惜しみ無く奪うもの

 そのときの奥村くんの反応は案外あっさりしたもので、なんというか、拍子抜けした。
え、俺いまちゃんと言うたよな? あれ? え? と俺のほうが動揺してしまって、そんな俺を見て奥村くんは少しだけ表情をゆるめた。奥村くんはまた目線を皿に落として、俺は箸で切ったコロッケを口に運んだ。うまかった。
「わかった」
「あ、うん、」
「鍵、置いてっていいから。つくってもらったとこに持ってっとく」
「や、そこまで迷惑かけへんし。自分で持ってくわ」
「……わかった」
 おれ、志摩のことすきだったんだけどな。いや、別にいんだけど、てかおれがわるいんだし、おれがばかだったんだよな。そう、おれがばかだったんだよ。ごめんな。
 奥村くんはぼそぼそとこんなことを呟いて、呟いてから残ったお味噌汁を一気に飲んで、それからいつもみたいに手をあわせてごちそうさまでした、と言った。
「皿、そのまんまでいいから」
「や、いいよ、今日くらい」
「いつもしないくせになにいってんの」
 奥村くんは小さく笑って、それからもう一度、そのままにしといてと言った。
 こうして、なんでもないことのように、俺と奥村くんの短いオツキアイは終わった。

 奥村くんの姿をはじめて意識して見たのは、ゴールデンウィークを過ぎた五月の半ばのことだった。必要以上に新入生で混みあっている食堂で、新しいコミュニティに早く馴染もうと十人前後のグループが立ち往生しているなかで、奥村くんはひとりで二段弁当を広げていた。
 その姿を、俺は今でもありありと思い出せる。がやがやとうるさい喧騒のさなかで静かに、ただ黙々と箸を運ぶ姿はある意味でとても異質だった。時間の流れかたがそこだけ違うようだった。
 志摩くん、向こう空きそうだよ、とクラスの女子に声をかけられたから、奥村くんに関する最初の記憶はこれだけだ。記憶というほどのことにも満たないけれど。
 次の日も、その次の日も、次の週の月曜日も、木曜日も、奥村くんはかならず食堂のどこかにいた。いつもあの二段弁当を広げて黙々と手と口を動かしていた。ともすればぼっち飯と揶揄される人々は他にも溢れるほどにいたのに、なんで俺がそんなに奥村くんのことを観察していたかというと、それは奥村くんのケータイを一度たりとも見たことがなかったからだ。大学でも電車でも道でも、ほとんどの人が平っぺたい液晶を見つめてその場にいない人とやり取りしている。食事の最中もスマホをいじっている人がほとんどなのに、奥村くんのケータイはおろか、イヤホンをしている姿も見たことはなかった。俺はヘッドフォンが手離せないというのに。
 俺は適当に笑って集団に馴染んだふりをしながら、そうやって気付いたときには奥村くんを観察していた。(奥村くんの弁当はいつだってめちゃくちゃうまそうだった。その頃の俺は焼きそばとカロリーメイトとウィダーとレッドブルとやっすいコーヒーでできていた。)
 そう、奥村くんはとんでもなく料理がうまかった。奥村くんの料理を食べるようになってから、俺は本当に久しぶりに食べるということを楽しみに思うようになった。胃袋をがっしり掴まれてしまったというわけだ。お母さんがつくってるんかな、と思っていた奥村くんの弁当がまさかの自作だということを知ったときの俺の衝撃は忘れられない。
「奥村くんていつもおいしそうなお弁当食べてはるねぇ」
「や、ふつうだと思うけど」
 食う? と控えめに差し出された卵焼きに、一瞬考えこんだのち、ぱくっと食いついた。うまかった。
「うわあ、むっちゃおいしいやん! ええなあ〜手かかってるんやろなあ〜」
「そんなことねーけど……」
 奥村くんはそう言ってわずかに疑問符を浮かべた。まさか、と思ったらそのまさかで、俺はむちゃくちゃびっくりした。こんど飯食いにくる?とためらいがちに奥村くんが発した言葉に、もっとびっくりした。なぜだかわからないけど、なんか嬉しかった。
