ドアの持ち手がぐっと下がってから、勢いよく元の位置へと跳ね上がる。それから、なにかが倒れる音。
何をするわけでもなくベッドに転がっていた燐は、訝しげな視線を扉に投げてから立ち上がった。
魚眼のようなガラスを覗き込むと誰かの足、黒いズボンの膝から下が見えた。どこかむらのあるような黒。嫌な予感がする。
そっとドアを押し開けようとするが、ドアの前の人物は完全に崩れ落ちもたれ掛かっているらしくなかなか開かない。やっと開けた人ひとり分の隙間から外へと滑りでて、そこで燐が見たのは懐かしいにもほどがある人物だった。
「……志摩……?」
「ははっ、奥村くん……久しぶりやねぇ」
ひどく掠れた声で自分の名前を呼び、状況に似合わずへらりと笑ってみせた。間違いない。志摩廉造である。
呆気に取られて立ち尽くしながらも、ぼんやりと志摩の全身を観察する。少し落ち着いた髪の色、心なしかしっかりした肩幅、右手にこびりついた血、違和感を感じる向きに曲がった左足、無数の傷がついた頬。
六年ぶりに会う志摩は、まるでぼろ雑巾のように満身創痍だった。
「おまえどうしたの、それ」
「ちょぉっと、奥村くんに会いとうなってはしゃいでもーたわ、」
中、入れてくれへんの? と苦笑しながら志摩が言う。その一言で、どこか現実味のない目の前の状況が目まぐるしく動き出す。隣の家の住人が回す洗濯機の音、道路を走る車のエンジン音。黒に近くなった髪。革靴の汚れ。志摩の荒い呼吸。
しゃがんで志摩の右手をとって身をくぐらせ、なんとか立ち上がらせる。ぐったりと預けられる体重にわずかによろけながらも部屋の中へ入り、鍵を閉める。
「……、」
「え?」
耳元で志摩が小さく、なにかを呟く。燐が聞き返した瞬間、志摩の瞼は落ち、完全に意識を手離した。
目覚めた志摩が最初に見たものは、包帯が巻かれた右手と、少し背の高くなった奥村燐の後ろ姿だった。
「……背、のびた?」
寝起き特有の声を志摩が発すると、燐が振り返り、ほんとに生きてたんだ、と言った。
「生きてたんだ、って、さすがにひどない?」
「どっかで生きてるとは思ってたけどさ、顔とか、そのまんまだったんだなって」
「ああ……まあ、」
ちょっと待ってろ、と燐は言って、再び志摩に背を向けた。どうやら彼は朝食を作っているらしい。ぐるりと視線を巡らせると、時計が目に入る。十一時五十二分。朝食というよりは昼食のようだ。
そう認識した瞬間、ぐぅ、と腹が間抜けな音を立てる。燐は肩越しに志摩を見て、にやりと笑った。
「腹減ってんの」
「そらもう、食欲とおさらばした生活やったから」
お腹すくんも久しぶりやなぁ、と笑うと燐が呆れた、と心底ばかにしたように言った。
「ごはんなにー」
「雑炊つくったけど、おまえはこっち」
「えぇ……水じゃお腹は膨れへんで?」
「いきなりちゃんと固形物食えると思うなよ」
大人しく飲め、と目の前にコップを突き付けられる。恨めしげに燐を見遣りながらコップに口をつけ、一気に飲み下そうとした瞬間。
「げほッ、うぇっ、ゴフッ……」
「あーほらやっぱり。落ち着け、ゆっくり吐いて、ほら吐けっつったろ吸うな、吐け、よし、そう、吐いて……したら吸って、もっかい吐いて」
背中を丸めて激しく咳き込む志摩を抱きかかえるようにして、燐が背中をさする。志摩の呼吸に合わせてゆっくりと息を吐き出しては吸い、吐き出しては吸うのを繰り返す。次第に志摩の呼吸も落ち着き、背中の上下の幅が小さくなる。
「落ち着いた?」
志摩がこくんと頷くと、おまえ水も取ってなかったんだろ、と燐が背中をさすりながら言う。
「脱水になってんじゃねえかって思ったんだよ、ほら、ゆっくり舐めるみたいにして飲め」
