『3月9日
ついにきっぱりとテツくんにフラれてしまいました』
彼がひとりで住んでいるマンションに行く途中、大通りにあるコンビニで缶チューハイのロングを買った。さっぱりとした飲み口の、グレープフルーツとライムの二種類だ。自分の好きなグレープフルーツを二本と、彼が好きなライムを三本。本数については特に何も言われていなかったのだけれど、きっと買った本数イコール飲んだ本数になることを見越して少なめにしておいた。もし足りなければまたふらりと買いに出ればいいし、それに今日はそこまで速いペースではないのではないか。そんなことを考えながらレジで値段を聞く。千円札と五円玉。いつかのおつりで手に入れたぴかぴかの五円玉が、店員の手のひらの上できらりと光る。
明後日。
今日が終わって明日が過ぎて、そうしたら、青峰くんと桃井さんが結婚する。
インターホンを押すとどたどたと足音が聞こえて、それからドアが勢いよく開かれた。
「待ってた」
「お待たせしました」
それからぺこりと頭を下げて、いつものようにお邪魔しますと言って玄関に入る。
「買ってきましたよ」
きみの好きなやつ、そうレジ袋を差し出すと、青峰くんはサンキュと嬉しそうに言ってから袋の中身を覗いた。
「五本」
「はい」
「もっと買ってくればよかったのに」
「どうせ明日も飲むんだから、今日飲みすぎたらだめでしょう」
「そりゃそうだけど」
まあテツの言う通りだなとひとり頷いてからリビングの扉を開け、青峰くんは買ってきたお酒を冷蔵庫に入れるために少し姿を消した。
青峰くんの部屋でふたりで飲む習慣は、大学のころから始まり不定期で続いている。メールだったり電話だったりで連絡を取りあい、時折ふらりと日付を決めて過ごす夜。何をするかは毎回違っていて、ただ話したりDVDを見たり、一言ふたこと交わしただけであとはずっとただ並んで日本酒を飲んでいたこともあった。
上等のものが手に入ったからというとき以外は大抵、マンションに向かうまでのコンビニで適当なものを調達する。最初のころは僕がもっていた代金はそれからしばらく経って青峰くんが持つようになり、それがなんだか申し訳なくて半分は出しますと言った僕に彼が放った「半分じゃおまえ、元取れねえだろ」という言葉を皮切りに大戦争勃発。周囲を大々的に巻き込んでそれはもう熾烈な戦いを繰り広げ、最終的には代金の大きさにかかわらず交互にもつということで合意し講和条約を結んだ。僕がそんなに怒るのが珍しいと仲介に駆り出された面々が揃いも揃って不思議そうに首をひねるものだから、僕は元が取りたくて青峰くんと一緒に飲んでいるわけじゃありませんから、と彼をまっすぐ見つめて言ったような気がする。ささやかな反撃は思いの外効果抜群で、みんなに批難されてめずらしくしゅんとした青峰くんの姿に少し悪いことをしたような気分になったのも今ではいい思い出だ。
「テツーそのへん座っててー」
少し間延びした青峰くんの声に、はあいと返事をしてからソファーに腰をおろした。ひとり暮らしの青峰くんに対して桃井さんは実家住まいだから、結婚してしばらくはここにふたりで住むのだろう。少し増えたスリッパ、少しずつ増えた食器。前々回あたりに来たときにひょっこりと食器棚を覗いて気付いたその変化に、ああほんとうにふたりが結婚するんだなあと妙に感動したことを覚えている。
「とりあえず一本」
そうしているうちに嬉しそうな青峰くんが、僕が買ってきたものではない、三百五十ミリリットルの缶とクラッカーを持ってきた。
「買っておいてくれたんですか」
「テツのが冷えるまでのつなぎにな」
ほら、と手渡される缶の重み。昔はスポーツドリンクだったのになあ、と思うとなんだかおもしろかった。
「ほんとうにあんなのでよかったんですか?」
「酒?」
「はい」
せっかくのお祝いなのに。いつもみたいなのがいいと言ったのは青峰くんだから気にすることはないのだろうとは思うものの、やっぱり少し気が引ける。歩調にあわせてカランカランぶつかり合う缶がたてるリズミカルな音を聞きながら、そんなことをここに来るまでも考えていた。
「いいんだよ、どーせ明日はそれなりのだし。黄瀬あたりに高いの買わせりゃいーだろ」
「でも……」
「テーツ」
「……それもそうですね」
「だろ?」
降参とばかりに首を振りながら言う、すると見せた笑顔はいくつになっても変わらないなと思う。それにもし彼に何も言われず自分で選ぶとなっていたとしても、たいしたものは用意できなかっただろう。唐突に今日、会うことになったのだから。
桃井さんから電話がかかってきたのはおとといの夕方、「どうせなら式の前の前の日にふたりだけで飲んでおいでよ」と言われた。もとは外国の習慣だという、式前日の夜の男友達だけの結婚祝いパーティー(という名の飲み会)を開くことはずいぶん前から決まっていた。だから、数分でいい、そのときになにかしら話せればいいなとは思っていたのだけど。ふたりで話したいこととかもあるでしょう、それに他の人達もいたらうるさくってきっととても落ち着いて話したりなんてできないよ。桃井さんの言葉はとても魅力的で、ああもしふたりで最後にゆっくり話したりできたらいいなあ、と頷きそうになるのに十分だった。それでもわざわざ忙しいだろうときに時間を割かせるのは迷惑なのではという建前を総動員させて少し黙ると、大ちゃんに電話したらすごい嬉しそうにしてたよ、とすかさず退路は封鎖される。良い意味で策士な彼女はきっと僕が素直に頷かないことまでお見通しだったに違いない。桃井さんにそう言われてしまえば断る理由なんてもうどこにもなかった。
電話を切ったあと、ふわふわとした気持ちで別の番号を呼び出した。自分の声がいつもよりも数割り増しで弾んでいるのは自分でもわかっていて、そうしたら案の定、回線の向こうの青峰くんに声がにやついてると笑われた。そう言う青峰くんも同じくらい嬉しそうだった。
「かわいそうな黄瀬くん」
いっぱい買わされて破産しちゃいますね。そう茶化して言うとあいつもザルだから自業自得、と笑った。
缶のプルトップを引く。
「結婚おめでとう、青峰くん」
「ありがとう」
空気に触れた炭酸の弾ける音すら、どこか景気よく響く。
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