ふと、青峰の声が聞こえた気がした。
思わず黒子は振り返って、その視線の先に海を見る。
「黒子ー、はやくこいー」
「はい、いま、」
遮るものがなにもない。まだそこまで強いわけでもない日射しでも、じわりと汗ばんだ身体をくらくらさせるには十分だった。
ちかちかする。視界のなかで小さな黒い虫が飛んでいるようだ。太陽の残像だと、あごを伝う汗を拭った。
日付はまだ四月。ゴールデンウィークの前半で帝光中バスケ部は短期合宿を行っていた。昨年の全中二連覇に続き、今年は三連覇がかかっている。予算が多くおりたとかで突発的に行われることが決まった合宿では奇妙な高揚感と緊張感が漂う。期待と重圧を一身に背負ったまだ十四の子供たちは、砂浜で日光に焼かれていた。
午前の練習は朝の九時からで、黒子はずっと砂浜にいる。足場が圧倒的に悪い。踏み込んだ瞬間に崩れるやわらかい砂のせいで重心がいとも簡単に崩れる。
安定したパスを出すために身体の重心を意識しろ、と言って赤司が組んだこのメニューは、確かに黒子のパスの安定感を高めるためには効果的だっただろう。しかし内心では、それほどまでに必要とされているのかという疑心がむくむくと鎌首をもたげる。そんな自己否定を打ち消すため、そんなわけない、この練習がみんなの力になるはずだと、そう必死に言い聞かせていた。
左足の中指の付け根にピシッと痛みが走る。先ほど踏んだガラスの破片で切ってしまったのだろう。
足元に視線を落とす。幸い血はほとんど出ていないようだった。切ったというよりもひっかけたというような感じなのかもしれない。
右足を踏み出し、左足がずり、と砂を蹴る。足がもつれて、ずっと鋭い痛みに小さく声を漏らした。
そろそろ休憩が挟まれるだろう。それまではどうにか砂を刷り込まないように気をつけながら練習しよう。黒子はまた汗を拭って、黙々と与えられたメニューへと戻る。すこし離れたところから青峰が彼を見たのには気づかないままだった。
「テーピングとかってありますか」
休憩になってすぐ、一つ年下の女子マネージャーに声をかけた。彼女はびくりと肩を跳ねさせて、驚いた表情を隠しもせずに救急箱のなかをごそごそと探し始めた。
「どこか捻ったんですか?」
「多分ガラスで切って、」
桃井がいればよかったのに、と心の片隅で思った。同学年だし話す機会も圧倒的に多いし処置は的確だし、なにより、安心感がある。言い換えれば信頼が。彼女なら大丈夫、という、漠然とした確信が黒子のなかにはあった。
深く濃いお付き合いをする人間が多いとはいえない黒子にとって、桃井をはじめとする同学年の彼らは大切な友人だった。無条件で、自分がここにいていいんだという感覚。その確信が、今は少しずつ揺らぎはじめてしまっている。彼らの圧倒的な自信は裏返せば自分に対する不信感なのではないかと思ってしまう。そんななかであっても変わらない確信を持たせてくれる桃井は確かに黒子の心の支えだった。
「消毒液と……絆創膏だけでも大丈夫かな……? ていうか、あの、私やりますから」
控えめにそう申し出た彼女に自分でやるから大丈夫だと言おうとした瞬間、彼女は黒子の背後を見て目を見開いた。
「テツ?」
ばっと弾かれるように振り返ると、青峰が自分の足に視線を注いでいる。
「けがしてんの」
「……たいしたことないのでだいじょうぶです」
「してるかしてないかだったら、してんだろ」
「自分でできる程度なので、」
どこかぎこちない会話を横で聞きあわあわしているマネージャーを後目に、青峰は救急箱のなかを漁りはじめた。けれどそういったことは桃井に任せてきた彼にわかるはずもなく、すぐにギブアップしてどれ、と言葉すくなに言った。
「え、えっと、消毒液と絆創膏、一応テーピングとアンダーラップ……黒子先輩捻ったわけじゃないんですよね?だったら絆創膏だけで平気だと思います。氷水なんですけど、これで砂を流してから」
「おれがやる」
「えっ」
「自分でできます」
「いいから、テツ、」
青峰は目を合わせないまま、黒子の右手首を掴んで歩きだす。引っ張られていく黒子が肩ごしにおいてけぼりのマネージャーに小さく会釈をすると、ぽかんと口を開けた彼女もぺこりと会釈をした。
「どうしたんだよ、これ」
「さっきガラス踏んじゃったみたいで」
