普段はかなりの確率で英語の授業の間は寝ているし、電子辞書のキーボードを叩いてみようと思うこともなく、ましてや一つの意味を知っている言葉であってもそれ以上の何かを調べてみようという殊勝な心掛けをしているわけでもない。だからそのときにたまたま起きていて、らしくもなく熟語の説明にまで全て目を通したというのはかなりの奇跡だったのではないだろうか。年頃の男子高校生らしく当然のようにその熟語の意味に反応して、でもすぐにそういった不埒な妄想は跡形もなく吹き飛んでいった。思い出したのは好きで好きでたまらない、でも絶対に明確な意図を持っては触れることのできないひとのこと。その笑顔を思い出す。いま、前進も後退もなにもできない、とんでもない行き止まりの迷路の中で、恋に似たなにかをしている。
おまえ俺に触んな、と言われたとき、ぐらりと世界が傾いた気がした。その頃にはもうとっくに自分が彼に熱をあげていることくらいわかっていたし、それが友達という枠を大幅に越えてしまっていることにも気付いていた。迷ったものの一度結論部分に辿り着いてしまえば意外と開き直れてしまって、それからはずいぶん気持ちが楽になった。もちろん彼には気付かれないように。普通なら気持ち悪いと思われるだろうと思ったから。そうやってなんでもないふうに振る舞ってきたつもりだったけれど、ばれてしまっていたんだろうか。でもそれも無理ないかもしれない。もう自分でも境界線がわからなくなってきていた。嫌われたら生きていけへんかも、なんてへらへら笑いながら考えていたけれど、なかば冗談のようなそれが急に現実味を伴って身に迫ってくる。ブレーカーが落ちたみたいに真っ暗な頭の中で、ああ自分は本気で奥村くんが好きやったんやなあ、と思って場違いな安心。きっちり終わらせるために、致命傷を負うために一応、俺なにかした、と聞き返す。その声に滲んでいたのは、多分かなしみよりも諦めだった。
「そうじゃなくて」
まるで苦しんでいるような、無理矢理絞り出したようなその声色に、あれ、と違和感を覚えたのが分岐点だったのかもしれない。いや、そもそもそれ以前のはなしだったのか。
「えっと……それじゃあどういうわけなん?言うてくれへんとわからんよ」
「……駄目なんだ、とにかく……ごめん、ほんとごめん、俺が……おかしいから」
後から聞いた話によると、このとき自分はずっと困ったように笑っていたそうだ。
とにかく、そう言ったきり俯いて両手で顔を覆った彼に、かけられる言葉なんてあるはずもなく。おかしいのは自分のほうなのに、どうしてこんなことになっているんだろう。ともすればもやもやした思考の中から首をもたげてきそうな期待を必死に押さえ込もうとしていた。そんなわけあるはずがないと。こちらを見ないまま、再び口を開く。
「気持ち悪いって言って」
「――え」
耳を疑った。彼はなおも言葉を続ける。
「頼む、触るなって、気持ち悪いって、俺のこと嫌いだって言って――好き、なんだ、どうしようもないくらい、志摩が……だから頼む、ごめん、お願いだから――」
悲鳴のような声。まるで金縛りにあったみたいに動かない身体。両手を握りしめる。奥村くんが小さく頭を振った。
もし、あのとき。
あのとき、有無を言わさずに抱きしめていたら、どうなっていたんだろう。どうにかなっていたんだろうか。
「おっくむーらくーん!」
「なんだ志摩か」
「えっ、なんだってひどない?」
見かけた後ろ姿に向かって名前を呼んで駆け寄ると、振り返った奥村くんが肩ごしに笑った。その背中を叩きたい衝動に駆られる。でも思い止まって、伸ばしかけた手を引っ込めた。
追い付いて、並んで歩く。いつもならどちらからともなく何か言って自然と会話になるのに、今日は奥村くんは何も言わない。妙に重い空気。何か言わなければ。そう思うのに、口の中を空回る言葉はそれより先には出てこない。
「……」
「……」
奥村くんがもう何度目になるかわからない小さなあくびをした。授業中どんなに眠っていても普段はすることはなかったのに、いつからか絶えなくなったあくび。
嫌な予感がした。
この際もうなんでもいいやと思ってしょうもないことでもとりあえず口に出す。クラスメイトの珍解答、間違えて授業のない教室に入ってきてしまった教師、意外と秀逸だった書き間違い。なんでもよかった。急がなければ。奥村くんは曖昧に笑ってああとかうんとか相槌だけを打つ。次第に早足になる。つられて早口に。壊れたように喋り続ける自分。急がなければ。もう少し、あとすこしで寮に着く。急がなければ。奥村くんがなにかいうまえに――
