あの笑顔が忘れられない。
青峰くん、おはようございます。もう九時になりますよ。
つめたい水みたいなテツの声が聞こえて、寝返りをうちながらわずかにうめいた。カーテンの隙間から入ってくる夏の日射しが目に染みる。
「……ねみぃ……」
なに言ってるんですか、昨日夜更かししたからでしょう。そろそろ起きないと、あっという間にお昼になっちゃいますよ。
わかってるけど。ねむい。まだ、もう少し、このぬるい温度のベッドから抜け出したくない。
あおみねくん。
もう一度、テツがおれの名前を呼ぶ。つめたい水みたいな、やさしい夜みたいな、おれを呼ぶテツの声がひそかにおれはすきだった。だからおれは、もうすこしテツの声を聞いていたくて起きるのを渋った。
八月十六日、午前九時六分。
空の色が、醒めるように青い。
この夏、おれは十八歳になる。
今年の夏も空は塗り込めたみたいに青くて、スイカバーは変わらない味で、テレビからは高校野球のブザーが鳴り響いて、たまに吹く風が風鈴を揺らしていった。
熱帯夜が続いている。真夏日も。ここ数日、ずっと。
クーラーの不健康な涼しさがあんまり好きじゃないから、おれは基本午前中はクーラーをつけない。午後になってどうしても我慢できなくなったらつける。といっても、部屋の中にこもっているのは性にあわないから、大体つけるのは夜だ。出掛けて汗をかいて帰ってきたら、シャワーを浴びるほうがよっぽどいい、というのがおれの小さなこだわりだった。
そんなようなことをテツに話したのは、多分最初の夏だったとおもう。
テツはおれの手を見て、だからきみは体温が高いんですかね、と言った。なんとなしに合わせてみた手のひらの温度はけっこう違っていて、テツは汗をかいていたのに手は冷たかった。
「冷房、あんまりよくないってわかってるんですけどね。暑いの嫌いだから」
「じゃあ冬のほうが好きなんだ?」
「はい。夏は嫌いです」
テツは忌々しげに太陽を見上げて言った。おれが、暑いの嫌いなのにこんな汗だくになるまでバスケすんの、といじわるな質問をすると、テツは暑いのが嫌いなよりバスケが好きなんですよ、と言って笑った。
テツの笑った顔が、おれはひそかにすごくすきだった。
中学の頃は買い食いは毎日のサイクルの一部で、おれとテツはよく二人でアイスを食べた。パピコを半分こしたり、なんとなく交互におごりあったり、今日も明日も、来週の月曜日も、きっと帰りにはふたりでアイスを食べながら歩道橋をわたるんだろうなというあいまいでしあわせな確信がそうさせた。
ゴリゴリ君もラクトアイスも、テツはとにかくソーダ味が好きだった。
どちらかというとテツは保守派というか、あんまり冒険はしないみたいだった。新商品よりは定番、期間限定よりはオーソドックス。反対におれは、新しいものがあれば食べてみたいし、期間限定なんていったらほとんど絶対買いだ。イマイチだったり、なくはないかな、というようなときもあるけど、とりあえず試してみれば予想外の当たりってこともある。
ゴリゴリ君の梨味を初めて買ったときもそうだった。
これはまちがいなく当たりだとおれが言うと、テツは明日どうするか迷っているような、今食べてみたいような、そんな顔をしておれの持つアイスバーを見ていた。
「食べる?」
「……それじゃあ、ひとくちいただきます」
さく、とテツがかじる音が、すぐ耳元で聞こえたような気がした。
「おいしい?」
「はい、すごくおいしいです!」
そのときのテツのにっこり笑った顔を、おれは多分忘れないだろう。
あおみねくん?