波打ち際で他の部員たちの話す声が聞こえる。黒子は集団から離れたところでむき出しのコンクリートに腰かけて、青峰は彼の左足のかかとを掴んでひざまづいていた。距離にしたらそこまでではないのに、他人の声がひどく遠く聞こえる。波音にまぎれる。
「消毒するから、」
「……おねがいします」
「しみたらごめん」
「なんですかそれ」
しみるのは当然なのになぜかそれを青峰が謝るものだから、黒子が思わず小さく笑い声をこぼす。青峰はそんな黒子を見上げて目を細めた。
氷水というだけあってかなり冷たく、しかし日光を吸い込んだ砂を踏み続けていた足には気持ちよく感じられた。するすると砂が流されて肌の白があらわになっていく。青峰の長い指先がティッシュで丁寧に足指を拭いて、それがなんだかくすぐったかった。
会話はない。黙々と処置をしていく青峰の頭のてっぺんを見ながら、むしょうに胸が苦しくなった。じゅわ、と消毒液がしみこむ音が聞こえるような気がする。つーんと刺すようにしみて、ついズボンの裾を握った。
「しみる?」
「けっこう……」
絆創膏を丁寧にはがして、きゅっと細い指に巻きつける。奇妙な感覚だった。同級生、大切な友人、あこがれるひと、相棒だと(まだ)呼ばれている人、そんな人がひざまづいて自分の足を掴んでいる。大事なものを持つような手つきで。全然そぐわないのはわかっているけれど、ふと黒子は、靴を履かせてもらうのはこんな感じなのかなと思った。自分にとってのガラスの靴は、パスを呼んでくれる彼の右手だ、なんて、考えるのも恥ずかしい。
「なあ」
青峰はなにかを言いかけて、すぐになんでもないと頭を振った。
「気になります」
「いや、いいんだ」
「よくないです」
黒子の不満を流して、青峰はがんばれ、とだけ呟いた。途端に黒子は舞い上がりたいような心地になる。このひとの言葉で、何度も救われた。今だってそうだ、すれ違ってぎこちなさを感じていても、彼の言葉はいつだって自分を奮い起たせてくれる。
「青峰くん、ありがとうございます」
「うん」
「がんばります」
「テツ」
「なんですか」
「帰るとき待ってて」
まっすぐ視線をぶつけて青峰が言う。そのまなざしに射抜かれて、黒子はこくりと頷いた。あからさまに安心したように息を吐いて青峰が立ち上がる。じゃああとで、とみんなの方へと足を踏み出していく背中に青峰くんと声を投げた。
「ありがとうございました」
「ん、」
半身で彼が笑う。
午後十二時すぎのアスファルトは、思ったよりも冷たかった。もっと熱くて裸足では歩けないかなと思っていたけれど、日陰ではひんやりと感じるくらいだった。
黒子は左手の人差し指と中指に運動靴を引っかけて歩いている。すこし距離をあけて隣を歩く青峰の左手も運動靴で塞がっていた。
一年生がぱたぱたと隣を走りふたりを抜いていく。
地面は葉の隙間からさしこむ日射しでまだらになっていて、ずっと見ていると目がちかちかしてきた。すこし前では赤司と緑間がなにかを話しており、赤司が微笑んだのが後ろを歩く黒子にもわかった。その先では黄瀬と紫原がなにやら楽しそうに話している。昼食のデザートをよこせと絡んででもいるのかなと思った。
道の反対側を、高校生らしい男女が歩いてくる。二人は黙ったままで、けれど幸せそうで、手はしっかりと繋がれていた。
すれ違いざまに二人をなんとなく目で追った黒子を横目で見て、青峰は運動靴を右手に持ちかえる。
「テツ、」
「はい、」
「手」
差し出された空っぽの左手と、自分の空っぽの右手を見比べて、黒子はおずおずと手のひらに指をのせた。握りこむわけでもなく、ただ引っかかっているだけのふたりの右手と左手。
なんでそんなことをしたのか、今でもわからない。同性と手を繋ぐなんて普通ないことだ。それでもあのとき、青峰は黒子の手のひらにさわりたいと思ったし、黒子は青峰の手を取りたいと思った。理由も結果もない、完結したその行動と繋がった手のなかで、今までと変わらない青峰の体温が流れ込んでくる。
瞬間、いま自分は青峰の手を握っているのだという現実が迫りくるような実感として感じられた。
第四体育館ではじめて話して、それから何度も何度も数では表しきれないくらい一緒にバスケをして、諦めそうになる自分を立ち上がられせてくれたひと。急激な成長で周りをおいてけぼりにして、それでも、彼に及びもしない自分に無理をするなとは絶対に言わないひと。