「それでな、そいつがカノジョできたて言い始めよって、誰や誰やて問い詰めたらクラスの女の子やってん。そいつにだけは絶対カノジョできひんてみんな思っとったからなんやもう阿鼻叫喚ーて感じでもう口々に爆発しろ!て言うてな、それ聞きながらそれじゃ俺はどうなんやろと思って、俺も奥村くんと」
「志摩」
それまで歩調を揃えていた奥村くんが急に止まった。動き続けていた足と口が一瞬で止まる。まるで切り落とされたように。足が地面に縫い付けられたように。
出していた左足を引く。それからゆっくりと振り返って奥村くんと向き合う。三歩分の距離がひどく遠い。奥村くんは、困ったように笑っていた。
「志摩」
「――なんで?」
「おまえも見たんだろ」
それを聞いて、ああ、ピンポイントで地雷を踏んだんだと。
嫌な予感は、していた。
それは、いつでもなんでもないときでもふとした瞬間に訪れた。何も言わない奥村くん。言おうとしていることを言うタイミングを計っていて、自分はそれに薄々気付いてはくだらない話を吹っかけてごまかして。そうやって騙しだまし、付き合っているなんて言えないレベルで付き合ってきた。そもそも本当に付き合っているのだろうか。そう思うことも多々あって、それでも奥村くんが別れたがっているというその一点においてまだ続いているんだという安心を得る。いつだって身を引こうとする奥村くんと、縋り付いてしがみついている自分。頑ななまでに距離をとるのに気付いたのはいつだっただろう。いつか力が強すぎて相手を怪我させてしまうと言っていたから、だからなのかなと思っていたけれど。
「今日の復習。創世記19章17節」
「命懸けで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない――それがなに」
笑ったままの奥村くんにおまえやっぱりすごいな、と言われたけれど、全然嬉しくなかった。
「だから、もう別れて」
「嫌や」
「頼むから」
「嫌」
「志摩」
「…なんでそないなこと言うん」
黙ったままの奥村くん。情けないくらいに揺れる声。まるであのときと真逆だと思った。
「…奥村くんはずるい」
「ごめん」
「謝らんでよ…!」
鼻の奥に刺すような痛みを感じた。足元のアスファルトを見つめて目をしばたいて、もう一度視線を合わせた奥村くんは多分あのときの自分みたいに笑っていた。最初からもう自分に見切りをつけているようなその諦め声が、聞き分けのない子供を宥めるようなその笑顔が、見ていられなくて思わず目を逸らした。
「俺、奥村くんが好きなんよ」
肩で息を吸って、吐き出しながら口に出す。湿った声が出ないように。
「奥村くんは知らんかったと思うけど。ずっと前から。奥村くんがああ言う前から。あのとき、その場しのぎで言うたのとちゃうねんで」
「……知ってたよ」
知ってた。知ってて、知らない振りをしてたんだ。
奥村くんの声だけが鼓膜をすっ飛ばしたように奥で響く。他の音も周囲には溢れかえっているはずなのに、それらはまったく聞こえなくて、完全な静寂のようなこの状況に耳が痛い。うそ。そう呟いたはずだったけど、自分の声が聞こえることはなかった。もし本当に知っていたなら。だったら、あんな風に奥村くんが言う必要なんてなかったのと違うの。わざわざ自分を傷つけることなんて言う必要なかったのと違うの。がらがらと自分の中の前提が音をたてて崩れていく。
なんで。
ねえ、奥村くん。
なんで、いま、わらってるの。
「ごめんな、隠してて。でも、俺のせいだから。俺が…悪魔だからなんだよ」
そう言った奥村くんは、あのとき、なおも重ねられる言葉を遮った自分が、好きだから付き合うてくれと言ったときと同じ顔をしていた。
「――ひとつ聞かせて」
「うん」
しばらく前からずっと気になっていたこと。確証なんてあるはずもなく、気付いたというよりも、本当にただの予感。それ以外の何物でもない。だけど。
「最近よくあくびしとるよね」
「……前からだろ?」
「でも、増えとらん?」
「……」
嫌な予感は、前からあった。
「なあ、奥村くん、最後にちゃんと寝たのいつ?」
口を閉ざしたまま、少し首を傾げて曖昧に笑う。それが、答えだった。
「なんで――なんでそないなことするん?前もそうやけど、なんで自分のこと傷つけるようなことばっかりするん?前はそんなやなかったよな、なあ、なんで?自分のこと大事にできひんのは――悲しいことやって…っ」
なんでわからんの。言い出したら堤防が決壊したみたいにとまらない。なんで、どうして。問い掛けだけが口をつく。