ぼうっとしていたらしい。テツがおれを覗きこんで言った。
「わり、意識とばしてたわ」
今日は暑いですからね。青峰くんはクーラーつけないし。
やっぱり暑かったのかな、と思っておれがテツを見上げると、テツはガラス玉みたいな目をぱちくりさせて、健康的でいいと思いますよ、とつけ加えた。
青峰くん、スイカバー買いにいきませんか。
テツが目をきらきらさせてそう言う。
外の空気は太陽に焦がされたみたいな暑さで、夏ですねえ、と隣でテツが呟いた。
じりじりと音が聞こえてくるような炎天下だった。アスファルトのすぐ上、ゆらゆらと空気が揺らめいている。
さっき出たコンビニのなかはまるで天国のようだった。残念なことにスイカバーは売り切れで、かわりにおれはテツが何度も当たりを出したソーダバーを買った。やっぱりはずれだった。
ぼくが選んだのにはずれでしたね。
どこか残念そうにテツが言った。こういうのは下心があったら絶対に当たらないものだと思う。別に当たれとか思ってねえから、なんて考えている時点でそれって下心だ。
物欲、とか。帰りたくない、とか、もうすこしだけ、とか、あと一日、とか。
どれもこれも。テツといるときは、いつだって下心にまみれている。それか、こうしたいっていう願望みたいなものに。
「どっか行きたいところある?」
えっと……それじゃ、帝光中に。
「ん、じゃ、行こ」
くるくると手のなかでアイスの棒を回しながら駅に向かう。隣のテツはあからさまではないけど、さっきよりも嬉しそうだった。テツといると、よく変な気分になっていた昔を思い出す。テツに、もっとこっちを見ていてほしい。おれのことを考えていてほしい。おれといるときに一番いい顔でわらってほしい。そういう、自分勝手な感情の押し付け。でも同時に、なにかしてあげたい、テツのためならなんでもやってやれる、おれがいなくても、ずっとわらっていてくれ。そんなふうにもおもっていた。さつきいわく、献身的だね、だそうだ。さつきがそう言ったあの日、あの日も空が真っ青だった。空に消えていく煙がまるで飛行機雲みたいだった。
「青峰くんの誕生日って、八月三十一日なんですよね」
そんなことをあらためてテツが言ったのは、おれが十六歳、テツはまだ十五歳の冬だった。冬は寒いから星がよく見える。あれは昔テツが教えてくれたからわかる、ぎょしゃ座だ。つぶれた五角形。
「なんだよ、そんな今さら」
「いや、なんとなく、青峰くんらしいなあと思って」
ずっと昔から知っていることを、なんで今口にするのかがわからなかった。ああ、でも、昔なんて言ったってまだ三年前だ。三年間。短いのにすごく長いような、長いのにすごく短いような、そんな気がした。あの三年、いま、おれたちの人生の五分の一じゃく。これからどんどん、その割合って減っていくんだなと考えたら急に、息の白さが目についた。
「夏ですねえ」
「今真冬だけどな。てか、夏、嫌いなんだろ」
うっすら浮いた汗を黒いリストバンドでぬぐいながらどこか嬉しそうなテツから目をそらしておれが言うと、テツは咄嗟になんのことかわからなかったらしい。ぱちぱちとまばたきをした。テツのくせだ、これ、ただぱちぱち何回か続けてまばたきするの。変わんないな、こういうところは。前はくるくる表情を変えるやつだったのに、今では無敵のポーカーフェイス。長く一緒にいないと、今テツがどう感じているのかは読みとれないだろう。
「前、そう言ってたじゃんか」
「ああ……そういえば」
「なんで、嬉しそうなの」
「……わかるんですね」
テツは地面を見て、くすぐったそうに言った。こういう笑いかたをテツはたまにした。やさしい感じが、おれはひそかにすきだった。こういう笑いかた、赤司が昔教えてくれた、なんて言うんだっけ。テツの表情はよく覚えているのに、テツの言葉はよく覚えているのに、それ以外はからっきしだ。
「夏、今は嫌いじゃないですよ」
「……そうなんだ」
「青峰くんは夏の申し子って感じがします」
「そうなの?」
「そうですよ」
そう言って、テツは笑った。
思い出した、ほころぶ、そう言っていた。黒子は花がほころぶように笑うな、って。夜のなかにぼうっと浮き出したみたいに色白なテツ。きれいだな、そう思った。テツの笑った顔をきれいだと思ったのはあのときがはじめてだった。
だからおれは、なんだか慌てて、ごまかすようにテツもあと一ヶ月ちょっとで誕生日じゃんと言った。テツは、年下期間もあとちょっとですねとふざけて応えた。
改札を抜けて電光掲示板を見ると、急行が来るのは十五分後だった。
おれの最寄り駅には急行が止まるけど、テツの最寄りは各駅停車しか止まらない。とはいっても一駅しか違わないから、中学のころは二人で各駅に乗って、テツと一緒に降りて、それからおれはぶらぶらと歩いて家に帰るのが毎日だった。
各駅でもいいですか。
遠い目をしたテツがそういうから、おれは黙ったまま頷いた。
「家、寄ってから行くか?」
大丈夫です。十三日に、ちゃんと行ってきたから。
「そっか」
時刻表通りに電車はやってきて、まばらな人の六両目におれとテツは乗り込んだ。
ガタンガタンと、正午過ぎの電車は音を立てながら今ではもう懐かしく感じる景色の中を走り抜けていく。
帝光の体育館には、おれの名前を出せばあっさり入れてもらえた。おれのころもいた体育教師は言葉につまりながら、第四は今使ってないから、いつまででもいていいからな、と言った。すこし涙ぐみながら戻った教師の背中に向かってテツは深々と頭を下げた。
ああ、懐かしい……今もあんまり使う人いないんですね、ここ。
テツはぱたぱたと、足音が立ちそうなかろやかさでゴールの下へと走っていった。
青峰くん、ダンクしてください!
