「赤司君」
そう言って呼び止めた黒子の声は、思い詰めたような諦めたような、そんなピンと張ったピアノ線のような声だった。
「バスケ部を退部します」
「そう」
差し出したB5の紙がぺらりと音を立てて、それからへにゃりとしな垂れる。所定の用紙には部活名、学年、クラス、出席番号、名前、日付だけがボールペンで丁寧に書かれていた。サイズの割に、いやサイズに合ってと言うべきか、書かれる項目は少ない。練習皆勤だろうが幽霊部員だろうが、手を切るために必要なものは同じ。目立つ余白が、この空虚さを示しているのかもしれないなと思った。
「受け取ったほうがいいかな?」
「それは、勿論」
「じゃあ受け取るよ」
図書室を少し過ぎた廊下、遠いグラウンドの喧騒。なんでもないことのような滑らかな会話。黒子にとってこれは重い意味を持つはずなのに、いとも簡単に手続きは終わっていく。あとはこれを顧問に渡すだけだ。几帳面な性格の滲む彼の文字。少しの間視線を落とし、どうしようかと所在なく手のなかでもてあそぶ。そんな自分を黙ったまま見つめる透明な瞳。相変わらず硝子玉のようだと思った。
「他になにか?」
「いえ」
「気になることは口に出したほうがいい」
「……止められると思っていました」
「黒子は止めてほしかったのか?」
「そうではないですが」
逆接のその先を、彼は口にはしなかった。主体性が無さそうに見えてその実全く真逆、頑固な黒子が他人の説得で意見を変えることなどないだろう。考えなしに自分を構成する一部ともいえるものを取り落としてしまう浅はかさを彼は持ってはいない。
「ならいいじゃないか」
「……そうですね」
表情はほとんど変わらず、声の調子から感情がわずかに覗く。今の黒子の心情を一番表す言葉は拍子抜けだろう。予想外ということ。愉快な気持ちになる。
「理由は?」
「言わなければなりませんか」
「別に構わないよ」
そう言って少し笑った。他愛もない言葉遊びに過ぎないような会話。別に答えを期待しているわけではないのだ。聞こうとは思っていないし、聞く必要もない。こうなるだろうということは、ずっと前から知っていたのだから。
特に話すことはなかった。が、もう少しこの上辺だけをなぞるようなことをするのもいいかもしれないと思った。手元の退部届を一瞥する。立ち話を続けるにはこの紙は邪魔だったから、とりあえず半分に折った。角と角を合わせて丁寧に。その拍子に、これを折り紙に見立てて何か折ってみようかという不真面目な考えがむっくりと首をもたげてくる。しかしそんな誘惑はやりすごして、一瞬逡巡してから持っていた文庫本を開いた。適当に開いたページの適当な一文。あまりの的確さに思わず笑みが零れた。
「鴎外ですか」
「ああ」
ぱたんと閉じた本の表紙を見ての問い掛けに首肯する。
「黒子は前期と後期どちらのほうが好き」
「うーん……ボクは後期でしょうか」
「だろうな」
「赤司君は前期のほうが好きなんですか」
「美学があっていいじゃないか」
「赤司君って意外とポエマーですよね」
「そうかな」
「そうですよ」
淡々と交わす言葉の応酬。その合間に黒子がくすりと笑った。ごく近しい者にしか見せない穏やかな表情。それを自分に見せるということに優越感を感じる。
「勝利には絶対的に美学が必要だからね」
けれどその笑顔は、「勝利」という単語に反応して凍りついた。そして瞬時にポーカーフェイスの仮面を取り戻して、改まって会釈をする。
「いろいろ教えていただいてありがとうございました」
その声はどこか、硬く。
「高校ではまたやるのか」
「先のことはわかりません。その時になってみないと」
「黒子らしいな」
ああ、もうさっきみたいには笑わないんだろうか。その頑なさを愛おしく思う。反抗期の子供を見守るような、そんな気分。
「わかった、顧問には俺から伝えておこう」
「よろしくお願いします」
もう一度ぺこりと頭を下げ、それから彼はゆっくりと踵を返した。何かをそっくり削ぎ落としたような表情で。それを窓に寄り掛かりながら見送る。意味もなく、手遊びのようにページをぱらぱらと捲った。
「……足の糸は解くに由なし、か」
口のなかで呟いて、それから名前で黒子を呼び止めた。半身のみを向けた彼は心持ち首を傾げてこちらを見る。
「家のサボテンが随分大きくなってきてね」
「はあ」
怪訝そうに眉をひそめた。それもそうだろうと内心おもしろがりながら言葉を継ぐ。
「植え替えの頃合いがいつか知っているかい?」
「さあ……サボテンを育てたことがないので。いつなんですか?」
「鉢より大きくなったときだ。黒子も育ててみるといい。なかなかに愛着が沸く」
すると黒子は真意を計ろうとするように目を細めて、それから考えておきますと言った。回答が満足のいくものだったから、ひらりと手を振って歩き出した。聞こえてきた足音から、黒子も遠ざかっているとわかった。
(ばかだなあ)
自然なリズムで軽快に歩きながら考える。壊れていくものに気付いていながら何もしない。できない。多分他の皆には何も言わないで一人で決めたのだろう。退部が彼らに伝わったら、どんな反応を見せるだろうか。多分緑間と紫原は何も言わない。黄瀬は泣くかもしれない。青峰はおそらく平静を装って、けれど一番動揺するだろう。自問したところで答えはわからない。自分たちで招いたことなのに。あるいはわかったところでどうすることもできない。自分たちで招いたことだから。
彼らの才能には、中学生というこの箱庭は小さすぎる。
(それでも、ここにいればしあわせなままでいられるのに)
それを望まないとわかっている。だからこそ彼らは「キセキの世代」たりうるのだ。進化の代わりに停滞を望むのならその程度ということ。圧倒的な力を手にしてなお、まだ上を目指そうと心の深層で焔を燻らせている。彼らはもっと強くなるべきだ。成長の上限には程遠い。それ故の稀代の最高傑作。つくりだしたのは、とある一人の作為。
より広い箱庭が必要だ。壊れにくく壊されにくい駒も。
いずれ六人はばらばらになるだろう。そして敵になる。正面から激突して、限界を壊していけばいい。味方でいるよりも敵でいたほうがメリットがある。これから先は。
「植え替えの最適期は春だったな」
呟いて微笑んだ。今よりも大きな鉢で、今よりも成長して花を咲かせるのが楽しみだ。
窓の外は珍しく強い風が吹いている。立ち止まって窓を開けた。夏の名残のような熱を孕んだ風が吹き込む。文庫本から一枚の紙を取り出した。こんなもの、形ばかりで意味などない。口頭であっても自分が顧問に告げれば良いだけの話だ。みるみるうちに一番シンプルなタイプの紙飛行機ができあがる。
彼は絶対にバスケをやめない。それは確信すら飛び越えた、ひとつの真実だった。今のままではこれ以上の成長はない。だから、環境を変える必要がある。
それでも。
「最後はちゃんと戻ってくるんだよ、テツヤ」
すいと紙飛行機から手を離せば、風がさらってどこかへ運んでいった。
最後の六ヶ月が始まる。
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