「優しいんだな」
「そないなこと言うてほしいからちゃうねん!――あのときより後からだよな、俺なんかした?俺が付き合うてなんて言ったから?負担やったの」
「それは違うし、それに好きになったのは俺の方が先だから」
「そんなのわからんやん」
「俺の方が先なんだよ」
有無を言わさぬ、思いの外強い語気に何も言い返せなくなる。声を荒立てている訳ではないのに。むしろ、別れ話の最中には全然似合わない穏やかな声。
「――体力の限界がどのくらいなのかと思って。眠気はあるから居眠りとかはしちゃうけど、寝なくても意外と元気なんだな」
二人の中間地点あたりの地面を見ながら言う。なんて返せばいいのかわからなかった。
「俺の方が先だっていうのは…多分、俺が好きになったりなんかしたから、おまえが俺のこと好きだなんて思うのはそのせいだから」
「そんなの……っ!」
「授業でも習っただろ、男色、獣姦、近親相姦は悪魔の仕業だってさ。おまえの方がよっぽど真面目に授業聞いてるくせに」
なんで、いま、わらってるの。そんなかなしいこと言いながら、どうしてわらえるの。
「……絶対触ろうとしないのは」
声が震える。
「きっといつか解放されるだろ、そうしてれば」
呼吸ができなくなった。次の瞬間、目の前が真っ暗になった。そうしようと思うよりも早く奥村くんを力任せに抱きしめて、その肩に顔を埋めたからだった。
奥村くんが空気を飲む音が聞こえる。
「ちょっ志摩…なにやって…離せ…!」
「離さん」
「やめろ、志摩、」
「離さんから」
「離せ、頼む、離してくれ、お願いだから」
身をよじりながら、あのときみたいに苦しそうな声で言う。身体が強張っているのがわかった。本気で抵抗すれば、腕を掴んで振り払って引きはがすのなんて簡単だろうに。
志摩、そう呟いたかすれて泣きそうな声はさっきまでとはまるで別物で、歪んだ顔がはっきりとまぶたの裏に浮かんだ。懇願にも似たそれに、とてもおかしなことだけど、ああ、奥村くんに戻ったと思った。
「やめてくれ」
「やめへん」
「志摩!」
「……」
「離せ離れろ、俺は…おまえに俺のせいで間違ってほしくないんだよ……!」
「間違ってなんかない、好きになることは間違いやないやろ」
「全部俺のせいなんだ、だからやめろ、本当は――ほんとは俺のことなんて好きじゃないんだよ!!」
「俺の気持ちを勝手に奥村くんに決めてほしくなんかない!!」
ふたりして、もうほとんど悲鳴だった。腕に力を籠めたまま、感情に任せて叫んだら奥村くんの肩が小さく跳ねた。
切り出そうとしている話も、あくびも、みんな気のせいだと思いたかった。当たってほしくないときに限ってどんぴしゃりで当たる悪い予感。明るい笑顔から時折覗く陰。感づいていながら、ちゃんと見つめようとしてこなかった。触れない理由も笑顔のわけも、なにも考えないまま。ひとりで、ずっと奥村くんは抱え込んで。向けられる感情はその身に宿した魔性のせいで、本当はみんなまやかしだと思ってきたのだろうか。触れないままでいれば、いつか魔法が解けて離れていくと信じているのだろうか。最初からしょうがないと諦めていたのだろうか。人間ではないから。悪魔だから。奥村くんはそう言うけれど、半分はちゃんと人間なのに。まわりの人間の感情をコントロールしきることなんてできるはずがないのに。自分のせいで道を踏み外させるわけにはいかないと、自分を殺して、傷つくほうへと追い詰めて。それをひとりで抱え込んで、まわりに気付かれないように笑顔の裏に痛みを押し込めて。悔しかった。そんなこと思いもしなかった自分が。奥村くんひとりだけにそんな思いをさせていたことが。言葉にならない思いが渦巻いて、なにか言いたいのに、なにも言えなくて、ただ奥歯を噛み締める。
「――…志摩…?」
「ごめん、奥村くんごめんな」
「なに言って、」
「もうすこし…あとすこしだけ、このままでいさせて――十秒、それだけで、いいから」
奥村くんのことが愛おしくて愛おしくてたまらない。いままで思っていたのとは比べものにならないくらいに。でも、それすらも奥村くんは偽物だと思っているのだろうか。
耳の奥で聞こえるはずのない秒針の音が聞こえた。それが、爆発までの時間を数えるタイマーの音のようにも聞こえた。
ああ、もし。
もし、同性を好きになってしまうのがほんとうに悪魔のせいだとしたら。だったらこんなにこころがいたいのに、どうして俺は、悪魔じゃないんだろう。
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