光
目を閉じて夜の風を大きく吸い込む。縄の軋む音、からだの奥が置き去りになるような嫌な浮遊感、空気を求めてあえぐ、苦しい。そして目を開けると、正面にバデーニさんがいた。隣にいたはずなのに。首にも手にも縄はない。空を見上げていたバデーニさんが振り返り、柔らかく微笑む。スカプラリオに両手を突っ込んだ、見慣れた姿のまま。
ああ、これは願望だ。俺の願望。もっとバデーニさんと話しておけば良かったと最期に思ったから、バデーニさんの姿を勝手に見ているんだ。だって、こんなふうに微笑んだところなんて、見たことがないんだから。
なんて身勝手なんだろう。バデーニさん、と呼び掛けていいのかわからない。そもそもここはなんなのか。天界、それか地獄に向かう途中の狭間にこんな場所があるなんて、これまで聞いたことがない。バデーニさんも言っていなかった。それか、塔の夢のような。まだ死んでいない俺が見る、ただのまぼろし。
「察しがいいな」
声には出していないのに、そう答えが返ってくる。俺が勝手に見ているものだから、俺の考えていることはなんでもわかるのかもしれない。
「きみは、あるいは私は、もう死ぬ。その手前のわずかな時間を、ときに人は認識する」
「あの……どうしてバデーニさんの姿を」
今度は声に出してみる。いや、そう思っているだけかも。
「その答えはきみの中にしかない」
「え?」
「そしてきみはそれを知らないんだろうな」
まぼろしは、そしてただ微笑んだ。言われてみれば、それもそうか。これが本当に本人なら、聞くことも話すこともできるのに。そのことがただ、惜しい。
「塔の夢の話、しておけばよかったな」
「そうすれば私は答えただろうな」
「そうですね」
知らないことはわからない。バデーニさんだったらなんて言っただろう、ということ。そして俺がそれを知ることはないまま、その機会は永遠にうしなわれてしまった。
「歩こうか。もう少しこの星空を見ていたい」
目に焼き付けた空をまだ見ていられるのは嬉しい。まぼろしのあとをついて歩く。子どもの頃はなんということもなかった、かつては恐ろしかった夜空。それをいまは、確かな喜びと感動とともに見上げている。
まぼろしは、バデーニさんが教えてくれた星空の話を繰り返しながら歩いていく。うたうようなその声に引っ張られるように、バデーニさんと、ヨレンタさんと、ピャスト伯と、交わしたいくつもの会話を思い出す。ヨレンタさんは丁寧に文字を書くひとだった。たどたどしい俺の字を、どこか嬉しそうに眺めては根気強くいろいろなことを教えてくれた。文字には性格が表れるんです、と言ったヨレンタさん。俺がよく知る字はグラスさんとヨレンタさん、それからバデーニさんのものくらいだけど、確かに三者三様の筆跡にその人「らしさ」が見えるというのはなんとなくわかるなと、あのとき思ったのだっけ。
バデーニさんの文字。俺が見たのは、右上がりに踊るように流れるように続いていく難解な数式。どこか刺繍の模様のようにも思える不思議なうつくしさがあった。あのうつくしいものを、星を差す指先がどのように書いていたのか間近で目にする機会は、ついぞなかったな。それに、バデーニさんは結局、書きたかった手紙をちゃんと書くことはできたんだろうか。書けたとして、その相手には。
ふと見上げた満天の星空に、満月が浮かんでいる。ちょうどあの夜のような月だ。今夜は、というかさっきまでは、出ていなかったはずなのに。それに、こんな明るい月の日は星が光で隠れてしまうのに、なぜだかあの夜の月と、さっきまで見上げていた星空が共存している。あの日のことを思ったから月が出たのかも。だとしたら、ああ、随分と自分に都合のいい夢だな。
本当は、バデーニさんをちゃんと逃がしてあげられたらよかった。俺がもっと時間稼ぎをできていたら。それか、あのときあのまま死んでいたら。そうしたら、バデーニさんの苦痛は少しでも和らいだだろうか。いやでも、考えたところで結果はわからない。もしやり直すなら、きっともっと前の時点でどうにかすべきだった。