一気に飲もうとすんなよ、と燐が釘を刺す。なんとなく居心地が悪くて目を合わせないまま、舌先で少しだけしょっぱい水を舐める。唇を濡らしながらゆっくりと飲んでいくうちに次第に水の味がはっきりしてきた。
「うまい……」
「これがうまいとか完全に脱水じゃねーかよ……」
「なんか意外やなぁ」
「意外ってなにが」
「奥村くんがこういうんに詳しいの」
もしかしてなったことあるとか、と軽口を叩くと、燐はそうだよとなんでもないことのようにさらりと言った。
「……なんだよ」
「や、ほんまに意外っちゅうか」
「あんときは多分四日くらい飲まず食わずだったからな」
「そうなん」
「志摩にも責任あると思う」
目線を合わせないまま燐がぽつりと言った。その一言で、志摩は大方の検討をつけた。頭に浮かんだ考えは自惚れもいいところなのかもしれないが。
「もしかして、心配してくれはって?」
「ちげーよばか。志摩のこと殺してやりたいと思ったけどいねーから、ヤケクソんなって昼夜ぶっ続けで山奥の悪魔殲滅してきた。そりゃもうそのへんの村の人たちには感謝されたよ、それこそ神様みたいに」
「さ、さいですか……」
明かりひとつない夜の闇のなか、燐の青い焔がぼんやりと浮かび上がる様を思い浮かべる。綺麗だ。というよりも、美しい。無情なまでにひたすらに悪魔を切り捨てていく燐の無感動で冷たい瞳は、さぞかし美しかっただろう。考えただけで背筋が震える。泥や体液や血に塗れたその姿はひどく凄惨なくせに、白くすべやかな肌にはもう、傷ひとつ残っていないのだ。
少し息を荒げて、積み重なった死体とその燃え滓を見下ろす燐。その姿を見られなかったことを、とても残念だと思った。
「奥村くん……」
「なんだよ」
「前より綺麗にならはったねえ」
「は? おまえ目腐ってんじゃねーの」
けれど今、こうして志摩を蔑むように、むしろ憐れんだように見る目は昔とは全く変わらない。呆れたように志摩を見る、学生時代のそれと。言葉や所作の端々から昔のままのようで昔とは明らかに違うのだということを感じ取り、志摩はまた堪らない気持ちになるのだった。
「で? いつまでここにいんの」
「え?」
「まあいいや、一時間かけてその雑炊食ったらさっさと寝てろよ」
おれは任務行ってくっから、と言い置き、志摩の手の中の空になったコップを取り上げる。二の句が継げずぽかんと口を開いたままの志摩を尻目に、燐は数分で身支度を整え、さっさと出ていってしまった。
「……なんやのあれ」
不用心にもほどがあるだろう。志摩はソファの上から手を伸ばしてお椀をとり、ぺろりと舐めておいしいと呟いた。
鍵を差し込んで右に回し、ガチャリと静かに響く音を聞いてからドアを引く。部屋の中は真っ暗だった。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。
「おれ、夜目が効くから丸見えなんだけど」
リビングの彼が寝ていたソファーの上で、志摩は燐に向けてキリクを構えていた。ゆらゆらと、少しはみ出した黒い焔が揺れる。
「奥村くん、ちょっと迂闊がすぎるんとちがう? 少しは警戒するってことを覚えたかと思っとったけど」
「なんでおれが警戒すんの? 志摩を?」
「これ、多分奥村くんを殺せるんやで」
わかっとるやろ? と志摩の口許が微笑んだのがわかった。物騒なことを口にしているわりに穏やかな笑みだ。黒い焔がするすると燐に近づいて、すぐ目の前で止まる。
「一番怖いのは人間やで、奥村くん」
「やってみろよ」
やりたいんなら、と燐は言った。その声はたいして小さくはなかったのだが、二人がぽつぽつと発する言葉と呼吸音しかしないこの部屋では、囁き声のように聞こえた。
