからというだけではないのだろう。
「煙草、二十歳になってすぐからですか」
「んー、たぶんそう」
「それうまいんですか」
「いまはうまいよ。最初はくそまじいって思いながら吸ってたけど」
「まずいのに吸ってたんですか」
なんだよ、質問ばっかだな。そう、からかうように笑う寒咲が三つなんてものではなく年上に思えて、手嶋はわずかに目をそらした。
十八になってからまだ二か月もたってない手嶋には、親や親戚を除けば、日常的に会う成人済の知り合いなんて寒咲くらいしかいない。高校一年生のときの三年生、二個上の先輩は大学に進学したり就職したり、人それぞれではあるが、卒業後に会った回数はひとしく皆無といってよかった。高校生の世界はとてもせまい。大学生になったら世界が途方もなく広がる、そんな気もしているけれど、でも中学から高校に上がるときも同じことを思って、でもまったくそんなことはなかったことを考えれば今回も同じなのだろう。
「寒咲さんって、高校の知り合いとかよく会ってるんですか」
あ、また質問だ、と口に出してから思ったが、寒咲はなにも言わなかったので手嶋も気にしないことにした。寒咲はわずかに上を向いて、すこし思い返すようにしてから、そういや全然会ってねえなあ、とつぶやいた。
「大学行ったやつらはやっぱり忙しそうだし、オレもまあこんなかんじだし、せいぜい年賀状くらい?」
「あ、やっぱりそんなかんじですか。オレも、年賀状もはや定型文です。久しぶり、元気、また集まろうぜ、って」
「あーそれわかる。けどじゃあ誰か動くかっていうと動かないし、動いたところでだいたいは予定合わねえし」
「あれ、書いててちょっとむなしくなってきません? そうはいってもまた来年同じこと書くんだろうなって」
「お、たそがれてるだけあるな」
「え、ここでそれ引っ張り出してきます?」
寒咲と交わす会話のリズムとか、彼の返しとか、声のトーンとか、そういうものが手嶋はけっこう好きだった。車を出してもらったときに助手席に座って他愛もない会話をしたり、休日や練習の帰り道に青八木と寒咲サイクルに行って自転車の話をしたり、スケジュール絡みのまじめな話をしたり、話す機会はかなり多かったように思う。友達や部活内で話しているときとは違う、爆発的に盛り上がるわけではないけれど穏やかに流れていく会話というのはとてもここちよい。にやにやと笑っている寒咲を見る。さっきは妙に年の離れた大人に見えたけれど、いますこしわるい顔をしている寒咲は手嶋のよく知る、三つしか年の離れていない、いつも兄のようなフランクさで接してくれる他人だった。
「そうそう、聞こうと思ってたんだけどさあ。なに、手嶋くんセンチメンタルな気分にでもなってんの」
「あーまってください引っ張られると超はずかしいんですけど」
「おーおーはずかしがってろ」
けけけと寒咲が笑う。この流れはたいへんよろしくないぞと思いながら、間を持たせようとして相変わらず手の中にあったココアに口をつけた。薄い味も冷たいのも変わらないが、さっきよりもひどい味ではないように思えた。
「あー、まあ、ちょっと受験のこととか考えてブルーになってただけですよ、よくあるやつです」
引き延ばすよりさらっと言ってしまったほうがよかろうと思って口を開く。手嶋の考えどおり、寒咲はそれ以上つついてくることはなく、ふうん、とどちらかというとまじめな雰囲気でうなずいた。
「引退したあとってやっぱりそうなるよな」
「寒咲さんも?」
「オレは家継ぐのは決まってたからちょっと違うと思うけど、まあなんていうか、たぶんおんなじようなかんじだよ」
「違うんじゃないんですか」
笑いながらつっこむと、こらあげあしとんな、とやっぱり笑いながら返してきた。
「寒くなるとさあ、なんかマイナス思考になるよなあ。あれなんなんだろうな」
「あー、わかります。そんなかんじ。やらなきゃいけないこととかわかってんのに、なんか手につかないみたいな」
「あれ大人になってもそうなんだぜ」
救えないよな、と吐き出した息とともにつけくわえた寒咲も、それでいまふらりと外に出てきたのだろうか。
そんなことが頭の片隅を駆け抜けていったけれど、口には出さなかった。