「言うと思った」
おれはしまい忘れられたボールを拾って、何度か動かずにドリブルをしてから加速、一直線に駆けて飛び、ボールをリングに叩きこんだ。テツは小さく歓声をあげた。おれができる一番いいシュートを見せてやりたくて、おれは何度もシュートを放った。
「満足した?」
もう何回きめたかわからなくなったころ、おれがテツに聞くと、テツは満足すぎるくらいに、と言って目を輝かせた。
赤司に表情を消すように言われてから、テツの表情の変化はたしかに乏しくなった。でもこの目だけは、最初から変わらないまま、今になっても、テツの感情を物語る。ここも変わんないんだなと安心する。
ぼく。
「ん?」
本当に第四体育館の幽霊になっちゃったんですね。
テツが、無理矢理につくった笑顔で言った。その空元気な声が刺さって、おれはなにも言えなかった。テツはそんなおれをまっすぐ見つめて、すこし笑って、すこし泣きそうな顔で、もっときみを見ていたかった、と言った。
さっきまで気にならなかった蝉の声が鳴り響いて、やけに大きく聞こえる。くらくらする。
この夏、おれは十八歳になる。
去年の夏、まだおれが十六だった八月のあたま、テツの歳は十六で止まった。
あっけなく。
うそみたいに。
ニュースにも新聞にも取り上げられない、毎日どこかで起きる事故の、たまに不運にも命を落とす人のひとりとして、テツはあっさりと死んじまった。
交通事故だった。
信じられなかった。
幽霊みたいに影が薄いなんて、そんな風に言われるから、そういううそだと思った。
電話を受けた午前十時の玄関の、あのときの蝉の声が耳にこびりついて離れない。
ぐわんぐわんと頭のなかで響いているようで、切れた電話のツー、ツー、という音と蝉の鳴き声だけが世界のすべてになってしまったようで、目がくらんで、なぜだか、夏の申し子って感じがします、と言ったあのときのテツの声だけがうるさい世界のなかでクリアに聞こえた。
それから葬式までの数日間、空はばかみたいに青かった。
青くて、夏の青空の色が目に焼き付くようで、テツの好きだった制服の薄い水色がかき消されそうだった、そんな夏の日。
もう、テツにあえない。
二度と。
こんなに覚えているのに。
今でもあの笑顔を思い出せるのに。
前の日、偶然会ったテツの、入道雲をさしたひとさし指の白さを、今でもはっきり思い出せるのに。
受けとめるために、まる二日、部屋の窓もカーテンも閉めきって家に閉じこもった。
なあ、テツ、嘘ですよって言ってくれよ。
頼むから、テツを連れていかないでくれ。
パソコンの液晶に映ったおれはひどい顔をしていた。二日後、クーラーのガンガンにかかった部屋で、おれはやっと泣けた。
それだったのに。
あのときのきみの顔はなかなかに間抜けでした。
「テツにだけは言われたくねーよ!」
ごめんなさい、でも、ぼくも嬉しくて。
そう言ってはにかむテツはいま、確かにおれの目の前にいる。他人には見えていないけど、おれには確かに見えている。
去年もそうだった。
八月の十三日、玄関先で迎え火をした。それは毎年の恒例で、かといっておれのじいちゃんもばあちゃんも両方元気だし、とくにその意味なんて考えたことはなかった。
それでも、心の奥底で、テツきてくんねえかな、と思っていたのかもしれない。
眠れなくて、ふらっと出た玄関。門の隣で、テツが塀に寄りかかっていた。
「…………テツ?」
信じられなくて夢だろうと思って、それでもとかけた声は思ったよりしっかりしていた。テツはおおげさにびくっとして、ばっと頭を上げて、目を見開いておれを見た。
「テツ? おれ夢みてる?」
ふるふると首を振って、テツはうつむいた。泣きそうなのをこらえてるのかな、とぼんやり思った。テツはいつだって、涙を見せたがらなかったから。
あおみねくん。
テツの声は震えていた。その瞬間、なにかが突き刺さったみたいに鼻が痛くなった。