「おれの悪魔の部分が死んだら、おれは死ぬのかな」
「さあ、どうなんやろねえ。知りたいん?」
「どうだろ」
わかんねえ。
そう呟いて、燐はゆっくりと瞬きをした。志摩は先程からの微笑を崩さないまま燐を見つめている。その瞳がいま何を浮かべているのかは燐にも見えない。
「おまえはおれを殺せないよ、志摩」
「ははっ、なにそれ。自信?」
焦燥のような、困惑のような。苦笑のような、緊張のような、そんなものらが入り乱れたかのような声を出す。きっと志摩は混乱していたのだ。本人は絶対に認めないとしても。
お互い全く視線を逸らさないまま、とても長い時間見つめあっていたような気がした。呼吸がどんどんシンクロしていく錯覚が、志摩の頭を過る。
どんな傷もつけられた瞬間に治っていく燐の体に、もしかしたら消えない傷を残すかもしれない焔。
傷つけてみたいと思わないわけではない。けれど同時に、確かに、志摩は燐のその人ならざる部分を好ましく思っている。愛しているといってもよかった。そして、人間でも悪魔でもなく、かつ人間であり悪魔でもあるために苦しんできた燐の人間臭さが気に入っていた。その人間臭さは確かに志摩が嫌ってきたものでもある。
志摩廉造とは自家撞着の人であった。そして、面倒事が嫌いということが彼のおおよそ全ての行動の原動力だった。
だから、志摩は揺らめいていた焔をぱっと引っ込めてへらりとだらしなく笑うのである。
「はあ、やっぱりあかんわ、無理」
燐の鼻先に向けていたキリクの先を天井へ向けて大きな溜め息をつく。燐が目を見開く。
「緊張したぁ。こないなピリピリした雰囲気、耐えられんもん」
もうやめややめやとひらひら手を振りながら、志摩は燐のもとに歩み寄って電気をつけた。明るくなった部屋は間違いなく燐がもう何年も住んでいる部屋で、昨日志摩を寝かせて、今朝志摩の背中をさすってやった部屋だった。
「おかえりぃ、奥村くん。お昼の雑炊ごちそうさまでしたぁ、やっぱりうまかったわ」
「お、おう……ただいま……うまくてよかったよ……」
「アレッ謙遜とか! 珍しい! おれがつくったんだからうまくて当たり前だろーくらい言うと思ってたんにー」
急に態度を変えた志摩に今度は燐が混乱する番である。しかし、おれ腹減ったんやけどー、と勝手に冷蔵庫を漁っているのは間違いなく志摩廉造だった。学生時代、初めて自分のことを友達と言ってくれた人。つい数十秒前まで、自分を殺しうるものを微笑みながら突き付けていた男。
「奥村くん聞いとる?」
肩越しに振り返って、ずっとこうして燐の部屋に入り浸っていたかのようにそこにいる志摩。まだただの友人だと思っていた頃と同じ雰囲気を纏う志摩。
どれが、本当の彼の姿なのだろうか。
「……おれ、やっぱり志摩がわかんねーわ」
燐の呟きに、志摩は少し目を丸くし、それから当然やわと言っておかしそうに笑った。
「おれにもわかんないもん、奥村くんにわかられたらかなわん」
これ飲んでええ? とアルミ缶をかざす。奇しくも、京都のあの夜に飲んだものと同じだった。
「なら、奥村くんは自分のことを完全に知ってるん? 百パーセント? そんなこと、あるわけない。現に、奥村くんは自分がさっきどんな顔でおれのこと見てたか知らない」
ソファーへと戻り、燐の返事を待たずにプルタブに指をかける。燐はつられるようにコートを脱ぎ、志摩の向かいに椅子を引いて座った。
つらつらと志摩の口から発せられる言葉は詭弁にすぎないようで、それなのに、どんな言葉よりも真理をついているように聞こえるのはどうしてなのだろう。もしくは、それこそが詭弁を弄されている証なのだろうか?