風が強い夜だった。それが寒さに拍車をかけてはいるのだが、だから雲がすくなくて、星がよく見えていた。街灯くらいしか明かりはなく、うまく街灯を視界から外せばけっこうな数の星が見える。大きな星座を見つけるのが難しい秋の星空から難易度低めの冬の星空に移り変わっていて、すこし視線を動かせばすぐにカシオペヤ座とオリオン座が見つけられた。
「なんか、もうこんな寒いのに、夏から抜け出せてないかんじなんですよねえ」
気づけば、そんな言葉がぽろりと零れ落ちていた。言うつもりはなかったのだけれど、でも寒咲ならなにも言わずに聞いてくれるような気がしたから、手嶋はぽつりぽつりと話し続けることに決めた。
「夏って、インハイってことか」
「終わったって、もちろんわかってるし、実感としてもちゃんとあるんですけどね。まあ、よくある燃え尽き症候群ってやつです」
「なるほどなあ」
煙草の煙が空にとけていく。手嶋はそれをぼんやりと見つめていて、寒咲も消えてなくなっていく煙を見ていた。
「高校入ってから、オレなりに逃げないでやってきたつもりなんですけど。なんかその反動っていうか、溜めてたぶんが一気に噴き出したっていうか、最近はいろんなことから逃げてばっかりで」
「進路、悩んでんの」
言葉すくなに返してくれるやさしい声がここちよい。そのやさしさというのは手嶋が特別だとかそういうたぐいのものではなくて、あくまで距離というか、一線いうか、そういうものをはさんだうえでのやさしさだ。だから手嶋は、抱え続けているものを寒咲相手にならぼろりと無防備にこぼすことができる。靄のような煙のような、内面にくすぶるあいまいで言葉にならないものを言葉というかたちにあてはめていく作業は、厄介で難儀で、しかしすこしずつ自分が見えてくるようで、手嶋はこういう作業が嫌いではなかった。どちらかといえば自分ととことん向き合ってきたタイプである。
「悩んで……、悩んでんのかなオレ。そうかもしれません。場所は両方とも遠いからどっちみち下宿か寮だし、受験科目もほとんど変わらないんでまだ決めるのに余裕あるんですよね。それがまあ、幸か不幸か、ってかんじです」
「むしろなにが違うか考えりゃ決まる気がするけど」
「それが、チャリ部があるかどうかなんですよねー……」
あはは、と響くため息まじりの笑い声がどうしようもない。寒咲は出会い頭の手嶋の不可解な反応にやっと合点がいったらしく、あーと言ってから一度大きくうなずき、それきり黙ってしまった。
自転車は好きだ。風をきって進んでいく感覚も、流れていく風景も、自分のからだひとつで進んでいくしかないのも好きだ。きっと大人になって、仕事をするようになってからも自転車には乗り続けているだろう。自転車を降りるという選択肢はたぶん自分にはない。けれどそれとこれは別の問題だった。
「たぶん、普通に考えたら、ある方に行けばいいんですよ。でももしそれで入部しなかったら逃げじゃないですか。かといってない方に行けばそれも逃げだし。じゃあある方にして入部すればいいじゃないかって話なんですけど、なんか、やりきっちゃったかんじがして」
「なるほど、それで燃え尽き症候群って話になるわけか」
「そういうことです」
ふうん、と寒咲は言って、煙草の灰を携帯用灰皿のなかに落とした。断続的に続く会話の隙間を煙草を吸う、煙を吐き出すという二つの行動が埋めてくれているようで、そのおかげでいま自分は寒咲さんにぼろぼろと内面を見せられているのかな、とそんなことを思いながら、寒咲が短くなってきた煙草を再びくわえるのを見ていた。
「手嶋の好きなようにすればいいと思うよ、オレは」
やさしい声だった。できるんだから続けたほうがいいとか、きれいな思い出として名前をつけて保存、終了すればいいとか、そういう具体的なことは寒咲は一切言わない。彼がそう言うだろうことを手嶋もわかっていた気がする。答えをくれない、自分で決めろと言う。それは厳しいがなによりものやさしさだ。相手を信頼しているからこその。人に決めてもらおうなんて、甘えだ。
「手嶋がしたいようにすればいいし、したくないことはしなけりゃいい。あんまごちゃごちゃ考えすぎんなよ。どうすりゃいいかってのは案外シンプルなもんなんだぜ」
