ここ数日、雨が降り続いている。
春霖、花冷え、花曇、菜種梅雨。春の雨を表す言葉はどれも少し浮き足だって、けれど確かに落ち着いた響きを持っている。一度暖かくなってからまた冷え込んだものだから、冬の間はなんでもなかった寒さが意外と堪える。石切丸はぶるりと身をふるわせ、肩にかけていた羽織を少し前に寄せながら立ち上がった。閉め切っていた襖を少し開けると、雨のにおいが濃くなる。
ざあざあと降る夏の大味な雨とは違って、春の雨はとても静かだ。細い糸のような雨が土と緑の色を鮮やかにしていく。ぼんやりと外を眺めながら、微かに聞こえる雨の気配に耳をすませているうちに、そこに静かな足音が紛れ込む。足音を聞けばだいたい誰かわかるもので、この足音の主に思い至るとつい口角が上がった。
「今日の雨で、残った桜もみんな散ってしまうだろうね」
「おかえり」
石切丸が微笑むと、襖の側に立った青江がにこりと笑った。
「ただいま」
「遠征はどうだった?」
「大成功だよ。主への報告ももう済ませてきた」
「そうか、ご苦労様」
雨の中戻ってきた青江の髪はしっとりと濡れている。雨具は持っていっていたはずだが、大方この程度の雨ならとそのまま帰ってきたのだろう。肌に張りつくほどではないが確かに湿って、いつもよりも艶を増している。髪だけでなく、本人の雰囲気も。じっと見つめる石切丸の視線に苦笑しながら、青江が首を傾げ口を開く。
「なにか変なものでもついてる?」
「ああ、すまない、そういうわけではないんだ。ひどい雨には降られなかったかい?」
「うん、大丈夫だったよ。ずっとこんなしとしと雨だったから」
「ならよかった。髪が濡れているだけでこんなに印象が違うものなんだなと思ってね」
「そうかな? 自分では特に思わないけれど」
「うん、きれいだ」
なんでもないことのように石切丸が言う。予想外の角度から飛んできた予想外の言葉に、驚いて、青江は目を丸くする。今度は石切丸が首を傾げてなにか変なことを言ったかなと問うた。
「いや、君にそんなふうに言われると思わなくて」
「ええと、薬研や燭台切のように人を褒めることになれていないから……。すまない、もっと上手いことを言えればいいんだが。難しいな」
困ったように笑った顔はふんわりと柔らかく、青江は無自覚ほど質が悪いものもないなと内心で楽しげに呟く。
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあどういう意味だい?」
「さあね。考えてみるのもおもしろいかもよ」
石切丸の言葉を待たず、濡れてしまったし着替えてくるよと手をひらりと振りながら言って、青江は彼の部屋を後にし自室へと向かう。
雨は少しだけ強くなったらしい。さっきはほとんど音がしなかったのに、今ではぱらぱらと雨音が庭に響いている。
「ああ、嫌だなあ、雨なんて」
ぽつりと口にした言葉は雨に紛れて消えていく。
本丸での部屋割りは、基本的に刀剣男士たちの自主性に任せられている。用意されていた本丸にはもともと大まかに刀種ごとにわけられた部屋が備えられていたが、みなさんにも合う合わないがあるでしょうという審神者の言葉により、今では好き勝手に本人どうしで寝場所を交渉、交換している。
藤四郎兄弟たちはみんなで大部屋で寝ているし、新撰組の四人も同室だ。打刀部屋の隅っこを守り続けた山姥切国広は山伏国広を迎えたことにより彼にくっついて太刀部屋の隅っこへと移った。
現在本丸にいる脇差はにっかり青江と鯰尾藤四郎の二人で、鯰尾は他の藤四郎兄弟と今剣と共に短刀部屋を生活の拠点としている。そのため、今はありがたく青江一人で脇差部屋を使わせてもらっていた。いずれ人数が増えれば青江も誰かと部屋を同じくすることになろうが、それはまだ当分先のことになりそうだ。
青江が本丸にきたのはある程度時間が経ってからだったので、既に昔馴染みたちがそれぞれの輪を形成していた。だからなんだというわけではない。ないのだが、みんなが親切に案内してくれても、人の身の勝手を教えてくれても、真面目な話や世間話をそれなりにしても、それでもやはりそこにある種の壁を感じてしまった。それが少し寂しかった。