「おれがなんでここへ来たのか、奥村くんは知らない。奥村くんがなんで何も言わずに雑炊作ってくれはったのか、おれは知らない。おれが奥村くんを殺せるのか殺せないのか、そもそもそんなことが可能なのか、誰にもわからない。それでええやんか。誰も困らないし、知る必要も、きっとそもそもないんやないの」
バーコードの細い線をなぞりながら志摩は語り続ける。彼の言葉が水中をのぼっていく空気の泡のように、部屋のなかを浮き上がっては消えていくような風景をぼんやりと思い浮かべる。
「おれは志摩に殺されたいのかな」
「さあ。どうなんかな」
「志摩はおれを殺しにきたのか?」
「まあ、奥村くんのごはんを食べられんくなるんは嫌やなあ」
「じゃあいいや」
燐は満足げに言って、椅子の背にもたれた。
殺すとか殺されるとか、もっと背筋に冷たいものを感じるべき話題を軽々しく口にする自分たち。不思議なことに、志摩に殺意の紛い物のようなものを向けられたところで心は穏やかなままだった。あまりに死が身近で麻痺してしまったのかもしれない。悪魔を祓うということは、悪魔を殺すということと同義だった。志摩は悪魔や、もしかしたら悪魔以外のものを、数えきれないくらい殺してきたのだろう。意識しないだけで、燐もまた、殺すということに慣れてしまっているのかもしれない。
「逃げてきたのか?」
燐の問いかけにたいして志摩は何も言わず、ただ笑ってみせた。燐はなにかを悟ったようにそれ以上は聞かなかった。
逃げてきたのだろうか。そうだとしたらなにから? 志摩はぼんやりと考える。騎士團から、イルミナティから、それとも人間関係、しがらみ、あるいはおそらく自分の身にまとわりつくもの全て。生きてきた過程で自分にくっついてきたものをいとも簡単に放り出してしまえるほどに、志摩は自分を軽んじているのだった。それは自己否定というこれ以上ないほどの自己肯定であり、矛盾していることを重々承知してもいる。
それなら、と志摩はかすかに口にした。椅子にもたれた燐が志摩を見る。
「なんで奥村くんのとこ、きたんやろ」
「自分でわかってなかったのかよ」
「うーん、なんでなんかなあ」
奥村くん、なんでやろ? 思い付きでそう問いかけてみると、燐は悪戯を隠そうともしない子供のような顔で、それをおれに聞くの、と言った。
「志摩がわかんないこと、おれにわかられたらかなわないんだろ」
「せやけど、わかってほしいこともあるんやもん」
「もんじゃねーよ」
燐はくすくすと笑った。我儘なやつめ、と彼の猫のような目が語っている。
「まああれだ、志摩はおれのこと好きなんだよ、少なくとも勝呂たちよりは」
「なるほど」
「いや、好きっていうか、おれに甘えてんじゃねーの。そう、甘えてんだよ。多分。おれがきっと何も言わないで何も聞かないで、でも志摩が来ちゃったらきっとちゃんと泊めてやるんだろうなって、そういう打算みたいなもんを、無意識でわかってんだよ」
おまえさ、おれのどこがすきなの、と燐が言う。
「奥村くんはおれのことすき?」
「そういうとこすげーむかつく」
そういうとこかなあ、と志摩が言うと、燐はばかじゃないのと呟き、少しだけ笑った。
「奥村くん、変わったなあ」
「そうか?」
「おん、ずるくなったわ」
「え?」
どういうことだろう、と燐が眉根を寄せた。
燐がおそらく自然と身につけたずるさは、志摩が自分を守るために身につけなければならなかったものだった。それをかつて志摩は本能的にわかって、しかしそうして「大人になった」という点において志摩と燐は確かに共通する部分を持っているにもかかわらず、二人ともそこには目を向けない。意識的に、あるいは無意識的に。
似ているところが少なからずあるからこそ、それ以外の差異が際立つ。そういうものだ。
「歳は取りたくないもんやなあ」
志摩は笑った。笑っているのに、泣き出しそうだと燐は思った。
「おれの背はたいして伸びてもないし、志摩は今もかっこわるいまんまだよ。おまえが思ってるより、たぶんなんも変わってねーよ」
「そうやろか」
「そーだよ」
どうして志摩はここにきたのだろう。意識を失う前、何を呟いたのだろう。キリクを向けた理由も、キリクを下ろした理由も、志摩が言ったように、燐はなにも知らない。変わったところも変わらないところも、何が彼の、自分の真実なのかなど誰にもわからない。結局は真実なんて既成事実の積み重なりにすぎないのだろうか。
(本当のことってなんなんだろう、)
ただ、いま、この瞬間に志摩と燐が二人でこの部屋にいるということが何よりも強く、明らかな紛うことなき真実だった。それだけでよかった。明日の朝になれば、もう志摩は跡形もなく、この部屋からいなくなってしまうのかもしれない。
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