ニッと向けられた笑顔に、思わず鼻の奥が痛くなる。ああ、このひとが主将だったっていうのすげえわかる。唐突にそんなことを思った。
「……オレ、寒咲さんみたいな主将になりたかったです」
「オレは、そんないい主将じゃなかったよ」
「うそ」
うそってなんだよ、と寒咲がおもしろそうに身を揺らして笑う。
「まわりはどう思ってくれてっかわかんねえけどな。オレにはオレなりに、あの人みたいな主将になりたかったって人がいんだよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
「ふうん」
そういうもんですか、ともう一度つぶやく。途切れた会話を埋めるように、煙草のかわりに、大通りを車が数台アクセルの音を響かせながら走り抜けていった。
思い返せば、そういうもんですか、そういうもんだよ、というやりとりをよくしているような気がする。寒咲にそういうもんだよと言われるとなぜだかなるほどという気持ちになる。不思議と、すとんと胸のうちのちょうどいい場所に落ちていくような。自分はきっとそういうのできてなかったなあ、と悲しむでも悔しがるでもなく、ニュートラルなトーンでそんなことが頭に浮かんだ。
「そっかあ、寒咲さんも高校生だったんですよねえ、昔は」
「おいコラ昔っていうな」
「あはは、すみません」
総北の制服を着ている寒咲を思い浮かべようとしたけれど、なんだかちぐはぐな気がして落ち着かない。やっぱりピンクのポロシャツとか、濃い緑の店のエプロンとか、いま着ている紺のダウンとか、そういうほうがしっくりくる。それはとても贅沢なことなのだけれど、しかし制服時代を知らないというのはやはりすこしもったいないような気がした。
「寒咲さんも高校生だったって、なんか変なかんじしますね」
「そりゃああたりまえだろ、いきなりぽんって大人になるわけじゃねーんだから」
「いやまあそうなんですけど。高校生の寒咲さん、その頃から会ってみたかったな」
「あ、そしたら手嶋、田所より上になるか同級生だな」
「あー、それはやですね。オレやっぱり田所さんの後輩がいいな。寒咲さんが留年してくれればよかったのに」
「なに言ってんだよ」
また身を揺らして笑う寒咲につられて、手嶋も笑い声をあげる。もし寒咲の後輩だったら、走る寒咲の後ろを走っていたら、そうしたらこうして二人で夜の公園で話すことはなかったのかもしれない。となると、やはり制服はしっくりこなくてダウンや煙草がしっくりくるというのは贅沢なことなのだろう。
「寒咲さん、オレンジビーナの神様の話って聞いたことあります?」
「青八木と鏑木の話? 前に鳴子からなんとなく聞いた。あいつほんとおもしれえやつだよな」
「あのときの青八木の複雑そうな顔、ほんと最高でした」
「まじで? オレも見たかったな」
「まさになんともいえない、ってかんじの顔してましたよ。でもちょっと嬉しそうで」
「そりゃあそんだけ後輩に慕ってもらえたら嬉しいだろうよ」
寒咲のその言葉を聞いて、手嶋はへにゃりとどこか情けなさのにじむ顔で笑った。
「田所さんのこと見てたのって寒咲さんなんですよね。田所さんからちょっと聞きました、あの人がいなかったらいまのオレはなかったんだぜ、って」
「くそ、あいつ……。はずいわ」
そう言いつつも、首の後ろに手をあててうつむいた横顔はしっかりと緩んでいる。ごまかすように短くなった煙草の灰を携帯用灰皿のなかに落とし、靴の裏にすりつけて火を消し、本体もぽとりと入れる。ポケットから取り出された、手のひらにおさまるサイズの白い箱から取り出されるもう一本。ライターの火が風でゆらめく。
「鏑木の、神様って。あれ、言い得て妙だと思うんですよね」
寒咲はすぐには返事をしなかった。手嶋の言葉が、二人の間に宙ぶらりんに浮かんだままになっている。寒咲はゆるやかな動きで二本目の煙草に口をつけながら視線だけで続きを促した。わずかにうなずいて手嶋が再び口を開く。
「神様っていうか、まあふつうに言ったら恩人とかになるんですかね? でも、この人がいなかったら今の自分がないって言いきれるくらいの存在って、それはもう、ある意味神様でしょう」
「ああ、そういうこと」
「そういうことです」