八月の十三日から十六日を、盂蘭盆というらしい。テツが教えてくれた。迎え火をたどってこうしてこられたけどこの四日間だけ、十六日の夕方には送り火に背中を押されて帰らなければいけない、と言っていた。
去年の八月十六日、ちょうど一年前、テツはよくふたりでバスケをしたコートでさようならと言った。また来年、とおれは言ったけど、テツはあいまいに笑ってはぐらかしやがった。
「やっぱり今年も会えたじゃんかよ」
それはそうなんですけど、まあ、予想外だったというか。
テツはあかるい調子で言ったけど、ああこいつ無理してんなとおれにはわかった。
いま、去年と同じあのコートで、テツは夕日を背にして立っている。溶けだしたオレンジを背景にしてフェンスの緑がくっきりと浮き出している。
自宅には行きました。みんなのところにも。黄瀬くんたちのところにも。誰も見えなかった。
寂しいのかな、と思った。それはそうだ、本当におれ以外の誰にも、気付かれなくなってしまったのだから。
でもそれがあたりまえなんですよ。
「……おれはふつうじゃないって?」
というか。
青峰くんは、青峰くんだけは、あのころもいまも、ぼくを見つけてしまうから。だからせつないんです。
テツはくるりとフェンスのほうを向いてしまったから、どんな顔をして話しているのかはわからなくて、でもそれがテツの本心なんだということはよくわかった。
「また来年も、十三日になれば会えるって」
そうだろ、と言っても、テツはなにも言わなかった。それで急に不安になって、だけど、三百六十五分の四日だけだとしても、去年も今年も、こうしてテツに会えてるじゃないか、だからきっと来年も。
人間は忘れていくいきものなんですよ、とテツは振り返って言った。そうやって、生きていくものなんです。だんだんとおぼろげになっていって、そのうち、ああこんなこともあったねってやっと思い出すようになっていくものなんですよ。
「おれはテツを忘れない!」
それをせつなげに、と言うのなら、テツはせつなげに笑っていた。思い返せば、いつだってテツの横顔はどこかせつなそうだった。
ぼくがあの夏にきみを閉じこめてしまった。ぼくのこと、忘れてくれていいんですよ?
「テツ、おれは、」
テツに向かって手を伸ばす。でも右手はするりとその身体をすり抜けて、テツは困ったみたいな顔で小さく笑った。
ぼく、死んじゃったんです。ごめんなさい。
「なんだよそれ、わかってるよ、でも、」
今年もぼくが見えるなんて思わなかったんです。今年になったら、もうきみには見えないと思ってたんです。
「ちゃんと見えてるだろ、テツはここにいるだろ、」
ぼくはもう、ただの蜃気楼とか陽炎とか、そういうものとおんなじなんですよ。もうここにいない。
「でも、おれがちゃんと見てる、夏だけでも、八月だけでも、テツがここにいるって、おれだけはわかってる!」
テツは何も言わなかった。ただ、さっきと同じように笑っていた。
さようなら、しましょうか。
あおみねくん。
あの笑顔が忘れられない。
テツがまだ表情豊かだったあのころ、テツはほんとうに嬉しそうに、楽しそうに、しあわせそうに笑った。あの笑顔が、おれはほんとうにすごくすきだった。だからテツがあんまり笑わなくなったのが寂しくて、おれには前みたいに笑ってくれればいいのに、と何度も思ってそのたびにちょっといじけた。
あいつが泣くのはいつもおまえのことだろ、と火神に言われたことがある。それにこどもっぽい満足感を覚えなかったわけじゃないけど、でも、やっぱりテツは笑ってるほうがいいなと思った。おれが泣かせてるってことを反省もした。
すきだった。
テツのことが、テツにはいつだってしあわせでいてほしいと思うくらいには、すきだった。別になにかをしたいわけじゃなくて、なにかを変えたいわけじゃなくて、ただ、これからもずっと、友達として、この関係が続いていけばいいと願っていた。
すきだったんだ。大切だったんだ。
まわりになにを言われても、正反対のふたりだと言われても。おれもテツも、バスケ以外はまったくあわないななんて言ったって、それだけがすべてなわけないのに。