 それから、一人暮しの奥村くんのうちになんとなく入り浸るようになった。奥村くんはなにも言わなくて、それが不満で、わからないように自分の痕跡を増やしていって、そんなことをしている自分が嫌いだった。それなのに、さもとうぜんのように並んだ二つのマグカップにこの上ない幸せのようなものを感じたりするのだった。だんだん増えていく俺の私物に、私物といったってコップとか箸とかそういう、その気になればそこそこの大きさの紙袋におさまってしまうくらいの量だったけど、とにかく奥村くんは新しく持ち込まれたそれを見つけてはふっと表情をゆるめるだけだった。奥村くんのそのときの顔が俺はかなり気に入っていて、でも同時にどうしようもないくらいその首に手を伸ばしたくなった。
 そう、俺は救いようのないくらい面倒な男だ。面倒事が嫌いなのに、一番嫌いな自分からはぜったい逃げられない。そんなことはわかってんだよ。
 だから、もう無理だって思った。奥村くんともう一緒にいたくないと思った。俺は奥村くんの友好関係を制限したいのに、奥村くんが俺にとやかく言うとすごく嬉しくて幸せでもっともっとって思うのに無性に腹が立って。お互いにいいことなんてなにもない。だから、もうここにはこないと言った。奥村くんは何かしらのアクションを起こすかなと思ったけど、そんなことは全くなかった。明日ビンカンの日だからゴミ出しておいて、みたいなそんな気軽さで、奥村くんは合鍵の処分の話を口にした。俺は、奥村くんになんでとかどうしてとか言ってほしかったのかもしれないし、もしかしたら奥村くんが初めてなにか言ってくれるんじゃないかと期待していたのかもしれない。奥村くんがそんなことするわけもないのにな。考えればきっとそんなのわかりきっていたことだ。
 そうしていま、俺は、五月の俺と同じようにヘッドフォンをしながら、ひとり寂しく四百十円の週がわり定食を食べている。
(奥村くんのごはんのがおいしい、)
 そんなことを頭に思い浮かべながら。結局最後までひとつも吹き出しが表示されることのなかった奥村くんとのラインを消して、俺はプレイヤーの音量をひとつ上げた。
 食堂は、随分と人が減った。冬学期ももうすぐ終わるわけだから、学内人口じたいが減っているのかもしれないし、なにより春先の無意味な集団がいなくなったことでそう思うのかもしれない。
 そもそも、俺と奥村くんのファーストコンタクトは六月のあたまだった。梅雨に入ったのか入っていないのかはっきりしない、降ったりやんだりを繰り返す最悪の天気の日だった。俺は三限をさぼって、レジからうまく死角になる隅っこの席で突っ伏して寝ていた。前日の夜からなにも口にしていなかったのに、空腹感は全く感じなかった。
 なにもかも嫌になって、誰とも話したくなくて、誰かと連絡のとれるものの電源を全て落として、本当はデータを初期化したい衝動に駆られたけれど、そんなことはできるはずもなく。だからヘッドフォンで両耳を塞いで目を閉じて。いたのに。
「なあ、あんた大丈夫?」
 揺り起こされた。俺がたびたび観察してた人物に。すなわち奥村くんに。咄嗟に声も出なかった。
「……」
「顔まっしろだぞ。具合悪いのか?水とか、」
 奥村くんはどうやら心配してくれたらしい。ということはわかるのだが、ぶっちゃけなんでそないな面倒事、という最低な考えのほうが脳内を占めていた。奥村くんは腹とか痛いのかとか、気持ち悪いのかとか、なにやらそんなようなことを言っている。俺は正直ぽかん状態で、奥村くんの声が耳を通り抜けていっていた。
「……なあ、」
「え?」
「自分なんで俺に声かけたん?」
 奥村くんは、しまったとでもいうような顔をした。なんでだか俺はそれが気に入らなかった。
「や、悪い、意味わかんねーよな……迷惑だったよなごめん」
「え、なに言うてはるん?」
 完全にこちらがうざったがっていると思っているらしい奥村くんは、ものすごくきょどっていた。言い方キツかったんかな、と思いなおして、心配してくれたんやんな、ありがとお、もうちょっとここにおってくれへんかな、と言うと奥村くんはあからさまにほっとしたような笑顔を見せた。