今度はさきほどとは逆の会話をして、すとんと納得したらしい寒咲はなるほどなあ、とまたうなずいた。
「手嶋にも神様いんの」
「それが、オレにはいなかったんですよねー」
なんでもないことのように言ったつもりが、妙に明るい調子になってしまって、それが逆に悲愴感を醸し出しているようで焦る。そうじゃなくて。そんな手嶋の雰囲気をかんじとったのか、あ、わかるから大丈夫、と寒咲が安心させるように言った。
「もちろん、ほんとにみなさんにお世話になりましたし。田所さんがいなかったら、オレ、ほんとだめだったと思うし。金城さんは主将として尊敬してるし、クライマーになってからは巻島さんやっぱりすげえ、って思うことばっかりだし」
でも、と小さな声で言う。
「神様はいなかったです」
手嶋の言わんとしていることはなんとなくわかった。お世話になった先輩と、彼の言う神様。二つの間には絶対的な違いがあるのだろう。それをこういうことだろ、と言葉でうまく言える気はしなかったけれど、たぶん自分のとらえている感覚的な理解は正しいはずだ。そういう確信めいたものがあった。
「たぶん、青八木にとっては田所さんが神様なんでしょう。鏑木もなんだかんだ言って、きっと青八木のことをそんなふうに思ってるんじゃないかって。鳴子とか今泉は……、あいつらは自分の足で、からだ一つでガンガン行っちゃうようなやつらだから、まあそういうのはないでしょうね。だから、レアケースだって、わかってるけど」
ころころと手のなかでペットボトルを転がす手嶋が、いつもよりも小さく思える。下に沈んだ空気を明るい声でかきまぜるように、あー、ほんと今日いきなり寒いですね、そんなことを言って若干気まずそうに笑ってみせる手嶋の髪をぐちゃぐちゃにしてやりたかった。けれど寒咲の手のなかには飲みかけの冷たいホットココアのかわりに吸いかけの煙草があったから、寒咲はそうだなァと間延びした声で言ってちょっとだけ笑った。
「なあ、あれって木星?」
空の、ひときわ大きくて明るい光を指さして寒咲が言う。
「そうじゃないですか。オレもさっき、ひとりでぼーっとしてたとき同じこと思いました」
「冬って星きれいでいいよな。オレ星座とかあんまりわかんねえけど、部活の帰り道にぶらぶら星見ながら帰るのとかけっこう好きだったよ」
空を見上げる寒咲の耳がすこしだけ赤い。自分の耳とか鼻も赤くなってるのかな、と思って再び空に視線を戻しながら触れたら、意外と冷たかった。
「膝、こわしたあとさ」
ぽつり。急に聞こえてきた言葉に息をのんだ。ぱっと顔をむけそうになり、留まる。さっき、手嶋の好きなようにすればいいと思うよ、と言ったときとほとんど同じ、やわらかい声だった。
「もう主将だったし、オレ、けっこうかっこつけだったから。みんなの前で情けないところ見せたくなくて、よく、わざと時間ずらして一人で帰ったりしてたわ」
空を見上げたまま寒咲の言葉を聞いている。語られる制服時代の彼の話は遠い物語のようで、でも同時に自分のことのような、そういう手ざわりを持っていた。
「そんで星見て、あ、なんかいつの間にか場所変わってる、とか、そんなこと思いながらさ。オレってどうしたいんだろう、とか、なんでこんなにきついのに、もう乗れないのにやっぱ自転車好きなんだろう、とか考えたりしてさあ。心配かけたりしないように気ィ張って、ひとりになんないといろいろ考えられないくせに、反動ですげえきつかったりして、でもまた次の日もなんでもないような顔して部活行くんだよ。どんだけ不器用なんだよって話だよな」
頭上のカシオペヤ座の位置がわずかに変わっている。目に見えてはっきりとわかるくらい大きく動いたわけではないけれど、さっきと違う、とはっきりとそんなことを思った。寒咲のやわらかい声が、しみわたるように自分の体に入っていく。風の音や、通りを走っていった車のエンジン音、カシオペヤ座の位置、小さな北極星、寒咲の独白のすぐ隣に、それらがはっきりと存在している。
「手嶋見てると、高校のときの自分思い出すんだよ。いろいろごちゃごちゃ考えてんだろうなとか、なんとなくわかっちゃうんだよ」
いま、寒咲が手嶋をまっすぐ見ているのがわかった。だから手嶋も視線を戻して、寒咲をまっすぐ見つめた。