そんな折り、一日違いで本丸にきたのが石切丸だった。
二人が本丸にきて数日が経ち、ある程度人の身の扱いにも慣れ、もうそろそろ初陣を迎えようかという頃。その日は穏やかな日差しがぽかぽかと空気を暖めている日だった。庭の桜のつぼみは、ふっくらとほころんでいた。話し声と笑い声が反響して消えていく。青江が通りかかったとき、石切丸は短刀たちにわらわらと囲まれていて、どうやら彼は順番にみんなを肩車してやってつぼみのほころびを近くで見せてやっていたらしい。
その平和そのもののような情景を少しの間見ていたくなって、青江は縁側に腰掛けた。ぼんやりと石切丸の姿を見つめる。温和な笑顔と心地よく響く低い声、涼やかな目元に引かれた艶やかな朱。石切丸は、噂に聞いていたよりはずっと魅力的な人物らしかった。彼と自分が接点を持つのはこの本丸が全くの初めてで、そんなわけでまだ数えるほどしか言葉を交わしてはいない。それも大して身のないような会話だ。叶うなら、もっと彼のことを知りたい。だって青江はまだ、石切丸のことを知識としてしか知らないのだ。彼と自分の生身の関わり合いのなかから知ったものなど、今はまだほとんどないに等しい。
そんなことをふわふわと考えていたものだから、長い間石切丸を見つめすぎたのかもしれない。石切丸はふと視線を上げ、そして青江とぱちりと目が合うとちょっと困ったように目尻を下げた。
その表情を見た途端、青江の背中を電流が走り抜けたように感じた。なんとなく、本当になんとなく、理由なんてないのだけれど、彼も自分と同じように、穏やかな諦めに似た寂しさを抱えているのではないかと思った。
そうだったらいいなと思った。
それ以降、青江は機会をみては石切丸と言葉を交わすようになり、石切丸の方も青江の姿を認めると声をかけてくれるようになった。酒の席では大勢いる中でも自然と一緒にいるようになったし、いつも共に出陣するわけではなかったが、帰還すると自然と足は相手のもとへと向くようになった。
「石切丸、いいかな」
「どうぞ」
夜半を過ぎた頃、青江は石切丸の部屋を訪れた。その手に持った盆には先刻次郎太刀からもらってきた四合瓶とおちょこ二つ、燭台切が作ってくれた簡単なつまみが乗っている。酒豪というわけではないが相当酒に強い石切丸と、そこまで酒に強いわけではないが酒が好きな青江は、宴席が開かれない日でもこうしてたびたび二人でも飲む。青江が石切丸の部屋を訪れるときもあれば、石切丸が青江のもとへやってくる日もある。まちまちだ。
「君って、雨が好きな人?」
「そうだねえ、嫌いではないかな。春の雨は風流だし」
なら、たまには外でどう、と青江が言うと、いいねえと頷きながら石切丸は立ち上がった。
「今夜は冷えるね」
「そうだね」
さめざめと降る雨を眺めながら飲む酒はいつもよりもまろやかな気がする。ぽつりぽつりとこぼす言葉が雨音の合間に反響して、柔らかく響く。心なしか熱くなった頬に夜の冷気が心地よい。
いろいろな話をした。遠征中にあったこと。鯰尾と乱が万屋ではしゃいで、それをなだめる薬研の声もどこか浮ついていたこと。留守中にあったこと。歌仙と小夜と宗三が花見に行きたいと言って、燭台切と一緒に三人が自分たちのお弁当を作ったこと。それで台所がてんやわんやになったこと。お互い饒舌になって、するすると会話が続いていく。
青江は石切丸の話を聞いては時おり楽しげな笑い声もあげていたが、ふっと一瞬会話が途切れたときにほうとため息をついた。
「つまらなかった?」
「つまらなくはないけどさ」
「じゃあなんだい」
ため息をつくと幸せが逃げるって言うだろう、と石切丸がいかにも彼の言いそうな言葉を口にすると、青江は恨めしげに彼をちらりと見て、再びため息をついた。
「石切丸は案外わからずやなのかな」
「ええと、どういう意味かな……?」
「だって、君、さっきからみんなの話ばっかりじゃないか」
「う、うん? 確かにそうだけれど」
「それは今じゃなくてもいいだろう」
「すまない、私にもわかるように話してくれないかな」
「せっかく君と僕の二人で話しているのに、どうして僕たちは僕たち以外の話をしてるんだろう」