 奥村くんいわく、彼にはこれまで友達らしい友達がいなかったらしい。それで、つい声をかけてしまったが自分の行為はとんでもなく端迷惑なもので不快に思われたのではないかと思ったそうだ。それがしまったの正体らしい。
 そう、奥村くんはいつも自分のすることなすことが迷惑になるのではないかと思っていた。いや、知らないけれど、そういう節は間違いなくあった。こんな些細なきっかけで直接言葉を交わすようになり、連絡先をなんとか入手したところで、なんでもええからメールほしいなあと言ってみても何書けばいいかわかんねえよって困ったように笑う。奥村くんのその顔が俺は好きだった。そういう、思いやりとか、不必要なまでに人に迷惑をかけるのでは、かけているのではと気にしているところとか、どうしようもなくすきだった。そう、すきだった。すきだったのに。
 なんで俺は奥村くんのそういうところをちゃんと、奥村くんのそういう本質みたいなものを、どうして見てこなかったんだろう。奥村くんの思考回路とか、笑った顔とか、きれいな目とか、周りの雑多な人間に流されないでちゃんと地に足つけて立って生きているようなところを、そんな奥村くんだからすきだなって思ったのに。メールしか使わない、そのメールでさえもろくに確認しない、そんな奥村くんが俺のメールには気づいたらすぐに返すようにしてくれて、俺の鳴りっぱなしのラインの通知音にキレたりとか、そういうかわいいところをたくさん知っているはずなのに。そういうところがかわいいって思ってたはずなのに。いつからか苛つくようになっていた。自分の尺度とどこかずれた奥村くんを、なんでわからへんの、なんで俺の思うように動いてくれへんのって。ばかだな、そういう人間関係に嫌気が差して俺じゃなくても誰でもいいみたいなそんな代替品で溢れかえってるようなやつらが嫌で全てを捨てたくなったのに、それで奥村くんを手に入れたのにーー違う、手に入れた気になっていただけだ。奥村くんは最初から俺にそれを許してはくれなかった。
 ああ、奥村くん、きみの言ったとおりや。奥村くんはばかやったよ。俺がどんだけきみのことをすきだったか、それをきみはわかろうとせえへんかったやろ。きみは俺がきみに合わせてると思ってたんやろ。だから、嫌気が差したならしょうがないって、そう思って、ただわかったとしか言わずにおったんやろ。
 行かなければと思った。足が勝手に奥村くんの部屋に向かう。電車で三駅、心はもうあのアパートの階段の下にいるのに、がたんごとんと定速で走る電車がもどかしい。速く、速く動けよ。行かなきゃ。
 改札を通り抜けて、二人でのろのろ歩いた通りとか、初めて手をつないだ交差点とか、真夏日にアイスの買い食いをして、たらりと水色の液が垂れた手首、それからそれをべろりと舐めた舌に欲情した公園の脇とか、思っていた以上に奥村くんとの思い出が詰まった道を走る。
 カンカンカンと大きな音を立てながら階段をかけ上って、アパートの二階の手前から三番目の部屋。持っていくからと言ったくせに、キーチェーンの先、まだ合鍵はしっかりと定位置にあった。
 奥村くん、ごめん、やっぱり奥村くんがすきだ。
 奥村くんだから、今まで付き合ってきた人みんなと違う、他に奥村くんみたいな人なんて今までおらんかったから。奥村くんだけがみんなと違うと思った。俺とも違う、違ったから、それがすごいええなって思ったんよ。
奥村くんに謝ろう。それで、ぶっきらぼうに告げた別れ話をなしにしてくれって、やっぱり奥村くんのことがすきやって、俺がばかやったって、そういって俺のこと嫌いにならんでってお願いしよう。奥村くんだからすきなんやって、ちゃんと正面から言うたら、奥村くんは今度こそおれも志摩のことすきだよって言ってくれるやろか。
 そんな希望に満ちたような気持ちで、バンッ、と勢いよく開けた部屋の中は、思っていたものと違う、段ボールだらけの部屋だった。
「え……」
 事態がまったく飲み込めない。まだ少しの家具は残っているけれど、この廊下に積まれた段ボールはなんだ? なんでマジックででかでかと台所とかって書いてある?