「みんなの前でちゃんとしてるのって、大変だよな」
その一言だけで。
その一言だけで、自転車に乗り始めてからの数年、人生のだいたい三分の一を、肯定されたような気がした。
「……寒咲さんって、ほんと、くやしいくらいかっこいいですよね」
「言ったろ、かっこつけだって」
そうやって飄々と言ってのける寒咲の横顔は、悪戯っぽく笑っているくせに大人びていて、煙草の煙が手嶋のもとまで届くはずはないのに目にしみて涙がこぼれそうになった。
「……ありがとうございます」
「新しいココア、買ってきてやろうか」
「はは、じゃあ、また次のときに」
「おう」
ごくごくと、のどを反らせて上を向き、ペットボトルの中身を空にする。本当に、あたたかい飲み物が冷えたあとなんてひどい味だ。けれど空にしないと次は買えない。厳密には、買うことはできるけれど中途半端になるのが嫌な自分にはできない。自分には、そういう選択肢はない。
「オレも、やっぱかっこつけなのかもしれないです」
「聞いてやろう」
にやにやと笑いながら言われて、どこか愉快な気分になりながら言葉を継ぐ。
「さっき、逃げって話、したじゃないですか。あれがたぶん、オレの行動基準なのかもしれません。中途半端になるのはいやだし、あとで後悔するようなことはしたくない。逃げたくないんです、逃げたら絶対、あとで後悔するから」
寒咲は腕を組んで手嶋の話を聞いていた。煙草の火のオレンジが、ぼんやりと街灯に照らされた公園のなかで唯一はっきりとした色を持っていてきれいだった。
「けど、それが自分のなかだけで完結できなくて。人にどう思われるかっていうの、なんか考えちゃうんですよね。やっぱり、後輩にあいつ逃げたって思われたくないじゃないですか。それって、めちゃくちゃかっこわるいじゃないですか」
ゆっくりとまばたきをする。かっこわるいと思われたくない。かっこいい先輩でいたい。そう思う相手が複数の後輩たちではなく、正直に言えばただ一人なあたり、去年の夏のあの衝撃はよっぽどだったらしい。そういう意味では、数か月前なんてものではなく、一年前の夏からずっと抜け出せていないのかもしれない。
「オレ、小野田の前ではちゃんとした先輩でいたいんだと思います。小野田が去年、ゴールしたときのあの興奮とか衝撃とか、からだのなかとか脳みそ揺さぶられるような、そういうもんもらっちゃったから。がっかりされるようなつまんねえやつにはなりたくなくて」
ああ、と思う。たぶん答えはもうとっくに決まっていたのだ。自転車を降りるという選択肢はたぶん自分にはないって、自分でちゃんとわかっていたじゃないか。
「あの、いま、言いながらわかったんですけど」
「ん?」
「オレ、たぶん大学でも自転車やめません。最初からそんな選択肢なかったのを、決めきったらもう進むしかないから、保留に……、そう、保留にしておきたくて悩んでただけかも。逃げるの嫌だとか言っておきながら、なに言ってんだってかんじですけど」
「いやあ、わかるよそういうの。人間なんて中身いつもぐちゃぐちゃで、いつだって筋が通ってるなんて、そんなのありえないんだから」
「寒咲さんに言われると、ああ、いいんだって気持ちになれます」
「そりゃよかった」
そう言いいながら、寒咲は一本目と同じような流れるような動作で二本目の煙草も携帯用灰皿にしまった。三本目は吸わないらしい。
ばらばらに散らばるだけ散らばった思考回路が、すこしづつまとまってきている、そんな気がした。どうすればいいかの答えはシンプルだという寒咲の言葉どおりだ。最初から答えはわかりきっている、本当は自分がどうしたいか自分でわかっている。そういえばそんなようなことを金城さんも言っていたな、と静岡に行ってしまった先輩のことを考えた。
「寒咲さんも、金城さんも、すごいですね」
「金城?」
「答えはいつだって自分のなかにあるって、金城さんもよく言ってたんで、それ思い出して。さっき寒咲さんが言ってた、答えはいつだってシンプルっていうのもそうですけど、やっぱりすごいです。そういうこと言えるのって」
「きっと手嶋も後輩になんか残してるよ。小野田とか今泉とかさ」
「そうですかね。そうだったらいいですけど」