なんなんだいこれは、と青江が文句をこぼす。じっと石切丸をのぞきこむその目は溶けた蜂蜜のようだ。どちらかといえばあまり血色のよくない方に入るその頬は今は紅潮しているし、吐き出す息はきっと熱いのだろう。
「青江、君、酔ってるだろう」
「……石切丸」
「うん」
「石切丸、僕、君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なにかな」
「実はね、さっきからおちょこが四つに見える」
「えっそれ相当じゃないか」
意味ありげに名前を呼んで、もったいぶって石切丸を見つめたくせに、あっさりと青江は色めいた雰囲気を解いていつものつかみ所のない飄々とした彼に戻ってしまった。それがなぜかどうしてもおもしろくなかったのだ。青江は石切丸の心のうちを知らず、視界もちょっと揺れてる、とくすくす笑っている。
「そんなに飲んでないだろうに、ずいぶん酔いが早く回ったんだね」
「そういう気分だったからねえ」
「そういう気分、って?」
「酔いたい気分さ」
すらりと長い足を組んで、青江が後ろに手をつく。白い首筋がぼんやりと浮かび上がっている。
「酔えてよかったじゃないか、お望み通り」
ほんとうだ、ずいぶん熱いね。
そう言って、石切丸は青江の右手を掴んだ。熱い。けれどこの熱はどちらのものなのだろう。自分の手も同じくらい熱いのかもしれない。考えなしにこんなことをするなんて、と妙に冷静な自分が頭のなかでため息混じりに呟いたけれど、なんだか今はどうでもいい気がした。自分もたぶん酔っている。
青江はといえば純粋に驚きで目を丸くしながら、石切丸と、掴まれた自分の右手と掴んでいる石切丸の左手を交互に凝視していた。
「……酔いが覚めてしまったじゃないか」
「これくらいで?」
「こんなことをするから、だよ」
きみの手は大きいんだねえ、と青江がしみじみと呟く。まあそうだよね、あの大太刀を片手で振るうんだもの。憧れちゃうよ。
剣を振るい、畑を耕し、力仕事も細かい作業も難なくこなす男の手だ。華奢なんて言葉とは程遠い。それなのに、それでも、青江の手は石切丸の手にすっぽりと収まってしまった。急に胸がつかえて、息を深く吸い込むことが困難になった。
「そんなに僕の手が気に入った?」
「あ、ああ、すまないね」
わざとらしく声を潜めて青江が言うものだから、慌てて手を離す。急に行き場を失った手は、かといって石切丸の膝の上に戻るわけでもなく、二人の中間に置かれた。ついさっきまではそれが普通だったはずなのに、床の冷たさがひどく場違いに思える。
「人の体温は、思いの外高いんだね」
「きみの手はちょっとひんやりしてて気持ちいいな。僕のほうが高いんだろうね」
「酔ってるからかな」
「そうかも」
「はじめて人と手を繋いだよ」
「僕もだよ」
人の身とは興味深いね、ある程度勝手は知ったつもりでいたけれど、まだまだ知らないことがたくさんあるみたいだ。楽しげに弾んだ石切丸の声が耳に心地よかった。
「僕はあんまり雨が好きじゃなくてね」
青江が呟く。石切丸は少しだけ背をのばして青江の横顔を見つめた。
「でも、君があんなことを言うものだから、ちょっとだけ雨が好きになったよ」
「あんなことって?」
「あれ、もう忘れてしまうようなことだったのか。少し傷つくな」
「冗談だよ」
「よかった」
「ほんとうに、きれいだって思ったんだ」
「ふふ、ありがとう」
ふんわりと笑う青江が妙に色っぽくてどきりと心臓がはねた。さらりと長い前髪が揺れる。
「答え、わかった?」
「さあ、どうだろう」
「ふうん。まあ、僕はそれでもいいけれど」
おちょこの口の部分をくるくると青江の白い指先がなぞる。
「ときどき、僕には君がわからないよ」
「別に、煙に巻くようなことを言っているつもりはないんだけどな」
「わかってるよ」
うれしかったんだ。どうして神剣になれないのかなあって呟きにちゃんと返してくれたこと。これから先変わるかもしれないよと言ってくれたこと。うれしかったんだよ。
「それから、この前、目が合ったとき。なんとなく、親近感を感じたんだ。一方的かもしれないけど。それで、きみのことをもっと知りたくなってしまって」
「そうだったのか」
「ああ、僕はなにを言ってるんだろう、こんなことを言って、石切丸は困ってしまうよね」