「志摩……?」
「奥村くん……」
  呆然と、玄関からリビングまでの短い廊下に立ち尽くす俺の後ろに、いつのまにか奥村くんが立っていた。その手にはレジ袋が握られていて、頭の奥のやけに冷静な自分があれで夕飯を作るのかなと呟いた。
「どうした、なんか大事な忘れ物とか」
「奥村くんこれなに?」
 したのか、と続けようとする奥村くんの言葉を遮って詰め寄る。さっきまでの明度の高い気持ちは綺麗さっぱりどこかへ消えてしまっていた。どす黒い、どろりとした感情が腹のなかを満たしていく。
「なにこれ? 引っ越し? そうやね、俺はもうここにきいひんって言うたもんね、俺がいたこの部屋にはもう住みとうなんてないもんな? 新居はどこ? 家具は買い換えるん? ああでもそしたらけっこうお金かかるもんなあ、やっぱり持ってくんかな」
「志摩、何言ってんだよ、」
「いつ引っ越してくの? あ、鍵まだ持っていけてへんかったんや、ごめんなあ。引っ越すんなら尚更はよう処分してもらわなあかんかったな、ほんまごめんな、」
「ちょ、志摩どうしたんだよ、なに怒ってんだよ、」
「怒ってる? まさか! 俺にはそんな権利も資格もあらしまへんわ。なんで俺が怒ってるって思うん? 怒ってるわけないやんか、奥村くんにはほんとに申し訳ないて思っとるよ、それだけや、迷惑かけてごめんなあ、俺みたいなんがおっても面倒かけてばっかりやったやろ、安心してや、もう君のところには来おへんし、そりゃまあどっかで姿見かけさせてしまうこともあるかもしれんけど、なるべく奥村くんの視界には入らんようにするか」
 ら、と言う前に奥村くんが俺の肩を掴んで、強制的に視線を合わせさせられる。どさっと落ちたレジ袋が微かな音を立てた。くるくると思っていたことと違うことを発する舌と、自然と浮かんでしまう嘘にまみれた笑顔(たぶん今も自分は表情筋だけで笑っている)、思ってもいないことがこんなに簡単に言葉になるはずなんてないのだから、きっとこれは自分が本当に思っていることだったのだろう。奥村くんの瞳は夜の海のようだった。奥村くんがこんな俺をすきなはずはないのだから、この海に溺れて死んでしまえたらいいのにと思った。
「なにばかなこと言ってんの」
「……奥村くんこそ、なにしてはるの」
「引っ越し、弟が一緒に住もうって。迷ってたんだけど、俺はこの部屋が、志摩と過ごしたこの部屋が好きだったから、辛くなるからそれでもいいかなって思って荷物まとめてみてただけ。引っ越すかどうかはまだ決めてない。結論を伸ばし伸ばしにしてるって弟には怒られてるけど」
「なんやのそれ……」
 俺の目をまっすぐ見てはきはきとしゃべる奥村くんは、なんだかいつもとすこし違った。俺の、思ったより弱々しく響いた声に、奥村くんは少しだけ表情をゆるめた。
「こないだの、おれが言ったこと、覚えてる? おれさ、志摩のことすきだったんだよ。あのとき初めてちゃんと言ったけどさ、それもおまえわかってなかったのな。そう、だからおれがばかだったんだけど。おれ、ちゃんと志摩のことすきだったのに、志摩のめんどくせえところとかネンチャクシツなところとか、そういうとこもひっくるめてすきだったのに、それをちゃんと志摩に伝えてなかったんだな。志摩がわかるようにしてなかったおれがわるかったし、おれがばかだったんだよな」
 でもさ、と奥村くんは小さく笑う。
「でもさ、おんなじくらい、志摩もばかだったんだよ。おれが志摩のことすきだったって、おまえわかってなかったじゃん。志摩もおれのことわかろうとしてなかったじゃん。けっきょく、おれも志摩もばかだったんだよ、おんなじくらい、すきだったのに、なんでわかんなかったんだろうな」
 わかったらうまくやり直せるのかな、と奥村くんは呟いて、それからちょっと困ったみたいにはにかんだ。ずっと俺は、奥村くんのなけなしの俺に対する気持ちをがんばってしぼりとっていると思っていたけれど、でもそれは、そうやって俺がもらっていたものは本当は奥村くんが俺に与えてくれていたものだったということにやっと気がついた。それに気づかないでいた俺は本当にばかで、きっとこうなってもなお、俺が奥村くんをすきだったことに固執していたぶんだけ、奥村くんが俺をすきだったなんて、すきでいてくれたなんてそんな大事なことに気づけなかった俺は、俺のほうが奥村くんの何倍もばかだったって、ようやく、自分のばかさ加減を思いしった。

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