それに、バデーニさんと俺が処刑されて、石箱も資料も見つかって、ヨレンタさんにまで手が及ぶこともないはず。だって、証拠は全て明らかになって、そこには何もないのだから。大丈夫なはずだ。ヨレンタさんには、元気で幸せでいてほしい。そしていつか、夢を叶える日がきてほしい。
未練と不安と、あのときこうしておけば何かが違ったんじゃないかという後悔ばかりが残っている。それでもやっぱり、俺自身の選択そのものについては、さほど後悔はない。やりたいと思ったことをやったから。
先を行くまぼろしの足が止まる。くるりと振り返り、じっと見つめられる。右目はいつもどおり、眼帯に覆われている。そのことに安堵する。ずっと俺に見せていたその姿が、俺にとってのバデーニさんだから。勝手にその像をねじ曲げることはしないという自制くらいはちゃんと働いていて、よかった。いや、そもそも、まぼろしを自分勝手に見ている時点で、という話だけど。
「叶うなら何が一番したかった?」
バデーニさんとしたかったこと。なんだろう。
「あの、手を」
「手?」
考える前に口から言葉が飛び出していた。まぼろしも不思議そうに首をかしげている。
「手を、見てみたかった、かも」
「なんだ、そんなことだったのか」
そう言ってまぼろしが、なんでもないことのようにすっと右手を差し出した。指先が光っている。よく見えない。当たり前だ、まじまじとその手を見たことなんてないんだから。知らないことはわからない。わからないものは想像しかできない。あるいは、わからないものをわからないままにしておくことのほうが、ものの見方として正しいのかも。研究者たちなら、なんと言っただろうか。
「触れてみるか? きっと彼もそれを許しただろう」
「いや、どうでしょうね」
苦笑い。一定の距離を保つように、と言っていたバデーニさん。あれから随分と遠いところまできた。俺の本を残してくれたのは、どうしてだったんだろう。残すってどうやって。そもそもどんな心境の変化が。もっと色々と聞きたいことがあった。死ぬ間際でようやく追い付いてきた未練。もっとバデーニさん自身の話を聞いてみたかったな。
差し出された右手。そこへ一度は伸ばしかけた手を、やっぱり留める。その一連の動きを、まぼろしはじっと見つめている。
「やっぱりやめておきます」
「まぼろしに遠慮するなんて律儀だな。誰に知られることでもないのに」
「でも、俺は知っています。知ってしまった。こういうものを見る自分の勝手さを。だからせめて、バデーニさんに言えないことはしたくない」
「もう死ぬのに?」
「もう死ぬけど」
その手の温度も、軌道を描く指先も、そこから生み出される文字も言葉も。もし許されるなら触れてみたかった。生きているバデーニさんに。もっといろんな話がしたかった。生きている、バデーニさんと。俺が勝手に作り出すまぼろし相手ではなくて。
「天界が本当にあるなら、そこでまたバデーニさんを探して、ご本人にお願いしてみます」
「そうか」
きみらしいな。そう呟いて、まぼろしはやわらかく微笑んだ。さあ、もう行きなさい。その言葉に背中を押されるように、まぼろしに背を向けてもう一度空を見上げる。この夢の話、バデーニさんに話したら怒られそう。いや、通り越して馬鹿馬鹿しいと呆れられるかも。そもそも、バデーニさんはさておき、俺が行く先が天界である保証はない。まあいいか、天界ならバデーニさんもいるはずだし、そうでないとして、そこにバデーニさんがいなければ、バデーニさんは天界へ行けたということだし。
「ありがとうございました」
この期に及んでまだ知りたいことがある。そのことになんだか愉快な気持ちになりつつ振り返る。けれど、まぼろしの姿はもうそこにはなく、ただよく見慣れたあの納屋の周りの景色だけが広がっていた。
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