好きなアイスも、好きな色も、ほかにも、探そうとすればいくらだって、おなじところが見つかったはずなんだ。
得意なことも、趣味も、違っていたこともたくさんあって、だけどそのぶん、テツがどんなことを思ってるとか感じているとか知りたいと思えたんだ。
なんでもっと大事にしなかったんだろう。
なんでもっと、一日の半分以上をおなじ空間で過ごしていたあのころを、大切に過ごさなかったんだろう。なんでもっとテツの言葉をちゃんと聞こうとしなかったんだろう。なんでもっとテツのひとつひとつのしぐさを覚えておこうとしなかったんだろう。いなくなるなんて。死んじゃうなんて思わなかったんだ。
後悔ばかりをしている。あの日から。あの夏の、通話をボタンひとつで切ったあの日の、午前十時から。後悔ばかりして、抜け出せない、テツが入道雲を指さした、あの夏から。
ちょっと言いすぎましたね。
テツはごめんなさいと小さく呟いた。わけがわからなかった。
忘れなくていいです、いや、そうじゃなくて、ぼくを忘れないでください。ぼくが、ぼくという人間が、ここにいたこと、ちゃんと生きていたこと、どうか忘れないで。でもそれは、そういう、青峰くんが自分自身を責めるみたいなのじゃなくて、夏になったら懐かしいなってそういうふうに思い出してほしい。
きみをここに閉じこめたくないんです。
まっすぐおれを見つめるテツの目が、夕日の色を映してオレンジに染まる。きれいだった。いつだって、テツの目は、その指先は、横顔はきれいだった。曲がったことが嫌いで、誠実で、一生懸命で、まっすぐな生き方。とてもきれいな生き方だった。
さっきより日が沈んでいる。それでも、まだ八月の空はあかるい。夕焼けがにじむ。
そろそろ行かなきゃ、とテツがうつむいて言った。
ああ、もし、これがほんとうにさいごなら。おれはちゃんと笑えているだろうか。
「テツ」
青峰くん。
「おれ、テツの笑った顔、すげえすきだったんだぜ」
テツはぽかんと口をあけて、おおきな目を見開いておれを見た。
「ははっ、まぬけな顔」
……っ、青峰くんには、言われたくないです、
「おれ、テツにはずっと笑っててほしいって思ってたんだ」
知らなかっただろ、と言うとテツは、青峰くんこそ、ぼくがそう思ってたって知らなかったでしょ、と言った。
青峰くん、今までありがとう。どうかしあわせに。
あおみねくんのこと、すきだったんですよ。
そう言ってテツは、十三のあの夏みたいに、出会ったころみたいに、それよりももっとしあわせそうに、おれのだいすきだった笑いかたで笑った。
遠くで六時の鐘が鳴る。蝉の声も、車のエンジン音も、家に帰るこどもの声もみんな消えて、テツがつぶやいた声だけがクリアに聞こえた。
「おれこそ、テツがいなかったらいまのおれはいなかったって、ほんとうに思ってる。ありがとな、ほんとにテツのこと、大事に思ってたんだ」
テツはだまったままうなずいた。夕日で顔は赤くなって、照れたみたいに、テツはおれをみつめていた。
さようなら。
おれの前に立って、テツが言う。
「さよなら」
いままで何度もちゃんと言えなかった言葉を言う。テツがもう一度見たいと言ってくれた笑顔で。にっこりと、もう思い残すことはないとでも言うように、笑顔のままのテツはおれの腰に抱きつくみたいにして、そのままおれの身体を通り抜けた。
一瞬のあいだに、テツと過ごしたいままでの時間が、ばらばらになってぐちゃぐちゃの順番でフラッシュバックした。
振り返ると、もうそこにはテツはいなかった。
音が帰ってくる。蝉の声も、こどもを呼ぶ母親の声も。
いつもと変わらない、テツのいない、おれの日常。なにかが消えて、なにかが残った世界。
いまはもういないけど、どんなときもしあわせでいてほしいと願う、大切な友達がいた。
たった四日間の、炎天下がみせたまぼろし。
きみがすきでした。
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