まあ、望みは薄いんじゃねえかなあ、と声には出さずに心のなかでつぶやく。
「オレ、なんでクライマーだったのかなあ」
投げ出した足を見ながら小さく、今度は声に出してつぶやいた。
「巻島に言われたんだろ?」
「まあそうなんですけど」
煙草もなにもくわえていない寒咲はこの公園にきたときのようにポケットに手を突っ込んでいた。手嶋はあいかわらず両手のなかでペットボトルを遊ばせていたけれど、それはもう空っぽで、公園出る前に忘れずに捨てていかないとな、と思った。
「あの、たぶん支離滅裂だし、すごいひがみっぽく聞こえると思うんですけど、べつにそういうんじゃなくてこう、そういうもんかあみたいな、そういうかんじなんで、えーっと、まあ、できれば引かないでくださいね」
「あー、いろいろ思うところはあるけど、これはしょうがねえかー、みたいなかんじ?」
「ああ、そう、たぶんそうです」
一応の前置きの時点からだいぶ支離滅裂だったから正しく伝わるか不安ではあったが、どうやら寒咲は手嶋の意図を正しく汲みとってくれたらしい。安堵で手嶋の表情がすこし緩んだ。
「たとえばもし、オレが超才能ある人だったり、スプリンターになれるような足があったり、もう一年早く生まれてきてたりとか。そうだったら、もしかして、オレも誰かにとっての特別な一人になれたのかなあ、って」
冬の星座には一等星が多い。そのぶん星座を見つけはしやすいのだけれど、小さい星にはほとんど目がいかない。昔から、手嶋は北極星を見つけるのが好きだった。カシオペヤ座か北斗七星を見つけて、必要な部分の長さを五倍にのばして、そのあたりのまあまあ明るい星を探す。唯一動かない星なのに別の星座を使わないと見つけられないのがなんだか嫌で、一発で北極星を見つけられるようにしようとがんばったこともあったのだが、いつからかそれはきっと無理なんだなと思うようになり、いまではおとなしくカシオペヤ座と北斗七星のお世話になっている。
「きっと、今泉は後輩たちの目標になるし、鳴子と杉元はみんなの心の支えになるんだと思います。もうだいぶなってますけどね。それで、小野田は、きっと誰かの希望になる。オレが小野田に夢を見たみたいに」
もし自分があと二年遅く生まれるかしていたら、間違いなく小野田が自分の神様だったんだろうな、と手嶋は思う。あと一年早く生まれていたらという場合も思い浮かべてみたけれど、それはたぶん、状況としてはいまと変わらなかっただろう。小野田の神様はきっとなにがあってもずっと巻島だろうから。
自分を神様だと思ってくれる人もいたのかな、なんて。
「すげえ身の程知らずの、贅沢なこと言ってる自覚はあるんですけどね。誰かに話すとしたら、寒咲さんくらいにしか言えないんで、すいません」
「んな気にしなくていいって」
「もし、もし寒咲さんとオレが現役かぶってたら、寒咲さんがオレの神様だったのかな」
「そしたら手嶋、オレにこんな話しないだろ」
「そうかも。そうですね。じゃあやっぱりこの『もし』もなしだ」
言葉をはさまずにただ聞いていてくれて、ときおりここちよいテンポで返してくれるのが、とてつもなくありがたかった。すこしずつまとまってきていると思った思考回路はやっぱりまだまだばらばらで、答えがでた部分もあるけれど、大部分においてはなにも変わらない、こんがらがったままだ。筋なんて全然通っていない。それらをぐちゃぐちゃなまま抱えて、明日の朝になればまたなんでもないような顔をして、ここの問題解けた、なんて会話を交わすのだろう。
「誰かにとっての神様でも、そいつは普通の人間だよ。何年かしたら、その年に追いつくようにさ」
寒咲が空を見上げながら言った。
手嶋にとって寒咲がそういうものをさらけ出せる、ほぼ唯一の場所であるのは、きっと寒咲と手嶋の間に三年という月日があるからだ。だからやはり寒咲は手嶋の神様にはなりえないし、手嶋も誰かの神様になることはない。いろんなものを両手に抱えながら人間は一人で生きていくしかないけれど、だからこそ、手嶋は自転車を好きなのかもしれなかった。
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