さっき口ごもったとき、たぶんそう言おうとしたのだろう。けれど青峰は言わなかった。今までかけてくれた言葉と同じように、がんばれと、そう言ってくれた。自分ががんばりたいと思っていることを知っているから。無理をしたくないと思っていないことを知っているから。
他の人は比べものにならないくらい、ぼくがすきになったのはそういうひとだ。
もし、このまま青峰とどんどん疎遠になって、彼が自分に見向きもしなくなって。そうして、やっと得た大切な友人を、このひとのためならなんでもできるかもしれないと思えるようなひとを失うことになるなら。
そんなことになったらと思うと、めまいがする。
指先にわずかに力がこもる。青峰はなにも言わずにきゅっと黒子の指先を握りかえす。
それでも、青峰が自分を突き放しても、もういらないと言われても。諦めたくないと思った。このひとのために自分ができることがあるのなら、なんでもしたいと思った。さっき消毒液がしみたときみたいな痛みが鼻の奥を貫いて、目をしばたいて、青峰を見上げる。
気づいて青峰が、なに、と言った。
いま、海からまっすぐ伸びるこの道路で。自分の世界には、過去も未来もない、いまこの瞬間だけが真実だ。それだけでいい。それだけで、変わらない手の温度と、やさしい笑顔と、足の裏のアスファルトの感覚だけを忘れないでいられれば。それだけでぼくは、なにがあってもきみを諦めないでいられる。やっと掴んだこの立ち位置を手離したくはないから。ここにいていいかじゃない、ここにいたいから。自分勝手だと言われても、何度だってぼくは、きみの笑顔が見たいとつよく思う。
両手のふさがったふたり。ひどく不便で、それなのに、右手の使えない青峰の横顔をいつまでも忘れたくない。
「なんかあったか?」
ぱたぱたと駆けよって隣に並んだ黒子に、火神が問いかける。
「ちょっと昔を思い出してて」
「あー、青峰?」
どこか嬉しそうな横顔から見当をつけてそう返すと、黒子は目を見開いて火神を見た。
「なんで青峰くんが出てくるんですか?」
「違った?」
「いや、そうなんですけど、」
「やっぱり」
砂浜でのトレーニングのあとは、アスファルトの地面がとてつもなく心強く感じる。前年の夏に訪れた宿をリコは気に入ったらしく、誠凛高校バスケ部はゴールデンウィークの前半を利用して海辺の民宿に短期合宿に訪れているのだった。
「中三のゴールデンウィークも、海辺に合宿に行ったんです」
「へえ、そうだったのか」
「そのときのこと、思い出してました」
懐かしいなと呟く黒子の頭のてっぺんを見下ろして、よく笑うようになったなと思った。本人いわく、普段と試合で切り替えができるようになったらしい。そうはいってもまだ影は薄いし自動ドアは開いてくれないし、何を考えているのかよくわからないときもある。けれど、あ、笑った、と思うことは格段に増えた。やはり少しずつ青峰と会うようになったこと、それから進級したことの影響もあるのだろう。それに、本来の黒子はよく笑うやつだったのかなとひそかに火神はにらんでいる。
「そういや、あいつが、」
「はい?」
「ゴールデンウィークの後半は海に行くんだって自慢してきた」
メールで、と携帯を開いて黒子に受信画面を見せる。きょとんとしながら文面に目を通して、黒子はぷっと噴き出した。
「青峰くんが海行きたいってわがまま言うので、それじゃ行きましょうかってことになって」
「あいつどんだけ浮かれてんだよ……」
「メール、そっけないのにかわいいですよね」
「そんなこと言えんのおまえだけだわ」
長い付き合いだから、とまた黒子が笑った。
遠くで早くしないと昼飯食っちまうぞと日向が言うのが聞こえる。大きく返事をして、火神が一足先に走り出した。
今でも、裸足で歩いたアスファルトの冷たさを思い出せる。あのときのやさしいまなざしと、繋いだ指先も。
肩ごしに海を見てから、走る火神の背中を見る。待ってください、と呼び掛けて黒子も走り出した。
夏がすぐそこまできている。
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