「そんなことはないよ」
自分のことを話す青江はとても幸せそうな横顔をしていた。そんなことはないと言った声がいつもよりも強かったものだから、青江がキョトンとした顔で石切丸を見る。
「勝手な印象だったから気を悪くしないでほしいんだが、私は最初、青江のことをもっとつかみ所のない人だと思っていて」
まあ、今でもつかみ所はないのだけれど、と心のなかでだけ呟いて言葉を続ける。
「でも、青江の方から話しかけてくれるようになって、色々と話すようになって、少しだけきみのことを知れたような気がしたんだ。私もきみともっと話がしたいと思うようになった」
だから、なんていうか、お互いさまなんじゃないかな。
「あらたまると照れるな」
照れ隠しに頭をかきつつ、青江を見ると、昼間にきれいだと言ったときと同じような顔をしていた。
「青江?」
「……あ、ああ、ごめん」
「なんだか妙にはずかしいから、頼むからなにか言っておくれ」
「え、ええと、ごめん、ちょっと頭が追いつかなくて……」
きみのほうもそう思ってくれてるなんて思ってなかったよ、と、にまにまと上がる口角を隠そうともせずに青江が言うものだから、また急に胸がつかえた。息苦しくなる。
「昔馴染みがいないのは寂しいと思ってたけど、こうやって少しずつ相手を知っていくのもいいな」
「そう思ってくれたならよかった」
「素面だったら言えないようなことも言ったような気がするけど」
「なら、酒に感謝しないとね」
どちらからともなく控えめな声をあげて笑いあい、互いに注ぎあってまた杯を乾かす。
「もし、僕も誰かと同室にならないといけなくなったら、石切丸の部屋に行かせてもらおうかな」
「いつでもどうぞ。私は今日でも構わないよ」
「考えておくよ」
流し目でそう答えられる。青江らしい答えに満足して石切丸は庭に視線を戻した。咲いてから日が経って、桜の色は随分白っぽくなった。ふわふわと心も体も軽くなったようだった。酔っているのはもはや確信だった。なんとはなしに動かした左手が、青江の指先に当たる。青江は手を動かさなかった。ふいに、床についた手が寂しくなる。恐る恐るもう一度伸ばして掴んだ手は、先ほどよりも熱かった。
雨は、相変わらず降り続いている。
「……きみのそれは、無自覚なのかな」
息を吐きながら青江はそう言って、しかし、それでもいいや、と続けて、わずかに指先に力を込めた。
雨の匂いがする。空気は冷たい。伝わる温度は熱い。
「僕は、あんまり雨が好きじゃないんだ」
それは先ほどとはまったく違った響きで、淡々としているのにどこか苦しげに石切丸には聞こえた。
「なんでなんだろうね。なんとなく気が滅入るときってあるだろう。あれだよ。いつもいつも雨が嫌いなわけじゃない。昨日はそうでもなかった。でも、今日はだめだ」
それで、きみに会いたくなったんだ。むしょうに、きみの声が聞きたくなったんだ。
「変だろう」
青江は眉を下げて笑う。困ったような、情けなさがにじむようなその笑顔に、石切丸はぐっと言葉に詰まる。
「青江」
「なんだい」
たまらず名前を呼んだけれど、自分は青江に何が言いたいのだろう。なにか伝えたいのだろうか。きみに、なにを伝えたいのだろうか。
「明日もまだ、桜は残っているかなあ」
ぼやぼやと夜のなかに浮き上がる桜の白を見つめながらそう呟いて、ふう、と息を吐いて、石切丸を見つめて青江が微笑む。
「青江、残っていても、いなくても、また明日も、私とここで飲まないか」
途切れ途切れにつむいだ言葉は縋っているように響いて、けれどそれは自分でわかっている以上に石切丸の心のうちを正しく映しているのかもしれなかった。
「うん。明日も、またこよう」
今もだめかい? いや、うん、もう大丈夫。ありがとう。きみがいてよかった。穏やかな声と声が雨音に溶けて消えていく。ここにいないひとに会いたくなるって大概だよねえ、と青江がくすりと笑いながら言うものだから、つい、だったら私だって大概だよと思ったけれど、それを口に出すよりも先に体温の方が混ざり合ってしまうのだった。
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