ナイトダイビング

 思えば、あの日もこんな夜だった。暑くて、空気は日本独特の湿気を孕んでいて、じわりと汗が染みだして、もしかしたら山の奥では天の川が見えるかもしれないような、そんな夜だった。
 中古車の空調はとうにお陀仏で、車内はほとんど外と同じ暑さだった。夕方に少しだけ降った雨のにおいがした。黙って窓を開けて頬杖をついた助手席の志摩は、静かな瞳で真っ暗な外を見ている。
「なに?」
 暗くてわずかに反射するフロントガラスごしに視線を合わせてそう聞いてきた声は、夜を見つめる瞳と同じくらい静かだった。
「なにも」
 答えた自分の声はなんだか無愛想な気がして、しかしそれが彼のお気に召したのか、志摩はふっと弛んだように笑った。
 あの夜のことは今でも覚えている。初めて飲んだアルコール、のどの奥の焼けるような熱さと、これは夢なんだろうなと呟く頭の中の幸せな醒めた自分。
 きっと今も夢なのだろう。
 そう思ったほうが、たぶん、傷は浅くてすむのかもしれない。何回も卒業試験を落ちながらやっと免許を取ったという話をどこから聞いてきたのか、中古車に乗ってやってきた志摩廉造は、会うのは数年ぶりだというのに、前と全く変わらない様子でやっと免許取れたんやなと言ってにやにやと笑った。それが、今から一時間すこし前のこと。乗ってきたのは自分のくせに、ちゃっかり助手席に乗り込み、それから運転席の窓から鍵を投げつけた。その鍵を反射的に掴んでしまったのは奥村燐の弱さで、そしてそれを掴めたということが、彼の彼たる所以なのかもしれない。
どこか連れてってよ、と志摩は言った。どこでもいいから、と。
 何度かキーを回してやっとかかったエンジンは今にも止まってしまいそうで、まるで四年前からずっとずるずると引き摺っている恋のようだった。そう、四年前は、確かに志摩のことがすきだったのだ。もしかしたら、初めての友達らしい友達、という立ち位置の志摩に対して感じた勘違いだったのかもしれないが。満たされることを愛と勘違いして、というのは誰の言葉だっただろうか。
 色々なことがあって擦りきれたそれはもはや瀕死で、今ではもう本当に好きなのかどうかもわからなくて、それでも燐の中でみっともなく永らえている。とどめが必要だった。このガラクタのような恋を終わらせるにしろ続けるにしろ、とんでもなく不毛な何かを抱えているととにかく腹が減るのだ。だから、なんらかの決定打を必要としていた。その致命傷を求めては手に入れることを拒み続けた四年間だった。
「なんか話してよ」
「おまえがしゃべれよ」
「奥村くんが、おれのために話すの聞きたいんやけどなぁ」
「なんだそれ。おまえ、おれに言わなきゃいけないことあるんじゃないの」
 言わなきゃいけないこと。そう、言わなきゃいけないこと。
 学生のころ、といっても一緒に過ごしたのは一年にも満たないのだが、彼が時折話す標準語を燐はなんか変な感じがするといって笑ったのだった。それはまごう事無き愛しさだった。今から思えば、である。そして、今志摩が口にした標準語は滑らかで、違和感がないという違和感が燐の背中に沸き上がり無性にかなしくなった。そのかなしさも、きっと、愛しさに違いなかった。だらだらと延命させられた植物状態の恋が死んだ瞬間だった。
「言わなきゃならんことかあ」
 ぎょうさんあるもんなあ、と相変わらず外を見つめながら発せられた声はのんびりとしていて、まるで提出間近の課題について話すような、そんな諦めを含んでいた。一度だけ借りた教科書の隅に書かれていた落書きを思い出した。あのとき、燐に見られることを想定していない燐宛の(きっとそのはずの)言葉に返事を書こうかどうか迷って結局見なかったことにした。授業聞いとったん、と笑って聞いた志摩に、爆睡、と四文字の嘘を吐いた。あのとき彼は燐の嘘に気付いたに違いない。そして彼は気付かなかったという嘘を吐き、それを今も抱き続けている。もしくはもうとっくに捨ててしまったのかもしれないが。
 真っ暗で川が海みたい、と志摩が小さく呟いた。
 燐には、いま志摩が何を考えているのかわからなかった。あの夜も、志摩が本当は何を思っていたのか、今でもわからない。志摩は志摩で、きっと燐の考えていることはわからないと思っているのだろう。失望とか、がっかりとか、そういうものを一ミリでも感じてくれていたらいいなと燐は思った。マイナスの感情は、プラスの感情からしか生まれない。不意に、喉を焼くようなアルコールの熱さを思い出した。もうコンビニで酒を買える年齢になってしまったので、だから替わりに、あまったるいサイダーが飲みたくなった。夏が近づいている。他にもいろいろあるはずなのに、なぜかあの小さな四畳半で隣に寝っころがっていた彼の背中が目に焼き付いている。少し汗の浮いた首筋とか、思っていたより広かった肩幅とか。そしてその背中を思い出すたびに、苦しくなって、そして無性に腹が立って背中を蹴りたくなるのだ。最初は自分が志摩廉造を好いてしまったということを思い知らされては死にたくなっていたのに、次第にそのような感情の起伏は穏やかになっていって、今ではもうよくわからない。わからなかった。今夜ふらりと、亡霊のように現れるまでは。
 そういえば、志摩が考えていること、他愛もないようなことではなく、彼という人間の根幹を形成しているようなそんなものについて、彼の口から彼の言葉で聞いたことはそういえば一度もないかもしれない。これからもないだろう。いつか、そう、いつかは、もしかしたらあるのかもしれないが。未来を指す言葉はいつだってこれ以上ないほどに不確かだ。そしていじわるで美しい。
「おれは志摩のこと好きだったんだけど」
「……うん」
 知ってた。や、もしかしたら知らんかったかも。
 そうだろうなと思った。この言葉は真実なのだろうとすとんと思ったのは、少しだけ志摩の横顔が固かったからかもしれない。彼は驚いたときに、ほんのすこし固まる。昔から変わらない、自分が知る志摩の一部である。きっと自分も死にきれずにいる、ただの亡霊だ。
「……奥村くんと」
「ん、」
「人生の、ほんの五パーセントも一緒におらんのやな」
「そうだな」
「もっと長いと思ってた」
「うん」
「似てるなって、思っとったんよ」
 知らなかったやろ。うん、知らなかった。
「だと思ってた」
 ふう、と息を吐いた志摩はそっと背を倒した。絶妙に、横顔が視界に入らなくなる。
これで会話は終いだというように、燐はカーラジオをつけた。性能の悪いステレオから流れてくるビートルズ。おれは嘘がうまくなって、志摩はへたになったなと思った。それとも逆なのだろうか。志摩は何も言わなかった。
 ここで二人して口をつぐむから、だから駄目なのだろう。言葉以外に伝える方法なんてないのに、それ以外の方法を想定している。例えば皮膚同士の接触や、もしくは性行為。もしかしたら指先からも伝わるのかもしれない。しかしそれを頭の隅で思い描いてみたところで、行動に移す気なんてさらさらないのだ。沈黙が伝達方法になるなんて万が一にもありえないのに、そのイチを期待している。期待しながらもそんなわけがあるはずがないと既に見切りをつけている。結局のところ、今でも好きなのだった。

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